第3話 約束

 

 あれから、どれだけ走り続けているんだろう。完全に日が落ちて、辺りは闇に覆われてぼんやりとした木の輪郭しか見えない。それなのにあの魔物は迷いもせず僕達を追いかけて来ている。


 森に入ってからは足場も良くないし方向も分かりづらい、体力の限界が近いのは間違いない。エルミナの方を見ても、苦しそうにお腹の横を押さえている。子供の僕達ではあの魔物に追い付かれたらどうなるか考えるまでもない。


「ねえ、このまま逃げれるかな?」


 後ろからポツリと呟く声が聞こえた。その不安げな声に思わず後ろを振り向く。するとエルミナは俯いていてなんだか様子がおかしい。


「私、良い事を思い付いたの。きっとあの魔物は音を聞いて追ってきてるんだわ。だから、ここで……二手に分かれましょう?」


「だ、駄目だよ! それじゃあ片方だけ生き残れって事だよね? 僕は死ぬ気もエルミナを死なせる気もない!」


 どちらかが生き残れる可能性はあるかも知れないけど、それでもし僕じゃなくてエルミナが死んだとしたら僕はその事を一生後悔するだろう。


「大丈夫よ。私が注意を引きながら左側にそれて、頃合いを見て隠れるから、リースはそのまま泉に向かって精霊様を呼んできてくれればいいのよ。だからね……手を離して? ……お願い、リース」


 微笑みながらそう言うエルミナ。その顔を見ているといつもは幸せになるはずなのに、どうしようもなく胸が痛くなった。

 だって――エルミナの肩が、繋いだ手が、小刻みに震えていて離してと言いながらも、縋るように僕の手を強く握っているのだから。自分で手を離す事が出来ないから、僕に「手を離して」と言ったんだ。そう思うと悔しくて、僕の両目からは頼んでもいないのに涙が溢れて来て止まらなかった。


「……嫌だ。嫌だ! エルミナは約束を破るの!? 僕のお嫁さんになってくれるって、ずっと一緒だって約束したのに! エルミナを死なせるくらいなら僕も一緒に死ぬ」


「そういう話じゃないわ! 私は、ただ、リースに死んで欲しくないの……私も死ぬつもりなんてない! 約束だって守るから! お願いだから手を離してリース……お願いだから」


 こんな状況で言い合いなんてしたくないのに、泣きそうなのを堪えて必死に隠そうとするエルミナの顔を見ると余計に感情的になってしまう。それでも、この繋いだ手だけは離さないと心に決めた。

 このままエルミナの手を離したら二度と会えないと思った。間違いなくエルミナは死ぬつもりなのが分かる、体力的にも限界で隠れたとしても逃げれる保証なんかどこにもない。


――お願いだから誰でもいい、僕じゃエルミナを助けれない、奇跡でもなんでも良いからエルミナだけでも良いから助けて下さい。お願いします、お願いします……。そう必死に心の中で祈り続ける。


 僕もエルミナもひとしきり言い合いをして、なにも喋らなくなった。当たり前だけど、走りながらこんなに喋っていたら体力の消費も激しくなる。

 夜の森特有の虫の鳴き声と、僕達の枝を踏みつけながら走る音が森に響く。それに後ろから呻く様な鳴き声が聞こえる。距離もかなり近くなっている、あと十分も走っていれば追い付かれてしまいそうだ。


 とっくに体力は限界を迎えていて、ほぼ生存本能に突き動かされて走り続けていた。先の見えない闇に心が折れそうになり、もう諦めてしまいそうになったその時、なんだか体がふわりと浮いたような感覚がした。


 これは、羽根? 見上げると、数羽の瑠璃色の羽をした鳥が僕達を上から見下ろしていた。

 その鳥達からひらりと薄く光る羽根が落ちてくる。その羽根を手に取ると、パッと光が消えて体に薄い光が沁み込むような感じがした。もう動けないと思っていた体が嘘のように軽くて、エルミナもその信じられない光景に言葉を失っていた。


 鳥達は頭の上を飛び回ると、僕達の走る前方に見えるように飛び続けていた。もしかして――助けてくれたのかな、何処かに導いてくれているのか。そう感じてエルミナの方を向くと、彼女も同じ事を思ったのか静かに頷く。

 もう駄目かと思ったけど、まだ生き残れる可能性があるなら――そう思って鳥達の示すままに進んでみる事にした。一つだけ言える事があるとすれば、奇跡は起きて僕達はまだ死なずにすむという事だった。


 あれから十分くらい進むと、真っ暗闇だった世界に淡い光が生まれ始めた。木と木の合間を縫って小さな光が漏れてきている。どうやら鳥達はその光の見える方向を目指しているらしい。進んでいくほど明るさは増していき、森の境目が見えてきた。


 しばらくして森を抜けるとそこには――神秘的で幻想的すぎる世界が広がっていた。

 まず、目の前には大きな泉が広がっていて、周りには水色に淡く発光する丸い光の球がそこら中に浮いている。

 泉の真ん中には大きな木が一本生えていて、その周辺ではあの綺麗な鳥達が羽を休めていた。

 水があまりにも透き通っているのが遠目でも分かる。浮遊している光の球に照らされて、まるで水中にも光源があるみたいだ。

 僕は魔物に追われているのを忘れるくらいその景色に魅了されていた。


「ウゥゥ……オァアァア……」


 後ろから呻く様な声が聞こえる。その声で僕は、はっと我に帰る。

 泉まで辿り付いたけど魔物を倒せたわけじゃない、結局状況は苦しいままなのを思い出す。

 森の中から魔物が姿を表した。魔物はやっと追い詰めた獲物を吟味する様に、長い二つの舌で舌舐めずりをしながら詰め寄ってくる。本能的な恐怖を感じるその姿に足がすくむ。それでも僕は、エルミナを庇いながらゆっくりと後退りしていく。するとどこからか声が聞こえてきた。

 消えてしまいそうな小さな声、だけど透き通った綺麗な声が聞こえる。


「……そう。そう、これが最後。これで終わりでいいでしょ? ねえ……ム……」


 その声はだんだんとはっきりした物になり、泉の方から聞こえてくる。

 泉の方を振り返ると、そこには綺麗な女の人が水面に立っていた。


「――生まれし水は悠久を流れ。流れる水は淡々と。激情に触れる物を消し去らん」


 その女の人が詠唱を始めると、周りの光の球が強く発光する。青みがかった緑の長い髪が空中でゆらゆらと揺れる。

 土色の瞳を閉じて、細く長い両手を胸の前で何かを支えるように手のひらを上に向けた。するとそこに透明な丸い球体が現れる。

 薄い赤色の唇から一言一言紡がれるたび、その球体に水が発生し中を激しく動き回る。「……オーイレイス」最後にそう呟くと、さっきまで球体の中を暴れ回っていた水が嘘の様に静かになって、球体は僕達を通り越して魔物の方に向かっていく。


 球体が魔物を中に閉じ込めると、中の水が意識を持った様に乱回転しながら渦を巻く。球体が弾けて水と一緒に魔物が放り出された。

 さっきまで僕達は襲おうと吟味していたであろうその魔物は、体のあちこちを変な方向に曲げて声一つ上げずに力尽きていた。その現実離れした光景に僕は呆然として立ち尽くしていた。


「大丈夫、君達? 怪我は無い? 私の事見えてる?」


 すぐ側から声が聞こえた。反応の無い僕達を確認しようとしたのか、目の前で手を振っている。

 いつの間にか近付いて来ていた事にも気が付かなかった。


「あ、あの。ありがとうございました。助けてくれたんですよね?」


 背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。先に声を出したのはエルミナだった。


「良かった。ちゃんと見えてる。そう、助けたのは私」


 女の人が淡々とそう言う。


「もう、駄目だと思ったの……リースだけでも助けないとって……何度も、何度も、繋いだ手を離さなきゃ! 今すぐ振り解けばいい! そう思ってるのに……私には勇気が足りなくて……」


 背中に重たさを感じる。エルミナが僕に寄りかかってきたのだと思う。なぜならエルミナが喋り出すと同時に背中に熱を感じたから。それに声もちょっとくぐもっている。後半は嗚咽を漏らして叫んでいて、別の温かさを背中に感じた。エルミナは僕に体を預けて泣きじゃくっていた。


(助かったんだ。そうか、僕達は助かったのか)


 エルミナの感情的な叫びでやっと頭の理解が追いつく。そうすると安心感に体の緊張が解けて精神的疲労や先程までの恐怖感が一気に襲ってきた。今更膝が小刻みに震え出す。


 僕達を助けてくれた女の人は、僕達を待ってくれているのか何処かに行ったりもせずに、追従する様に飛んできた鳥達と戯れている。

 エルミナは未だに泣いているし、今まともに話せるのは僕だけだろう。

 色々気になる事はあるけど、とりあえず先にお礼を言おうと思って話しかける。


「助けてくれてありがとうございました。僕からもお礼を言わせてください」


 僕の言葉に反応して女の人もこちらに意識を向けてくる。


「声、祈り? 聞こえた。この子達を通じて見てた。私はミルウォーネ、この泉と森を守護していた森の精霊」


 その女の人は周りをゆったりと飛んでいた鳥の頭を撫でながらそう言う。


 精霊様と鳥で浮かぶ物といえばお伽噺だった。精霊様が本人ならあの鳥が水霊鳥で間違いないだろう。

 なぜなら母さんがしてくれたお伽噺の中で「精霊様は広い森を守護するために綺麗な鳥を生み出しました。その鳥は瑠璃色の羽根に白い体毛、長い二本の飾り羽根を持っていました」と、言っていたから。


 祈りは通じていたんだ、奇跡は起きたんだと精霊様を見た。その姿を見ていたら、次第に抑えていた物が溢れ出てきた。そのせいで視界がぼやけて仕方がない。

 安堵した僕はエルミナと寄り添う様にして地面にへたり込んで、助かったという事実に深く感謝した。


 落ち着いて考えると、色々と疑問が残りミルウォーネ様に僕は尋ねて見る事にした。


「ミルウォーネ様、あれは魔物でしょうか? それに……この森で今まで魔物が出たなんて話は聞いた事がありません」


「魔物で間違い無い。稀に迷い込む魔物は私が討伐していた。この森には加護を与えていたから魔物が湧く事はない」


 ミルウォーネ様はただ淡々と答えてくれる。


(そうすると僕達は運が悪かったのか、ミルウォーネ様に直接助けられたから運が良かったのかどっちなんだろう)


 なんて考えていると、妙な違和感を覚えた。なんだろうこの感じは、魔物も倒された、エルミナも僕も生きている。心配事はどうやって帰るかぐらいの筈なのに何かが引っかかって仕方がない。


「ミルウォーネ様……なんでそんなに寂しそうなの? それに今はもう守っていないみたいな言い方に聞こえるわ」


 と、目を赤くはらしたエルミナがミルウォーネ様に問う。


 寂しそうだとエルミナは言った。僕には淡々と喋る精霊様の表情を読み取る事は出来なかったけど、確かに思い返してみれば「守護していた」や「与えていた」など過去の事みたいに話していた。そして違和感の正体はこれだったのかと分かった。


「君達を助けるのが最後の役目だと思った。尊いと感じた。死に直面してもお互いを思い合う姿が。そして、言い方ではなく事実。この森に私の加護は無い」


 そう言いながらミルウォーネ様は目を伏せて首を小さく横に振る。


「最後って……それだと、まるでミルウォーネ様が死んじゃうみたいな言い方だわ!」


 服の裾を強く握り声を張り上げるエルミナ。僕もそれに続けて問いかけた。


「森から加護が消えるとどうなっちゃうんですか? 周辺にある村は森からの恩恵が無いと生きていけないです!」


「精霊に寿命は無い。だけど精霊は何かを司る者。自分からそれを放棄した時、精霊は存在が消えていく。……人間で言う所の死と相違は無い。加護の無い場所、魔素が存在する場所には魔物が生まれる。約束に含まれない事は私に関係ない」


 遠い目でどこかを見詰めながら話すミルウォーネ様。


 この森には僕とエルミナの村の人達が大勢出入りしている。その中にあんな化け物がこれからずっと湧いてくるかもしれない、そう考えただけで背筋に寒気がした。

 森で会うだけじゃない、村に出てきて襲われでもしたら……子供の僕でも容易に想像出来てしまった。エルミナも同じ考えに至ったのか顔が青白くなっている。


「……どうして今更森を捨てるの? そんな寂しそうな顔して自分から死ぬなんて辛すぎるわ! 何があったのか私には分からないけど、一人が辛いなら私が遊び相手になってあげる! 欲しい物があるなら私が一生かけて集めるわ。私に出来る事なら何だってするから……だから、だからお願いします。この森をお婆ちゃん達を私の大好きな人達を見捨てないでください」


 肩を震わせて強くエルミナは必死に懇願した。感情が爆発したのか息も荒く、体も小刻みに震えている。

 その様子に感化されたのか小さく「疲れたの」と呟きミルウォーネ様は語り始めた。


「私がこの世界に誕生した時の話。私は人間の守護精霊として名を授けられ誕生した。その人間の名はエイラム。彼は精霊魔法の研究をしていて私は一緒に旅をした。彼は私に色々な事を教えてくれた。彼と過ごす時間は楽しかった。だけど、彼は『新しい研究をするから』と言って私をこの森に置いていった。エイラムの守護精霊からこの森の精霊へと契約を変えて。彼は『これはお前の未来を考えた結果なんだ――俺を信じてここで待っていてくれ』そう言った。だから待つ事にした、彼を信じていたから。彼が戻ってくるまでこの場所を、約束を信じて守り続けた。何年も、何十年も、何百年も私は待った。そうして気付いたの、人間の一生は短い。数年も経てば人間は交わした約束なんて忘れてしまうものなのだろう。エイラムはきっと私の事なんて忘れて遠い何処かで一生を終えたんだって。私は疲れた、もう待つのは嫌、だからもう終わりにする」


 そうして語り終えたミルウォーネ様の目から一筋の涙が音もなく零れ落ちた。


 お伽噺として語られるほど昔からこの森にいたという事は、それだけの間エイラムという男の人を待ち続けたという事に他ならなかった。生まれて十年そこらの僕には到底理解できる筈が無いほどの時間だった。

 エイラムさんが本当にミルウォーネ様を忘れてしまったのかは本人にしか分からない事だけど、約束までした人がそんな簡単に忘れるとは思えない。何か事情が有ったんじゃないか、そう思った。


「何百年も同じ場所で待ち続けたミルウォーネ様の気持ちは、僕みたいな子供には絶対に分からないと思います……だけど、ミルウォーネ様がエイラムさんとの思い出を話している時の表情はとても幸せそうでした。そんなエイラムさんが、約束を只々忘れたとは僕には思えません。何か事情が有ったんだと僕は思います」


 こんな事を言ってもミルウォーネ様の気持ちを逆撫でするだけなのは分かっているけど、このもやもやした感情を口に出さずにはいられなかった。


「人間と精霊では生きる時間が違う。人間は過去の事を忘れ、置いていく。十年もすれば約束なんて忘れて消え去る。旅の途中で出会った人間も自分のために嘘を付く者ばかり。彼もその嘘吐きの中の一人だっただけの話。人間は皆嘘吐き」


「それは違います! 確かに嘘を吐く人もいます。だけど、他人を思いやれる人だってそれ以上にいます。エルミナは僕を助けようと嘘を吐きました、でもそれは僕を思っての優しい嘘です。 精霊も人間も関係ない、僕は本当に大切な約束や思い出は何年経っても忘れたりしません! エイラムさんだってきっと約束を忘れた訳じゃない筈です! だからミルウォーネ様が信じたエイラムさんを信じてあげてください……」


 自分に杭を打ち込む様に苦しげに語るミルウォーネ様を見ると言葉を抑える事が出来なかった。

――この人を救ってあげたい。今はただそれだけが頭の中にあった。


「どうしてそこまで……エイラムは人間。待ったってもう……それでも信じて待てと言うの。私にこれ以上信じて待ち続けろと。有りもしない可能性を信じろとそう言うなら、私に証明して見せて。人間の可能性を君達が。私の魔法を君達にかけさせて。期間は十年間。その間はこの森にいてあげる。私を納得させられたら君達の願いを叶える。どんな魔法かは答えを聞くまでは教えられない。村まではこの子達に送らせるから、一晩よく考えて。明日を過ぎたらもう私には会えないと思って。それじゃあね」


 そう言い切るとミルウォーネ様はいなくなってしまう。後に残ったのは神秘的なこの空間を包む静けさと、二羽の水霊鳥だった。


 考える事は多い。こんな時間まで帰らないとなると、僕達の親が心配して探しているだろう。だからひとまずは「帰ろうか」とエルミナに伝え、エルミナも「そうね。これからの事とか考える事は色々あるけど、今はリースといられるだけで嬉しいの」と言って僕の右手を握ってきた。

 両親への説明をどうしようかと考えながら僕は水霊鳥に導かれる様にしてエルミナと一緒に歩き始めた。

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