第一章4 『希望と失望と渇望』
五人組に暴行を受け、ツムギに救われた日。
その帰り、流榎は廃ビルの一室に寄った。
「で、話とは」
流榎の問いかけ。
それの矛先は、腰まで届く黒髪に、紫紺の瞳を輝かせる少女だ。
ダイニングテーブルを挟んで向かいに座る美少女――
「これは……」
その紙は、とある人物の履歴書のようだった。
むろん、顔写真もある。
見覚えのある男の顔だった。
「
身長171センチ。体重62キロ。
部活はサッカー部。中でも逸材らしくて、プロも注目しているとのこと。来年の高体連しだいでは、プロ入りもあるらしいわ。問題なのは、和倉の代のメンバーが弱いこと。だから和倉は、来年の高体連に全てをかけている、と」
機械のような東峰の説明。
それに流榎は一言。
「――この男は、和倉実というのか」
その言葉に、東峰は目を見開き、眉をひそめた。
「あんた……まさか、名前すら……知らなかったの……?」
当たり前だ、とでも言いたげな視線で、流榎は首を縦に振った。
それに驚きつつも、東峰は一度嘆息してから、二枚目の紙を差し出した。
「
身長178センチ。体重68キロ。
成績は優秀。なんでもこの高校に特待生として入学しているわ。だけれども、家庭は貧困。母子家庭で、さらに小さい弟が何人かいる模様。毎日生きていくのもやっとって感じね。アルバイトをいくつかこなしながら家計を支えているわ」
「だから僕にカツアゲしていたのか」
三枚目。
「
身長175センチ。体重63キロ。数年前に両親を海難事故で亡くし、祖母と二人で生活しているわ。足の弱い祖母を労りながら生活しているとのこと」
「バケツの水のやつか」
四枚目。
「四人目は、少しズレるわ」
四枚目の履歴書。
そこに映る顔写真は、学生ではなかった。
「こいつは」
「
黒東高校教師、担当教科は生物。
身長170センチ。体重70キロ。
妻子持ちのくせに、女子贔屓の激しいセクハラ親父。なんなら、黒東女子との淫行や、援交の噂も後を絶たない。中には、脅してる、という説もあるけれどね。
そしてなにより、あなたへの暴行を見て見ぬふりどころか、嘲笑った男よ」
「セクハラ親父……か」
流榎の頭に、ある一つの手段が思い浮かんだ。
性別が男である流榎には使えない手段。
――――だが……………………。
流榎の思考を遮るように、東峰が五枚目の紙を置いた。
「
身長165センチ。体重55キロ。
父親が画家をやっているらしいわ。日本ではそこそこ有名とのこと。須和自身も画家を目指しているらしいわ。
そして、かなり親に依存していて、喋るのが大好きな女々しい男」
「マッチの火のやつか。小柄の」
東峰が五枚目の紙を置いた。
「
身長182センチ。体重70キロ。
ファンクラブができるほどの人気があり、頭脳明晰、容姿端麗、スポーツ万能の、完璧超人。
父は、政治家――
さらに、空手や柔道の武道も習っている。
武力制圧ですら、少し厳しいものがあるわ」
龍神蓮。
ファンクラブができるのも無理ない。彼はたしかに美青年だ。それは認めざるを得ない事実。
そして、この流榎に対する暴行の主犯格だ。
――だが、流榎は別に恨んでなどいない。
恨むために、彼は今行動している。
「でも、弱点はあるんだろ?」
流榎がそう言うと、東峰は黒タイツに包んだ足を組んだ。
あまりに妖艶な動作だった。
「父親がかなり乱暴らしい。
龍神の家族構成は、父親、母親、蓮、妹、となっているのだけれど、父親がかなりの亭主関白で、蓮以外の二人に暴力を加えているのだとか。
だから蓮は、二人を解放すべく、父と同じ権力者になるために奮闘しているとのこと。いずれ父親を失墜させるためにね。
そして現在、秀明と残りの三人は別居中。
母は精神病院。妹はPTSDを患い不登校」
人間が不幸を不幸とみなす条件。
それは、なにかが崩れることだ。
崩れきった龍神の家庭に、何をしても大した不幸とは言えない。
――だから、治す。そして、崩す。
ジェンガのように、バラバラに。
「――もう一つ弱点があるかもしれない」
東峰は首を傾げた。
「慈照寺紬。彼女を知っているか?」
東峰の整った片眉が、ピクリと動いた。
「……惚れたの?」
「いいや。ただ助けられただけだ」
流榎の冷然とした物言いに、東峰は「そう」とだけ呟き、窓の外に目をやった。
「
与えられし異名は、『
この高校の誰もが知っている高嶺の花。誰とでも友好的な関係を築き、男女問わず魅了するも、異性交際の音沙汰は一切なし。
告白は何度もされているが、どんなに人気な男子に対してでも、『好きな人がいる。そして、私に付き合う資格なんてない』と言ってお断りなさっているらしいわ。真の意味での棘無しね。
そして、極めて優秀な兄を一つ上の学年に持つのが、慈照寺紬という女よ」
履歴書なんてなかった。
東峰はその脳内に留められた記憶から、今の言葉を出したのだ。
「やけに、詳しいな」
「――――まあね」
自嘲げに鼻を鳴らし、東峰がつぶやく。
「龍神蓮は、慈照寺紬に恋愛感情を抱いているのではないか?」
東峰は窓の外から流榎に目をやり、その目を細めた。
「だから? なにをするの」
「三つ候補はあるな」
「その三つの候補とは」
「一つ目。慈照寺紬を何らかの形で傷つける。
二つ目。慈照寺紬を脅しの道具に使う。
三つ目。僕が彼女と親密な関係になる」
三つ目を聞いて、東峰はさらに目を細めた。
「……随分と自信があるのね。ナルシスト?」
「たしかに僕の容姿は整っていると思うが、それがどうした。どんなに人気な男子の告白も断ってきたんだろ? 僕の容貌と、三つ目の選択肢はあまり関係がない」
別に流榎は自分の容姿を鼻にかけているわけではない。
あくまで、客観的な評価を述べたまでだ。
この容姿と感情。どちらかを手に入れられるのであれば、むろん感情を選んでいる。
流榎にとって、自分の美貌などその程度の認識だ。
その程度の認識だからこそ、利用価値があるのなら、躊躇せず使う。
「……気味が悪いわね。最低でも、私はあなたをイケメンだと思ったことはないわ。そこだけは勘違いしないように」
大分主観が入っているように思える。
そんな罵倒など、別にどうでもいいのだが。
「だが、僕は女性と話したことがあまりない。だから、話し方も分からない。なにより話したいとは別に思わないから、追い風が来たらでいい」
「じゃあ三つ目の考慮は――」
「無論しない。一つ目か二つ目で計画を立てる。場合によってはどちらも使える代物だし、貴重なカードだからな。そして彼女は、この計画において、最も重要な駒だ。手に入れられたら、チェスで言うとクイーン級になるな」
東峰は興味無さそうに、再び窓の外に目をやっていた。
彼女の紫紺の瞳に映るのは、虚ろだけだった。
「――君には、異名はないのか?」
東峰は目だけで流榎を見据えた。
諦念のようなものが彩られた双眸だった。
「――――――さあ……。私は、あの子とは比べられないわよ」
そう言ってから数秒後、東峰は椅子から立ち上がり、流榎の前まで移動した。
「立ちなさい」
仰せのままに、流榎も椅子から立ち上がる。
「………………なんだよ。いきなり」
東峰が唐突に、流榎の体を触りだした。
下品な意味ではない。
下半身などではなく、上半身だ。主に、胸筋や、腹筋、上腕二頭筋など、筋肉の有無を確かめている。
「……ヒョロガリね。こんなのでは返り討ちにさらるわ。護身術でも習ってきなさい。準備にはまだ時間がかかるわ」
「具体的にどのくらい」
「……半年くらい」
すなわち流榎と東峰が二年生に上がるかどうかの頃だ。
いくらなんでもかかりすぎではないか。
「なぜそんなにもかかる」
「………………こっちにも、色々とあるのよ」
東峰は流榎の体から手を離し、どこかへと目をやりながら呟く。
「情報はどうやって獲得したんだ?」
「クラッキング」
クラッキング。
それは、不正にネットワークに侵入する技術のことだ。
そんな技術が女子高生に?
「これからきっと、色々な人が涙を流し、許しを乞うことになると思うわ」
東峰が窓の外に体を向け、言った。
遅れて流榎も同じ方に体を向ける。
「そんな舞台が、これから始まるの。その舞台を、あなたはどう思う?」
外で、青い鳥と茈の鳥が並行して飛んでいた。
そして、全てを見下ろすように、赤い鳥が後方に続いていた。
「――――ゲームだよ。これは、ただのゲームだ」
「あんたはやっぱり……最低だわ」
「人の不幸は蜜の味って、言うだろ」
東峰は流榎に目を向け、
「それを、ドイツ語で言うと、なんていうか知ってる?」
「知ってる」
「なに?」
流榎は鳥の居なくなった外を見ながら、
「シャーデンフロイデ、だろ」
東峰は何も答えなかった。
二人はそのまま外を見ていた。
これが最後に過ごす平穏だとでも、言いたげに。
彼女のポケットに入った写真を、彼はまだ知らない。
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