第一章6  『水嫌いの紫陽花』

 2018年10月25日木曜日。

 東峰との邂逅から丁度一ヶ月が経った頃。


「よし、いくよ。海瀬」


「はい!」


 合図と共に、ナイフを握った浅田が海瀬に向かう。


 浅田が右手を突き刺す。

 海瀬の体にナイフの先端が当たり——、


「ほっ!」


 寸前、海瀬が浅田の左側に回る。

 海瀬の胴体に当たるはずだったナイフをかわされ、浅田はそのまま勢いよく前に出た。


 浅田の伸ばした右腕の根元を、海瀬は側面から、左腕で押さえる。


 浅田の動きが鈍る。

 突き刺そうとした右腕が押さえられ、四肢の内一つの自由を奪われる。

 さらに、海瀬がいるのは、浅田にとって右側という不利な状況。


 その隙を、海瀬は見逃さない。

 実践で最も有効かつ、合理的な一撃——蹴りによる金的。それを海瀬は右足で浅田に打ち込もうとする。


 ——途端、海瀬の軸足である左足が宙に浮いた。

 海瀬は、両足の自由をなくし、後ろに飛ばされ、教室のマットに尻もちをついた。


「いてて」


 海瀬が軽く痛がる。

 しかし、浅田が容赦するはずも無く、右手のナイフを海瀬の胸に突きつけた。


「はい。アウト」


「いや、反撃なんて聞いてないっすよ!」


 長く伸びたパーマ風の茶髪を靡かせながら、爽やかに煽る浅田。

 海瀬も両手を上げ、苦笑を浮かべて応答した。


「いや、初めて君がちゃんと攻撃をいなせたからさ。つい、反応しちゃった。ごめんね」


 浅田は二十代前半らしい。

 だが、その本人の整った顔のパーツを見ていると、高校生でも十分通用するレベルである。


 対して、顔面の美丈夫さでは負けない海瀬悠うみせゆうという男。

 左耳にピアスを開け、髪は明らかに染めた金髪。

 チャラついた格好ではあるが、自分の容姿への劣等感から生まれたものではないだろう。

 それは、海瀬の顔のパーツを見ればわかる。


「大体お前、金的入れようとしただろ?」


「え、いや、まぁ、浅田さんに勝てるかもって思ったら冷静さ失っちゃいました」


 海瀬は後頭部を掻きながら、また苦笑を浮かべる。


「まぁ、あんくらい来ないとね。次からは殺す勢いで来なよ? 俺も殺す勢いでいくから」


「いや、命が百個あっても足りないっす……」


 ――ここは、体術を扱う教室である。

 流榎は通い始めて三週間というところ。

 黒東高校と姉妹校の、黒西高校の男子生徒――海瀬と流榎の二人で、浅田に学ぶという体制だ。


 むろん、流榎も浅田と何度も手合わせをしている。

 海瀬はボコボコにできるのだが、浅田には足元にも及ばない。

 これが年季の差、というやつなのだろう。


「おーい。鹿苑寺。次やるかい?」


 浅田が流榎に向かって、世の女性が転げ回るほどの美声を向ける。


「はい。是非」


 と、流榎が返答したところで、教室のチャイムが鳴る。


「ああ、もう八時か。残念だけど、また来週かな? まぁ来たくなったらいつでも来なよ。空いた時間見てあげるからさ」


「はい」

「うぃ〜す」


 各々が返事をし、帰宅の準備をする。

 教室の生徒に、女性はいないので、移動せず、その場でジャージから制服に着替える。


「じゃあ、お疲れ様」


 浅田の一言に呼応するように軽くお辞儀して、二人は教室から出た。

 秋の終わりを告げるような肌寒い風が二人に当たる。


「そういやさ、今度まぁまぁいいバイト行くことになったんだけど、ルカもついてきてくんね?」


「なんで」


「いや、なんか一人だと緊張するんだよ! 頼むからさぁ!」


 海瀬は手を合わせて流榎に懇願する。


「……なんのバイト」


「ホストクラブ!」


 目を輝かせながら、海瀬は決め顔で言う。


「却下。一人で頑張れ」


「そうやってつれない事言うなよ〜。まじ給料とか良いらしいしさ! な! 頼む一生のお願い! モテる秘訣とか学べるかもだしさ!」


 絶対に流榎は願いを聞くつもりは無かったが、給料の良さに反応してしまった。

 そんないい話など無いとは思っているが、まぁ、お試し程度ならいいか、と考え、


「いつ?」


「明日!」


「…………」


 なぜ今まで黙ってたんだ、と疑問に思いながらも流榎は試しに出てみる事にした。



 ※



 2018年10月26日金曜日。



 ————これ、僕には無理だ。


 流榎は去っていく女性の後ろ姿を見ながら、口の中で呟く。


 開店してから一時間弱。

 新人ということもあり、勿論指名など無いので、新規の客に主に付いていた。


 しかし、女性たちと話してみると、日々の愚痴や色仕掛けなどが大半であり、流榎にとってはとても居心地の悪いものであった。


 ホストとして、しっかりと女性達に受け応えをしなければならないのにも関わらず、流榎はいつも通りの冷たい口調でしか話さないため、六人ほどの客についたが、全員五分ももたずに怒って帰ってしまった。


 流榎の仕事ぶりは『仕事放棄』と言われても文句の言えない内容であり、流石に危機感を本人も感じていた。


「きみ。なんかまた怒って帰っちゃったよ? なんかしたの?」


 黒服のウェイターが流榎に怪訝そうに聞いてくる。


「いや、何もしてないです 」


「逆に何もしなさすぎてるんだよ」


 背後から、聞き覚えのある男性の声が聞こえてくる。

 振り向くと、カイトが流榎の方を笑いながら見つめている。

 カイトはこの店のナンバーワンらしい。


「まぁ、高校生には難しいかもしれないかな。海瀬君は結構上手くやってるみたいだけどね。まぁ、俺らの対応とか見て学びな。それまではヘルプについて貰うから。頑張ろうな」


 流榎の肩を軽く叩きながら、優しく語りかけてくる。


 ——その後、流榎はヘルプ(担当ホストを補佐する役割)につき、ベテランの方々の助力もあり、半人前程度の仕事はようやく出来るようになっていた。


「よし、良くなってきたな! このまま頑張ろう!」


 すると、入口の方から三人の女性が来店してきた。

 三人とも肌の艶は高校生とそう大差ない。

 女慣れしたホストですら見惚れてしまうほどに、綺麗な女性たちであった。


 中でも中央の女性は桁違いであった。

 以前、東峰や慈照寺に対して、『妖艶』という物を感じた事が馬鹿馬鹿しくなる、色気と妖艶さを身にまとっていた。


 しかし、目付きが悪く、男達を見下すような目をしている。


「あー、とんだ大物が来ちまった」


 カイトが焦りを露わにした表情で呟く。


「取り敢えずいくよ。きて」


 カイトに腕を引っ張られながら、流榎は三人の女性の元へ向かう。

 

 カイトに腕を離されて、流榎が周りを見渡すと、六、七人のホストが女性達を囲むように立っている。


「いらっしゃいませ」


 カイトが軽くお辞儀をしながらそう告げる。

 続くようにして、周りもお辞儀をする。


「カイトおひさ〜」


「お久しぶりです」


 左の黒髪ロングの女性が手を振りながら、カイトに話しかける。


「いつも通り、わたくしカイトとヒカルが御相手させて貰おうと思っておりますが、如何でしょうか?」


「うん。私はいいよ」


「まぁ私もそれでいいよ」


 左の女性に続いて、右の黒髪ショートの女性も応える。


「マナはどーする?」


 黒髪ロングの女性が、真ん中の女性に質問する。

 真ん中の女性は、長い茶髪を巻いており、前髪もまた長く、左目を隠すように流していた。


「いや、私は別にどーでもいいよ。すぐ帰るだけだ——」


 真ん中の女性が言葉の最中で、流榎と目を合わせる。

 そのまま言葉を中断し、ハイヒールの音を立てながら流榎に近付いた。


 女性は流榎を見上げる形になり、二人の距離はおよそ三十センチ。


 そして、流榎の頬を滑らかに触り、


「――私、この子にする」


 流榎の初めての指名は、妖しい魔女からのものだった。





「名前は?」


 中世ヨーロッパの貴族を彷彿とさせる、豪奢なソファー。

 そこに座るのは、一匹の若造と、美しき魔女だ。


「あー、ルカでやってます」


 魔女――マナからの問いかけに、ぶっきらぼうに流榎は答える。 


「ルカくんか。本名でしょ?」


「はい」


「あーやっぱり? 漢字はなんて書くの?」


「流れるに、木に夏で流榎です」


「へぇ〜、かっこいい名前だね」


 なまめかしい声を出しながら、マナがゆっくりと流榎に近づく。

 マナは自身の豊満な胸を、流榎の左腕にこすりつけるようにしながら抱きしめた。

 

 他のホスト曰く、マナは大の男嫌いだそう。

 ナンバーワンのカイトですら、酒どころか、一言も会話させてくれなかったとのこと。


 だが、現在のマナの行動は、とてもじゃないが男嫌いには見えない。

 むしろ、その妖しげな魅力で男を誑かしてそうだ。


「…………マナさんこそ、どんな漢字なんですか?」


「私は、愛に美しいでマナミ。マナは愛称みたいなもんで、本名は愛美よ。一条愛美いちじょうまなみ


「綺麗な名前ですね」


「そうかな? ありがと」


 恋人同士のような距離感で、二人は言葉を交わす。

 と言っても、マナ——愛美が、流榎に近付いているだけだが。


 流榎は耐えきれなくなり、左腕から愛美を引き離した。


「すみません。そういうのは勘弁していただきたいです」


 愛美は、流榎の言葉を無視するようにまた近付いた。

 左手の人差し指で、流榎の胸辺りを円を描くように触り始めた。


「…………やっぱり。君が初めて。今までの出会ってきた男の中で。――他の連中とは本質的に違う」


「なにがですか」


 すると、愛美は流榎の左耳に口元を近付けて、


「私と似ているとこ」


 息が大半を占める声で囁く。


「だから、なにがですか」


 流榎は食い気味に反応した。

 こんなにも容姿端麗な女性に囁かれても、何も感じない心に自嘲じみた嘆息をぶつける。


「そういうところよ。私みたいな美人なお姉さんに色仕掛けされて、ボディタッチも軽々しくされて、耳元で囁かれてるのに、君は顔色ひとつ変えない。心拍数も上がらない。これって可笑しいと思わない? それとも私みたいなおばさんタイプじゃなかった? 綺麗じゃなかった?」


「まずおばさんと言うほど歳とってないでしょ。それに綺麗な顔だとは思いますよ」


「おばさんよ。もう23だもの」


「23がおばさんなら新婚者の大半がおばさんで結婚してることになりますね。それに今出てる若手女優も——」


「理屈っぽすぎ。君、顔良くなかったら地雷の中の地雷ね」


 魔女のような不気味な美しさのある笑み。

 その色気に、愛美は赤ワインを添える。


「それに、私はナンバーワンキャバ嬢よ? 男の事なんて何でも分かっちゃうわ」


「男嫌いとお聞きしましたが」


「ええ嫌いよ。男なんて全員死ねばいいと思ってる。あぁ、君は対象外かな。まぁ男が死んだら私、失業しちゃうけどね」


 髪で隠れた左目を薄らと見せ、同時に大人の色気もふんだんに魅せる。


「……なにかあったんですか」


「タブーよ。そういうこと聞くのは、ホストとしてタブーよ」


 流榎の口元に指を付けながら囁く。


「だって、男なんて、煩悩に塗れて、獣のような本能でしか女性を見れないケダモノでしょ。女性を見るのは、いつだって顔と体。それ以外は興味なし。そんな生物と私は接したくない」


「僕も男ですが」


「君は違う。他の連中とはね。さっき言った通り私に対して欲情しなかったでしょ? 顔は綺麗だと思った。体も大人びてると思った。でも、何も感じない。そうでしょ? 君は。ねぇ当ててあげよっか? 君の事。君ってさぁ——」


 愛美は少し離れていた顔をまた、耳元に近付け、


「何も感じないんでしょ?」


 流榎はその言葉に焦りを感じる。

 むしろ焦りを感じた自分に驚いた。

 そんな感覚が自分にあるとは思っていなかったからだ。


「感情……無いんでしょ? 心……死んでるんじゃない? いや、死んでると言うよりはも——」


「だまれ」


 女性に向けてはイケナイ口調と言葉。

 それにたじろぐ素振りも見せずに、愛美は笑う。


「あら、こわい。殺されちゃう? でも、安心して? 私も仲間だよ」


 仲間?

 どういうことだ?

 流榎は思わず眉をひそめる。


「私も六年前から死んでるの……心。まぁ君ほどではないかもしれないけどね。キャバ嬢になったのも嫌いな男共から合法的に金を巻き上げるため」


「なるほど。それは合理的ですね」


 密接に近づいていた体を愛美は離す。

 赤ワインを少量飲み、一息ついたところで、


「君、落としたい女の子とかいないの?」


 その言葉に流榎は慈照寺紬を連想した。

 恋愛感情があるわけでは無いが、目的の為なら落とす必要があるかもしれない。


「まあ、落としたいというよりは、落とさなきゃいけないって感じですけどね。面倒だからあまりしたくないんですけど」


「なにそれ。言ってることめちゃくちゃ〜。思春期真っ只中のマセガキ中学生みたいな誤魔化し方じゃない? でも、嘘をついてない事は分かるよ」


 愛美は、流榎に危ない女の眼差しを向ける。


「どんな女の子なの?」


「学校のマドンナ的存在です。優しくて、陽気で、可愛くて、異名も付けられてます」


「……なんて?」


「『棘無しの赤薔薇』」


「……そう。さぞ可愛いんでしょうね。あと気が合いそうだわ」


「……愛美さんも付けられてたんですか? 異名」


「ええ」


「なんて?」


「『薔薇色の紫陽花そうびいろのあじさい』なんて言われてたわね。もう七年位も前の話だけどね。私めちゃくちゃ可愛かったからさ。陽気で誰にでも優しく接してた。男女関係なく、ね」


「ソウビイロの紫陽花……それがどうして」


「……ひ、み、つ、よ」


 愛美は上目遣いを向けながら、不気味な笑みを露わにする。

 突如、ポケットの中に紙を入れられた。


「名刺よ。女の子のオトシカタ、私が教えてアゲル」


 愛美は、また赤ワインを口に入れる。

 上品な色気をまとう女性は、赤ワインに最も適した存在に思えた。


 ワイングラスを置き、一拍置いて、


「赤薔薇がいるってことは青薔薇もいるんじゃないの?」


 愛美の鋭い見解。

 彼女の瞳には、なにか確信めいたものがあった。


「ええ。居ますよ」


「どんな子?」


「冷たくて、無愛想で、陰気で美しい感じです。『棘塗れの青薔薇』なんて呼ばれてます」


「黒東高校?」


 流榎は鋭い目付きを向けられた。


「はい」


「……嫌いな文化だわ」


 なにか苛立ちを隠すような気配で愛美は呟く。


「もし、君が赤い薔薇と青い薔薇、どちらかを選ばなければならなくなったら……どうする?」


「僕は……」


 そんなもの答えは一つしかない。答えるに足らないほど明確な答え。

 最初から決まっている。

 優先順位など、端から、初めから。


 その答えは——、









「――どちらも選びません」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る