第一章8 『虚ろな天使は笑えない』
「――る、流榎君?」
「……慈照寺?」
首から口元を、赤いマフラーで隠した少女――ツムギが目を点にして投げかけた。
その問いかけ――否、目の前に座る少女の存在に、さすがの流榎も動揺を隠しきれなかった。
「ど、どうしたの?」
「いや、その……」
次に繋ぐ言葉が見つからない。
『ナンパをしていた』などと言えるはずも無ければ、他に適した言い訳などもない。
流榎がこの状況の解決策を模索していると、
「あ、このマフラー? これかわいいよね。ままが買ってくれたんだぁ〜。色合いがクリスマスっぽくて、ちょっと早いかもしれないけど、すご〜くお気に入りなんだよね〜。しかも、凄い暖かいんだよ。ルカくんも付けてみる? ていうか付けてみたかったんだよね!」
慈照寺紬の憂鬱が、晴れた。
――否、晴らした、と言うべきだ。
相手に心配をかけないための行動であることが、流榎ですら察せる。
ツムギは、首に巻いてあるマフラーを取り、流榎の首に大雑把に巻いた。
口元までを覆ったマフラー。それに手をかざすし、流榎はツムギと視線を交錯させる。
「あったかい?」
「……ああ、そうだな。温かい」
ツムギのいつもの無駄口に、流榎は救われた。
巻かれたマフラーは、秋の肌寒い風から首の動脈の熱を護ってくれる、とても温かいものだ。
流榎の言葉を聞き、ツムギは少し顔を傾けながら、太陽のような明るい笑顔を向けた。
「慈照寺は、なんでこんな所に居るの?」
「まず慈照寺じゃなくて、ツムギでいいよ!」
「分かった。紬、だな」
突然、ツムギの視線が流榎から外れた。
流榎も同じ方向に目をやると、
「あれぇ? ルカっちぃ。お知り合い〜?」
コートのポケットに手を突っ込みながら、妖しげな目を向ける美女――愛美だ。
「あぁ、そうです。知り合いです。同じ高校で」
流榎はツムギの紹介をしながら立ち上がり、愛美に近づく。
ツムギは状況が呑み込めないようで、視線が流榎と愛美を行ったり来たりしていた。
流榎は愛美の耳元に口を近付け、
「例の薔薇です。赤薔薇」
流榎の極めて簡潔な言葉に、愛美は目を見開いた。
女子高校生に向けるには、あまりに魔性な目でツムギを見据える。
「あらぁ。こんにちは〜。可愛いお顔の子ねぇ。さぞかしモテるでしょ〜? ルカっちにはもったいないわぁ」
「あ、ああ。こんばんは。えっと、慈照寺 紬です。ルカ君とは同じ高校で、ともだ――いや、知り合い? 的な感じです」
「そんな遠慮しなくていいのに〜。というか二人はどんな関係なの〜?」
何もないのを知りながら、悪意のある言葉を高校生二人に向ける愛美。
ツムギは小首を傾げたのち、すぐに顔を赤くした。
「愛美さん。本当にそういうのじゃないんで勘弁してください。紬にも迷惑かかるんで」
魔性を醸し出した眼差しの愛美。それに危機感を感じた流榎は、すぐに制止に入った。
しかし、そんな体のいい言葉で、魔女が止まる筈もなく――、
「でもさぁ。この子は案外満更でもないかもよぉ〜? ねぇ〜どーなの? かわいこちゃん?」
隠しきれない豊満な胸を強調するような前屈みで、愛美はツムギに問う。
「あ、えっと、本当にただの、とも……だちだと、私は思って……ます」
ツムギはただでさえ熱くなった頬をさらに赤く染め上げながら、愛美に返した。
そのツムギの回答に、「へぇ〜」と興味津々な様子で愛美は声を漏らす。
そして、化粧ごときでは隠しきれない素の美貌を、流榎の肩に添えるように置きながら、視線だけをツムギに投げつけた。
「ならよかったぁ。私、この子と真剣にお付き合いしてるからねぇ〜。ほんとによかった」
「は?」
「え?」
二人の高校生は一人の魔女の言葉を呑み込めない。
まず呑み込めるはずも無かった。それほどまでに理解不能な言葉である。
流榎は定まらない思考を整理しながら、
「え、愛美さん何言ってるんで――」
流榎の唇に人差し指を重ね、愛美は再びツムギに視線を向ける。
また状況がややこしくなり、ツムギは理解に苦しんでいる。
「だって良いんでしょう? オ・ト・モ・ダ・チ? なんでしょ? 私たちのこと応援してくれるわよねぇ?」
底意地の悪い魔女の目線。
それを一向に崩す気配もなく、目の前の穢れを知らない少女に問いかける。
「え? いや、その、だって……え、冗談ですよね……だって、え、そんなこと……というか、流榎君はまだ、未成年ですし、その、あなたは、すごくお若くてお綺麗な方ですけど、多分二十代前半くらいだと……思うんです……だから、それは……あんまりよくない……というか……」
当惑に彩られた瞳を、訴えかけるように流榎に向け、
「流榎君は……どう……なの?」
孤独な子兎のような顔で、流榎に上目遣いを送るツムギは、震えた甘い声を流榎に届ける。
「いや、別にそんなのはなく――」
――突如、唇に感触を感じた。
無理矢理、不躾に押し付けられるような感覚。しかし、柔らかく優しい物に包まれるような感覚。
そんな、矛盾した物に呑み込まれながら、流榎は考えを巡らす。
そして、理解した、
――愛美の唇と自分の唇が重なっている事を。
その証拠に、眼前には長い睫毛を生やし、目を閉じている女性がいる。
流榎は愛美を体から離すことよりも、右側で座っているであろう一人の少女――ツムギの様子を伺う事を優先した。
「う…………そ………………」
口元を手で覆いながら、目を見開いた少女。
その困惑と疑問の矛先は、今行われている珍妙な接吻に対してだ。
流榎はとっさに愛美の肩を掴み、強引に体を押し離した。
「――何してるんですか」
「――――」
愛美は何も答えない。
自分の唇に手を当て、流榎でもツムギでもないどこかに目をやっている。
何も無く、どこでもない場所に。
そんな奇々怪々な空気を切り裂いたのは、傍観者として二人の接吻を見せつけられたツムギだ。
彼女は立ち上がり、ハロウィンの騒々しさを切り開くように全力で駆けていった。
流榎は追うかどうか逡巡したが、弁明する方法などない。
加えて、弁明する必要も、ない。
以上の理由で、ツムギを放置することにした。
「マフラー……」
流榎の首元は、秋風を浴びることはなかった。
ツムギの赤いマフラーが、未だ健気に流榎の首を守っていたのだ。
――しかし、今の優先事項はそんなことではない。
「……なんでこんな事を?」
流榎は不信感を抱きながら、この事態を招いた根源に聞く。
「……いや、あの子の気持ちを確かめようと思っただけよ。ごめんね。酷いことした」
愛美は自分の唇の皮を無秩序に剥く。
唇の肉が外気に触れ、鮮血に彩られていく。
付着した口紅の紅を呑み込むほどに赤い鮮血だった。
「……そんなに嫌なんだったらなんで」
「……これは違うよ。癖なの。こういう癖。ごめんね。嫌とかじゃないんだ。それはわかって欲しい」
被害者のように、悲痛に歪んだ愛美の表情。
――まさか…………。
「……ええ、そうね。…………私が言うのはなんだけど、追いかけなくていいの?」
愛美の自責の念に苛まれた眼差し。
それを払い避けるように流榎は、
「はい。大丈夫です」
「そう……。――天使みたいな子だったわね」
「まぁ、そうですね。高嶺の花の『皆のツムギちゃん』ですからね」
「あら、意地悪な言い方ね」
「別に意地悪なんてしてないですよ」
首に巻かれたマフラーに触れながら、流榎はすげなく言った。
あいつは、皆が夢想し、尊敬し、崇拝する、『ツムギ』だ。
その需要に応え、供給するために生まれたツムギ。
それは偽りだ。
――そんなの、感情じゃない。
「……でも、空っぽだったわ」
「空っぽ?」
「ええ、空っぽ。取り繕ってるわよ、全てを。自分の心の中に空いた穴を見られないために。自分の虚ろな部分を隠すために。まぁそのへんは私には分からないわ」
自分の虚ろな部分を隠すため?
他者を思いやっての行動ではなくて?
愛美の考察は、流榎とは正反対のものだった。
「どういうことですか? 愛美さん」
「――あの子は、相当重いものを背負ってるわね。おそらく、過去に」
言われてみれば、ツムギはときどき昏い顔をしていた。
厭世的な思考。
この世の全てを見限り、その残酷な世界に順応しようとする心意気。
ツムギからはそんなものを感じる。
「愛美さんは、なぜそう思うんですか?」
「笑顔よ」
「笑顔?」
「私が割り込む前からいちおう観てたけどね。あの子笑ってないもん。一度たりともね」
愛美の発言に、流榎は合点がいった。
ツムギと初めて出逢った時から感じていた違和感、異物感、不快感。嫌悪感。
『心』が死んでいる流榎だからこそ感じる物。
それは――、
「あの子は感情を装ってるわよ」
流榎が全くもって理解できない行動である。
慈照寺紬の『心』は、死んでいないはず。なのにも関わらず、なぜ感情を装う必要があるのか。
せっかく授けられた『心』を包み隠して、わざわざ紛い物を創り出し、それを真実と偽る行為。
息をしていない『心』を持つ人間だからこそ感じる不信感。
献呈された『心』を否定するという行いは、流榎にとっては甚だ懐疑的だ。
それゆえ、底無しの嫌悪感があった。
皮肉なことに、ある意味、流榎の『心』は、この嫌悪感を感じるときのみ、生き返っていたのかもしれない。
そして、流榎は気付いてしまった。
――僕の『心』は、人の感情のみを感じる事が出来る。
と。
流榎自身は、感情を感じることは出来ないが、他者を通してのみそれを感じることが出来る。
『感情』という人間の構成に必要不可欠なパーツが欠けている流榎。
彼が『感情』を理解できる唯一無二の方法。
それは――、
「――ボロボロにして、極限状態まで追い込んで、感情を間近で観察する、か」
そう、全ては東峰との復讐? に直結する。
虐げてきた物に虐げられた者の表情。
それは、蜂蜜よりも甘く、チョコレートより甘味で、頬がとろけるような美味なのだろう。
「――人の心は蜜の味」
ぶつぶつとひとり言を重ねる流榎を、愛美は怪訝そうに見据えた。
その愛美の視線に気づいた流榎は、愛美に問いかける。
「…………紬は、『笑わない』のでしょうか。それとも『笑えない』のでしょうか」
一見そこまで大差ないように聞こえる二つの言葉。
しかし、『心』を学び、手に入れたい人間にとっては大きすぎる違いであった。
「んー、そうね。まぁ多分だけど――」
愛美は真剣な眼差しを流榎に送る。
それに応えるように流榎も目を合わせる。
「『笑えない』でしょうね」
あの女は笑うことを許されていない。
否、自らの意思で笑うことを封じている。
それがツムギ自身の戒めなのか、誰かに十字架を背負わされたのか。
――探りを、入れるか。
ハロウィンは依然として健在であり、乱痴気騒ぎが起こっている。
それを軽蔑するように、夜空の星々は淡い光を照らし続ける。
まるで、すりガラスでも間に挟んだように、有耶無耶な星々の光。
大通り駅への道中、そんな星達を二人は見上げていた。
「んーじゃ、ここでお別れかな。ルカっち」
地上と地下鉄をつなぐ階段で、愛美が流榎に声をかけた。
「はい、今度は飯、奢ってもらいます」
「ルカっちは、今後も私と会ってくれるの?」
理解不能な質問だった。
愛美の方が色々と啓蒙してくれるというのに、なぜそのようなことを言い出すのだろうか。
「だって、ルカっちが私と会う意味って、天使な薔薇ちゃんオトスためでしょ?」
「まぁ、建前上はそうですね」
「じゃあ、もう用済みじゃないの? わたし」
――何を言っているんだ。
この言葉が流榎の頭の中で何度も反芻された。言ってることが矛盾しすぎている。
ツムギを落とすために愛美が必要なら、まだ愛美は流榎にとって必要ではないか。
「……はい? だから、愛美さんが必要なんでしょ? ワインの飲み過ぎですか? 酒は飲んでも呑まれるなって言うでしょ」
流榎の言葉に愛美は絶句した。
そして深く嘆息して、愛美は呆れたように口を歪めた。
「……あー。なるほどなるほどぉ。そーかいそーかい。こりゃあ天使ちゃんも、その他の男子諸君も報われないねぇ〜」
「さっきからなにを――」
「まぁまぁ、分かったよ。今後も教えちゃるよマセガキドンカンキッズくん。あー、えっちな事は期待しちゃダメよ〜?」
「いらないですよ。気持ち悪い」
「いや、言い過ぎ……冗談じゃん」
「愛美さんの場合は分かりませんよ。色仕掛けふんだんに使って金巻き上げてきそうですもん」
いつもの無駄口によるたわいもない話。流榎にとっては、そんな認識だった。
しかし、最後の流榎の一言で愛美の表情が変わった。
愛美は再び唇に手を当てる。
そして、そのまま己の唇を無作法に剥くと流榎は思った。
――が、愛美は唇に手を当てた直後、ハッとしたようにして瞳に光が戻った。
「……まぁーね? それとごめんね、今日の事。少し酒入っててハイになってたのもあるけど、本当に酷い事したと思うわ。あなたにも……あの子にも。まさかよりによって、なんで私が……いきなりキスなんてね……しかもよりによってキスって……なんでだろうね……」
「気にしないでください。ファーストキスが愛美さんみたいな美女だったんです。光栄なことですよ」
後悔に呑み込まれていた愛美を、慰めるように流榎は言う。
しかし、ファーストキスという言葉を受け、さらに愛美の顔が悲劇に侵された。
どうやら流榎は、またもや悪手を取ったらしい。
「……あぁ、ええ、そうね」
「はい。じゃあこれで」
女を宥めるのは骨が折れる。
逃げるように、流榎が階段を下ろうとしたとき、
「――最後にひとつ」
愛美の言葉に再び流榎は、足を止める。
「なんですか」
「今その手に持ってるマフラー。あの天使ちゃんのやつでしょ?」
クリスマスを連想させる赤いマフラーが、流榎の左手にある。
ツムギが忘れていったものだ。忘れたとは少し語弊があるかもしれないが、そこまでの差異はないだろう。
「はい。そうですが」
「もちろん返しに行くよね? そこで一つアドバイスぅ。返すとき、ただ返すだけじゃなくて、天使ちゃんの首にマフラー巻いてあげなさい?」
「なんでそんなこと」
「はーい。大人の言うこと聞く。私は先生よ? 言うこと聞かないと死刑にするわよ」
「言う事聞かないからって死刑にする先生がこの世に存在したら、法治国家も糞もないですね」
愛美はいつもの魔女のような、底意地の悪い笑顔を取り戻しつつあった。
「うるさいわね〜。まぁ取りあえず、マフラーはちゃんと返すとき、首に巻いてあげなさい。絶対よ? 破ったらもう一生会わないからね?」
「いや、まぁ、別に僕はいいですけど」
「やっぱ死刑ね。死になさい」
「分かりましたよ。まぁやれるだけやってみます。……あと、愛美さん。ひとつ――」
愛美は眉を上げ、可愛らしく首を傾げた。
「――女を、従順な駒として扱いたいって言ったら、怒りますか」
愛美は数秒押し黙った。
そして自嘲げに笑い、ウインクをして、
「――怒らないわよ。ぜんぶ、教えてあげる」
流榎はこのとき、今後の指針を一つ固めた。
それは、己の美貌を利用し、女を駒として盤面を動かしていくこと。
まるで、チェスのように。女を、ポーンとして。使い捨ての、駒として。
そんな最低な考えは、虚ろな天使のマフラーから着想を得た。
皮肉なことに。
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