第一章9  『ツムギ』

「――ほんと……なにしてんだろ…………」


 人のいない公園のブランコに座り、ぼそっと呟いたのはツムギだ。

 たまに近くを通る車の音。もしくは小刻みに揺れるブランコの錆び付いた金属音。

 それしか、公園にはいない。


「無断欠席は、良くないよね……」


 慈照寺紬は優等生だ。

 成績も、出席状況も、対人関係も。全てが、学年トップクラスだ。

 

 ――そんな彼女が授業を無断欠席する理由なんて、一つしかなくて。


「……わかんないよ」


 ツムギの胸を支配するのは、呆然とさせられる虚無感だ。

 煮え切らない感情。まとまらない考え。

 ――留められぬ想い。それは、あまりに、重い。


「――ダメなのに……」

「なにが駄目なんだ」


 ハッとツムギが顔を上げると、青年がいた。

 女の子顔負けの白い容貌。

 真紅の毛先からは、自然の神秘性すらも感じる。

 そして――、


 ――血に染まったような、赤眼。


「る、流榎君?」


 他を寄せつけない冷然とした瞳、空気、雰囲気。

 そんな冷徹さと共に、男の色気も醸し出す美青年。


「なにが、駄目なんだ」


 ツムギの動揺には見向きもせず、流榎はツムギを殊更追い詰める。


「……なんでも、ないの…………」


 逃げるように顔を伏せ、ツムギは気まずげに返答した。


「――そんなに偽って、お前はなにがしたいんだ」


「え――……?」


 あまりに想定外な返し。

 それを受け、ツムギは息を呑み、声を漏らす。


 隠してきた小さく固い箱を、不躾に開けられる――否、抉り出される感触。

 虚をつかれたように怯えるツムギの心。

 それは、矢で穿たれた子鹿のように、小刻みに痙攣していた。

 プルプルと。ブルブルと。


「なぜ隠す。なぜ偽る。なぜ飾る。なぜ装う。なぜ繕う。なぜ作る。隠して、秘して、匿して、カクシテ。なんの意味がある。そこに、なんの意義がある」


 意味……。意味なんて、ない。

 意義……。意義なんて、ない。

 これは使命であり、ツムギの十字架でもある。

 ツムギは『ツムギ』を装い、皆を幸せにしなければならない。疫病神なツムギが、せめて皆の足枷にならないようにできること。それは、笑うことだ。

 それが、ツムギの背負う罰であり、罪なのだ。


「僕にはそれが、理解できない」


 理解なんて、できるわけない……。

 ――だって、だって流榎は……。


「…………気にしないで。大丈夫だから。私、そろそろ授業戻るね」


 嬉しいはずなのに、苦しい。

 苦しいはずなのに、悲しい。


 胸がスプーンでぐちゃぐちゃに掻き混ぜられるような異物感を抱えながら、ツムギはブランコから立ち上がる。


 すると突然、流榎がツムギに近寄り、右手に持っていたマフラーをツムギの首元に巻き始めた。


 きっと、マフラーを巻いた経験などないのだろう。

 適当にぐるぐる巻きにしただけで、マフラーがツムギの鼻までを隠している。


「…………なん、で……?」


「忘れてただろ。だからだ」


 そんなことじゃない。

 違う、そんなことを聞いているのではない。


 数秒前まで冷血さを見せていたのに、唐突に優しさを見せてきたこと。

 

 ――もう、わけがわからない……。


「……ありがと」


「ああ、それと……ひとつ訂正がある」


 含みのある言い方をした流榎。

 巻かれたマフラーの温かさをしみじみと実感しながら、それにツムギは小首を傾げる。


「この前の、愛美さんの件なんだが……」


 ――愛美。

 ハロウィンの日に、流榎と行動を共にしていた女性の名だ。

 成人しているとはいえ、かなり若々しいのにも関わらず、ツムギが持ち合わせていない魔性さを身にまとった美女。


 ツムギは、もう話を聞きたくなかった。

 耳を塞ぎ、また走って、また逃げ出して、また別の公園で虚無感に襲われる。それでもいいと思うほど、ツムギは、ツムギの心は拒否反応を起こしていた。


 ――だって、あの女性は……流榎と…………。


「あれ、ただの勘違いなんだ」


 思い詰めていた自分が馬鹿らしく思えるほど、簡素に憶測を否定された。


「あの人に…………まあ、人との話し方を教えて貰ってたんだ。僕は人と話すのが得意じゃないからな」


 隠したが、ナンパだろう。

 ツムギ自身、あの日ベンチで声をかけられたとき、顔を見る前はひどく気後れした。


 ――誰だか分かってから、それは倒錯したけれども。


「そう……なんだ……」


 二人の関係に対する危惧が杞憂に終わったことを、どこか安堵する自分の気持ちを押し殺すように、ツムギは胸に手を添える。


「ああ、その弁明だけしにきた。誤解を払拭したかったからな」


 誤解?

 別に、誤解のままでも、いいではないか。

 なんのデメリットがあって、自分に釈明をしたのか、ツムギには理解できない。



「――僕は、君を狙っている」

 


 ねら、う?

 ね、らう……。


 ……。

 …………。

 …………………。


 ……………………――――ッ?!


「ど、どどどどういう…………?」


 狙う。

 ひどく抽象的な単語だが、それの意味することは限られている。特に、男子が女子に送るとき、その意味は極端に限定される。

 ツムギの動悸が爆発する。

 心臓の中で胎児でも暴れ回っているのではないか、と思わせるくらい乱暴で、今にも破裂しそうだ。


「る、流榎君……?」


 早く答えて欲しい。なんて考える自分が気色悪いのに、質問に質問を重ねることをツムギは止められなかった。

 色々な返答を想像してしまって、望みの返答を妄想するだけでツムギの現実の顔が紅潮する。


 流榎の黙る数秒が無限に感じ、流榎の唇を開く速度が光に思えた。


「……さあな」


 そんな乙女の心を踏みにじるような、素っ気ない返答と態度。

 流榎は曖昧な応えを残し、踵を返して学校に戻っていった。


「………………反則だよ……」


 『狙う』の意味が、非常に危険なものだとは、ツムギはまだ知らない。

 ……まだ、知らない。





 ――結局、ツムギは放課後までの時間を公園で過ごし、ホームルームが終わったのちに、教室に荷物を取りに行った。

 あんなふわふわした状態のツムギを、皆に見せるわけにはいかない。


「仕方ないよ……」


 担任の先生には腹痛と弁解しておいた。

 男性教師なので、それ以上の探りを入れることは不可能だ。さらに、ツムギ自身の素行の良さを考えれば、それを信じる以外の選択肢はない。

 ちょっぴりズルだけど。


「――む、ムギムギ……?」


 靴箱で靴を履き替え、自動ドアを通ろうとしたツムギの耳に、か弱い声が入る。


「あ、カレン!!」


 紺色のダッフルコートに、ツムギとお揃いの赤色のマフラー。

 綺麗な黒髪をボブという髪形にした、整った顔立ちの少女。


 ――なのに、スカートも短くしていないし、化粧も、着飾ることもしていない内気さ。

 ツムギも化粧はしていないけど。


 そんな陰気な少女――翁草恋おきなかれんが、定まらない視線で自信なさげに問いかけた。


「む、ムギムギ、だ、大丈夫……? じゅ、授業、い、いきなり居なくなっちゃって、し、しかも、放課後ま、まで帰ってこな、こないし、し、心配したよ……?」


 彼女は極度の人見知りだ。

 親友であるツムギにですらこの話し方だ。男子に声をかけられたときなんて、見るに堪えないほどに痛々しい。


「あー、ごめんね? 心配かけたよね。でも、大丈夫。帰ろっ?」


 上目遣いで気配りを表現しながら、カレンはゆっくりと首を縦に振った。

 

 たしかに、語頭はどもってしまうし、会話をするのもままならない。

 でも、彼女はすごく優しい。

 気配りや気遣いを考えるよりも先にできてしまう少女であるため、ツムギはもっと彼女には報われて欲しいと考えている。


「む、ムギムギ、だ、大丈夫?」


 校舎から校門への道のり。

 枯れた紅葉を踏み、シャキシャキとした音を鳴らしながら、カレンが不安げな顔で呟いた。


「……なにが〜?」


「な、なんかね……。う、嬉しそうなのに、か、悲しそうな、く、苦しそうな顔、し、してる、よ?」


 ……やはり、親友とはすごいものだ。

 ツムギが懸命に心の内を隠そうとしても、それをいとも簡単に見抜いてくる。

 ツムギにとって、それはとても嬉しく、とても悲しかった。


「……カレンは、すごいね。……で〜もっ! 大丈夫っ!!」


「そ、そうなの? そ、それな、ら、い、いいけど、な、なにかあったら、い、言ってね?」


「うん! もちろん! だから、カレンも言うんだよ?」


 カレンは可愛らしくコクコクと頷いた。

 女のツムギでもキュンキュンしてしまうような仕草だった。


「……む、むムギムギ、そ、それって恋……?」


 カレンに見惚れていた心が、一瞬で射抜かれた。

 まるで、矢先に毒でも塗られているかのように、ツムギの体が麻痺して、苦しくなる。


「……さあ、ね?」


 目をキョトンとして小首を傾げるカレン。

 ツムギは彼女を見て、くすくすと微笑む。


「カレンこそ、どうなのぉ? す・き・な・ひ・とっ、できたー!?」


 カレンはゆでダコのように顔を染め上げ、口を結んで下を見た。


「……え、まじ? まじまじまじ!? カレンにもついにできたの?!」


 しまった、『にも』と余計な言葉を入れてしまったとツムギは後悔したが、紅潮したカレンはそんなことは気づかない。


「す、すきでは……な、ないよ? えっと、そ、その、えっと……」


「気になる、とか?」


 カレンはゆっくりと慎重に頷いた。


「そっかぁ! ついにカレンにもできたんだね〜。いいね〜。青春だねぇ!?」


「む、ムギムギ、お、おばさんみ、みたいなこと、い、言ってる……」


 カレンのツッコミに、「こーら」と形だけのゲンコツをし、ツムギは柔らかく微笑を浮かべる。


「黒東高校?」


「う、う、うん……」


 どうやら同じ高校らしい。

 なら、ツムギが応援する以外の手はない。

 来年の修学旅行までに恋が実るように陰で動くとしよう、とツムギはニヤニヤしながら考えた。


「名前はー?」


「えっとね…………いい、いいいいい、言えないっ!!」


 なんっっって可愛い生き物なんだろう。

 それと同時に、なぜカレンはモテないのだろう? と疑問がツムギを支配した。


「LINEは? 持ってるの?」


「う、うん」


「んー、じゃあさ、せめてイメージカラー教えてよ」


 カレンは斜め上に目をやりながら、イメージカラーを思い浮かべているようだ。

 懸想する彼の容姿を思い出したのか、またもやカレンの顔にリンゴが二つ落ちた。


「し、強いて言うなら…………赤、かな」


「赤かぁ。いいねぇ。応援するよ私!!」


 そう、ツムギは他者を助け、救い、勇気づけ、笑顔にしなくては、ならない。

 ならないんだ。絶対に。


 ――それが、ツムギができる唯一の償いであり、贖いである。


 だから、慈照寺紬が心の底から笑うことなんて、



 ――――許されていないんだよ。



 そのとき、カレンのスマホから電子音が鳴った。

 メッセージが届いたようで、カレンが液晶に目を向けると、彼女はすぐに慌てふためいた。

 きっと、焦がれる彼からの連絡なのだろう。


 カレンには、幸せになって欲しい。

 私みたいに、なってほしくない。


 とっさにカレンが隠したスマホの液晶に映るメッセージ。

 そのメッセージの差し出し人は、むろんカレンが好意を寄せる相手だった。

 その出し手の名は――、











 ――鹿苑寺流榎。




 二人の親友は、一年後には、親友ではなくなっていた。

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