第一章5  『死神』

 2018年9月30日。東峰と屋上で出逢い、廃ビルで最初に密会してから五日が経った頃である。


「――やはり、なにか習うしか無いか」


 黒東高校の図書館にて、体術の本を熟読していたのだが、かけらも分からなかった。

 流榎は喧嘩の経験など皆無で、腕立て伏せすらまともにできないほどの、いわゆる『ひょろがり』だ。


『クラヴマガ』という護身術を扱った教室が札幌にあるので、そこに通うか検討中。

 そして、本を閉じ、顔を上げると、眼前に『顔』があった。


「は?」


 顔には目が二個ついていて、どちらも鮮やかな瑠璃色だ。

 綺麗な肌に、整った鼻筋。

 髪はかなり明るい茶髪。


 そんな少女が、流榎と同じテーブルに両手で頬杖をついていた。


「……は?」


 流榎の二言目で少女はハッとしたように身を引き、両手を大きく横に振った。


「いやいやいやいや! たまたま図書館に来ててね?! あ、いや、ほぼ毎日来てるんだけどね!? なんか見慣れない顔がいるなぁ〜って思ってたらルカくんだったわけ!! で、真剣に本を読んでたから、ルカくんの目の前の椅子に座ってたんだけど、全然気づいてくれないから、あれ、私生きてるのかな? なんて思いながら、ルカくんの顔を見てたわけですよ! 決してやましい気持ちがあったわけじゃないよ? お願いだから勘違いしないでね?!」


 言っておくがここは図書館だ。

 周囲の人たちが鋭く二人を睨んでいるのを、流榎はもちろん気づいている。


「…………そうか」


 流榎は本を戻し、帰宅しようとバッグを持って席を立った。

 ――こいつうざい。


「――あ、ちょ、ちょっと待って!!」


 外に出たと同時に、ツムギがルカを呼び止めた。


「……なに」


「……はぁ……はぁ……ひ、ひどいよ。みんなに睨まれてる中置いてくなんて」


 ――いや、むしろお前が僕の居場所を奪ったんだろ。

 と死んだ心の中でツッコんだが、いちいち言うのも億劫だった。


「……そうか。で、なんの用」 


「あ、あのさ、これから時間潰そうと思うんだ。マックかどっか寄ろうと思うんだけど、ルカくんもどう? 来ちゃう? 行こうよ! 来ちゃおうよ!」


「ごめん。生憎、所持金ゼロどころか財布すら持ってない」


 流榎が財布を持ち合わせていない理由は、単純にカツアゲされたくないからである。

 主にカツアゲするのは、萩田希だ。

 以前、財布に入っていた全額を奪われて以降、二度と財布は持ってこないと誓った。


 ツムギは流榎の言葉を聞いて、少し驚きの表情を見せたが、すぐに立て直し、


「えー! まぁいいよ! 私が奢ってあげる! 女の子に奢らせるなんて、ダメだよ〜? まぁ私は全然いいんだけどねぇ! うん。好きな子とかには、ビシッと! 奢ってあげないと駄目だよ? まぁ私は全然大丈夫なんだけどね! うん」


 相変わらずの無駄口の多さ。

 こんなののどこがいいのか、世の男の心情が全く理解できない。

 まあ、おかしいのは世の男ではなく、流榎の方だけれども。


「お金の貸し借りは面倒事の種火となる。のちのち脅されるのも嫌だしな。さようなら」


 すると、流榎の制服の左手の袖が後ろに引かれた。

 後ろを振り返ると、ツムギは頬を膨らませて、少し怒ったような、悲しいような表情を流榎に向け、上目遣いをしながら、ブレザーの袖を引いていた。


「じゃあ、もう暗いし……送ってよ……家まで」


 ああ言えばこう言う、というのはこういう事か、と流榎は考え、ため息をついてから、


「…………分かった。でも、僕も早く帰りたいから、速く帰ろう」


 流榎が折れる形になったが、まぁ色々と聞き出せることもあるかもしれない、と必死に自分を説得した。


「ほんと!? ありがと! じゃあ、帰ろっか!」


 先程までのふてくされた顔とは一変した表情で、元気にツムギは言う。


 ――そこからは何故か全く会話は続かず、そのまま、大きい通りに出た。

 その通りは、車の行き来が激しく、会話の妨げになるほど、騒音が激しい通りだった。数十メートル毎に同じコンビニが配置されているほど、栄えている通りである。


 突然、周りの騒音とは対照的な静寂を破るように、ツムギは流榎に目を向ける。


「————やっぱり、私の事……」


 ツムギらしくない重々しい口調。

 何かしがらみに縛られているような気配をツムギは漂わせていた。


「私の事、がなんだよ?」


 途中で口を閉じたツムギに対して、流榎は言葉の続きを問いかけるように聞く。


「いや、んー、なんでもないよ! ごめん! 変なこと言っちゃって……」


 ツムギは、溢れんばかりの笑みを流榎に向ける。


「————言葉にしなきゃ分からない。相手に何かを伝えたり、問いかけたりする時に、空気を読ませたり、相手が察する事を前提として話をするのは間違ってる。人の言葉に対する受け取り方は様々だよ。100パーセントの内、99パーセントを相手が理解したとしても、残りの1パーセントを理解できなかったら、それが積もって、いつかは全く別の解釈になってしまうかもしれない。だから、聞きたい時や聞ける時、その機会が与えられた時に、相手に自分の100パーセントを伝える努力をしなくちゃいけない。ただでさえ、僕は察しの悪い人間なんだから」


 流榎らしくない長文を淡々と吐き捨てるように言った。

 ツムギは流榎の言葉に衝撃を受けたのか、目を見開いて、流榎をまじまじと見つめる。


 ツムギは、少しだけ頬を緩ませた。

 そして、また神妙な面持ちに切り替え、


「私の事、嫌いだよね」


 幼気な慈照寺紬という一人の少女が発するとは思えない声音であった。

 元々、妖艶さを身にまとっていたとはいえ、あまりにも悲痛な、悲劇のヒロインの様相を呈していた。


「なんで」


 流榎は、一切の躊躇いもせず、表情を全く変えないままツムギに目を向ける。


「だって……私は……疫病神みたいなものだから……」


 通夜でもここまでの顔をする人はいないだろう。怠い。


「知らない。確かに君はベラベラと無駄口を叩くから、面倒ではある。だから、周りからそう思われてるのかもしれない。それは僕には分からない。でも、少なくとも僕は君を疫病神だなんて思っていないよ」


 そう、疫病神なんて思わない。

 何故なら流榎にとってこの女は、ただの道具に過ぎないのだから。

 その辺に落ちている工具と同じ価値。工具のことを疫病神だなんて思う人はいないように。


 しかし、ツムギは、そんな事には気付かず、目に涙を浮かべる。

 それは、悲しみに打ちひしがれて出る悲哀の涙ではなく、何かに安堵し、緊張が緩和される時に出る類の愁眉を開くような涙である。


「大丈夫か? なんか変なこと言ったか?」


 流榎は、状況が理解出来ず、上辺だけツムギの心配をする。

 同時に、なんて人間の感情は美しいんだろう、という場違いな思考が頭を巡っていた。


 ツムギは両手の指で涙の雫を拭ってから、少し赤くした眼を流榎に向ける。


「ううん。ちょっぴり嬉しかったから、思わず、ね」


 片目を擦りながら頬を緩めてツムギは言った。


「そうか。なら良かった。でも、君の事を疫病神だなんて思う人は殆ど居ないんじゃないか? もし、それを言ってるいる人が居たら、それはただの嫉妬や僻みや妬みに近しい物じゃないのか? その感性は理解できないけど」


「なんで、そう思うの?」


「ん? だって君、学校で『棘無しの赤薔薇』? だっけ? そう呼ばれてるんだろ?」


 ツムギは流榎の言葉を聞くと、口をポカンと開いていた。


「……知ってたんだ……過大評価にも程がある異名だよね……私にそんな二つ名は似合わないよ……そんな綺麗な赤薔薇にはなれない」


 晴れない表情を見せながら、ツムギは肩を落とす。


「烏滸がましいかもしれないけど……これからも流榎君に話しかけても……いい?」


「何が烏滸がましいのか分からないけど、口数さえ少なくして欲しい。それならいいよ」


 ツムギの顔に、心の内の安堵や喜びが溢れ出る。

 ふと、流榎は、疑問に思っていたことを頭に浮かばせた。


「そういえば、君以外に何か異名を持っている人とかいるのか?」


 流榎の言葉にツムギは、虚をつかれたような態度を表し、一瞬体が硬直する。

 不意打ちをされた草食動物のように困惑し、焦燥感を胸に漂わせたような顔をしていた。


「いるよ」


 ツムギは何か物怖じした子鹿のような繊細な声を必死に、喉から絞り出す。


「だれ?」


「『棘塗れの青薔薇とげまみれのあおばら』って呼ばれてる子がいるよ……」


「だから、だれ」


 ツムギは、流榎の方を弱々しい乙女のような目で見つめる。

 そして、目を逸らしてから、深く息を吸った。


「一年四組の——」


 ツムギは、力強く目に力を入れ、流榎にそれを向ける。


「————東峰 紫苑ちゃん……だよ」


 ツムギの予想外の言葉に、流榎は言葉を詰まらせる。


「そうか……」


「……うん……知ってる、よね?」


「まぁ、名前だけは」


 東峰との約束を思い出し、変な勘違いはされないよう流榎は嘘をついた。

 気付くと、周りの騒音は先程より幾分もましになっている。


『トゲマミレの青薔薇』とは、また上手い名前を付けたものだなと感心。

 それと同時に流榎は、東峰とツムギが比較されているのだと思い、そんな二人の板挟みになっている自分がひどく滑稽に思えた。


「――そういえば、君は好きな人とかいるのか?」


「うん、えっとね………って!! ええええええ!! な、なぜそんなことを!?」


 あ、いるんだな、とさすがの流榎も察した。


「いや、かなり男子から人気みたいだったから、少し気になっただけだ」


 別にこいつの恋路などどうでもいいが、龍神蓮を潰すのに必要な『駒』だと考えたからである。


「…………気になる?」


 ツムギは上目遣いを送ってきた。

 もちろん流榎は何も感じない。


「そうだな。少しな」


 ツムギは人差し指を自分の口につけ、ウインクをしながら、


「ひみつ、かな?」


 ――うざい。


「そうか。まぁ、実るといいな。その恋」


 途端に、ツムギの顔は昏くなった。


「――私は、誰かを好きになる資格なんてないよ。ましてや、恋が実るなんて、絶対にダメだもん」


 流榎はただただ面倒くさかった。

『この感情は美しくない』。

 

 感情とは、己のために己が抱くものであって、人を気遣うためのものじゃない。

 

 ――いらないなら、僕にくれよ。


「…………あ、そ、そうだなぁ。え〜と、ルカくんって好きな曲とかある?」

 

 気まずい沈黙の末、ツムギが話題の転換を図ろうとした。


「そうだな。まぁ、あるな」


「聞いてみたい!!」


 少し面倒だったが、この女が曲を聞いている最中は、話をしなくても済むと考えた。

 流榎はスマホを取り出し、イヤホンを繋いでツムギに手渡す。

 ツムギはうきうきな笑顔で曲を聴いていたが、途中から顔に曇りが押し寄せた。


 結局、一、二分でイヤフォンを外した。


「もう最悪。不安定な声を安定して出す歌姫みたいな歌唱力なのに、なんなのこの歌詞は! もう趣味が悪いよ! 死んじゃうよ! 言葉の暴力だよ! 刑法二百八条だよ!」


 むしろお前の方が言葉の暴力を振るっているだろ、とツッコミたくなる内容であったが、面倒だったので、流榎は軽く流した。


「この曲一番よく聴くんだけどな。どこがダメだった?」


「歌詞だよ! 歌詞! お菓子じゃない方の歌詞だよ! 駄菓子じゃなくて、駄歌詞だよ! なんちゃって! テヘペロ! だよ!」


 まず間違いなく流榎にとっては公害級のうるささ、鬱陶しさであった。


 すると、ツムギはまた流榎の携帯を奪い、歌詞のページを開く。


「いや、これ。これだよ!  これ!  

 この女の人の声音の色気、上品さ、繊細さは別格だけど、歌詞が私は無理! これはもう完全に人の不幸を願ってるよね!?  人の不幸は蜜の味ってやつだよね!?」


「まぁ多分この曲のテーマがそれだからな」


 ツムギがイヤフォンを流榎に返す。

 流榎はイヤフォンを携帯に繋いだまま、ポケットに不躾に入れた。


「さっきの曲なんて言うの?」


 ツムギはつぶらな瑠璃色の瞳を流榎に向ける。


「『――シャーデンフロイデ』」


「嫌いな響きの言葉だなぁ」


「そうか。そうかもな」


 流榎は、空に浮かぶ夕日を見つめた。

 いつもとはまた変わってみえる代物であり、流榎にとっては紛い物にしか見えなかった。

 夕日とは言えないほど真っ赤に染め上げられており、まさしく赫色だ。

 その沈む軌跡を見つめながら、端然として歩く。


 ——突然、ツムギは流榎の正面に体を運んだ。

 そして、両手を腰の後ろ辺で握り、少し前屈みになりながら、顔を斜めに傾け、流榎を見つめる体勢になった。


 赤い夕陽が黙々と世界を照らす。

 流榎の目線からは、『慈照寺 紬』という存在の背景として、赤い夕陽が設置されているように見え、夕陽をも呑み込まんとする彼女の容姿には、何人をも近付けない神々しさが備わっているように見えた。


 ツムギはそんな情景と共に、頬を緩ませる。


「今日は付き合ってくれてありがと。泣き出しちゃったり、変なこと言っちゃったりして迷惑かけたかもしれないけど、私はとっっても救われたよ。本当にありがとね。流榎君。家はもうすぐそこだから、この辺で大丈夫だよ。あと、これ」


 ツムギは、財布から紙幣を取り出し、流榎に手渡す。その紙幣には、福沢諭吉の姿が見える。


「お金なんていらないよ。しかもこんな大金」


 流榎がツムギに紙幣を返そうとするが、それをツムギは手で止める。


「いいの。わざわざここまで付き合わせちゃったから、タクシー代にでも使って? ね? それと、今日ありがとうの印だよ。少しだけね」


 依然として、慈母のような優しく寛大な笑顔をツムギは流榎に贈り続ける。

 あいにく、それを流榎が受け取ることはないのだが。


「そうか。すまない。ありがとう。気持ちと一緒に貰っておくとするよ。でも、こんだけあったら、マックにでも寄れば良かったな」


「確かにね!」


 大きな瑠璃色の瞳を隠すように閉じながら、弾けるような笑顔を見せた。


 ツムギは、そのまま小走りで一直線に進む。

 流榎はその遠ざかっていく背中を眺めていた。


 流榎は後ろを振り向き、辿った道を戻る。

 十メートルほど進んだあたりで、後ろの方を流榎が振り返ると、ツムギがこちらを見つめていた。

 それに気付いたのか、ツムギはすぐに後ろを振り向き、再び歩み出す。


 その背中は余りにも弱々しく、高嶺の花と謳われる少女の孤独さを物語っていた。


 流榎はそんな事に気を遣わず、イヤフォンを両耳に装着し、『シャウラ』を聴き始めた。



 ――その帰り、流榎は『薄手の黒色のロングコート』と『真っ白な死神の仮面』を購入した。

 

 目標遂行のため、体を隠すものが必要と東峰に言われていたからだ。


 そう、『鹿苑寺 流榎』——いや、『死神』が誕生した瞬間であった。


 ――人の人生を刈り取る、残虐なシノカミだった。

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