最高の人生

無花果

最高の人生

 C子とS美は同じマンションの隣人であった。

 お互いの名前と大体の生活リズムだけは把握している程度の関係である。どうも真逆の境遇にあり、どこか強く意識している節があった。

 C子は普通の会社員であったが、目を見張るほど可愛くスタイルも良く、地元では有名な「べっぴんさん」である。誰からも好かれる人間ではあったがどこか抜けていて、お世辞にも頭が良いとは言えなかった。

 ろくに計算もできないような有り様である。時間の管理も杜撰で、慌てて部屋を出て行く姿はもはや名物である。

 一方のS美は才能のある研究者であった。頭の回転が速く、小さい頃は神童と呼ばれていた。彼女は有名な某N大学を卒業後、医学研究に貢献し数々の功績を残した。

 しかし、溢れる知性とは裏腹に、見た目はどうにもぱっとしない地味な人間だった。腫れぼったい目にバランスの悪い鼻だちで、服だけは良いものを着ていたがどれも彼女には似合わなかった。

 二人はすれ違うたびにこう思っていた。あんな人にはなりたくないと。

 無条件に愛されることもなく、自信を持って外も出歩けないような人間にはなりたくない。自分で何も考えられず、誰からも尊敬されない無知な人間にはなりたくない。

 お互いを見ながら、その先に最も嫌悪すべき人間を思い描いていた。

 そんな彼女たちが運命の悪戯か、それとも気でも狂ってしまったのか、お互いの意識のみがある日を境に入れ替わった。

 互いに自分だったはずの人間を見ながらどうしたものかと首を捻る。

 科学的に考えて意識や魂は脳に宿る。

「脳をそのままに意識のみが他所へ移動するとなると大きな発見になる」

 と、普段のS美なら説明し出すような状況であったが、いくら天才研究者のS美の意識が宿っていたとしても元はC子の脳である。

 いつものように思考がつながらず、現状をどうするかを考えるだけで限界であった。

 最も今のC子に話したところで話が理解できるはずもない。突然手に入れた優秀な脳を使いこなす方法が、C子にはわからなかった。経験がなかったからである。

 思考の端で難しい言葉が浮かんでは消えたが、普段あまり物を考えないC子にはそれを処理して口に出すほどの意思がない。それよりも視界に入るうねうねの髪の毛が邪魔でしかたなかった。

 結果として話し合いもそこそこに、お互い元に戻るまで大人しく互いの振りをしていようと話がまとまったのである。


 C子はS美の小汚い容貌では外に出られないと絶望したが、約束を交わした以上仕事をサボるわけにはいかなかった。

 身支度を入念に整えたところでいくら頑張っても顔の形は変わらない。さらにS美の髪は言うことを聞かない強情者で、見てくれを整えるのにいつも以上に時間がかかる。

 それに何より体が重かった。通り過ぎる人間全員に「邪魔だ」と言われている気さえした。

 研究室のデスクに向かっても憂鬱な気分は晴れなかった。同僚の視線を気にして一層鬱々としたものが胸につっかえた。自然と背は丸まり、普段のように誰かに親しく声をかける気にもなれなかった。

 今の自分を相手にする人間なんかいるものか。愛らしくもなく、明るくもなく、影の薄い見た目のように自分の心まで卑屈になっていく。こんな最悪の人生が他にあるのだろうかとさえ思った。

 自分を見つめる何対もの瞳が自分のことを馬鹿にして笑っているのではという思いに取り憑かれた。

 しかし、彼女の予想とは違い、同僚と思しき人たちがC子にものを尋ね、それに難なく答えると口々にやれさすがだと褒め尽くす。

 誰も彼もがC子を頼り、慕い、尊敬する。

 彼女の頭でもわからないような難解な問いには「わからない」と答えたが、仲間たちが彼女を貶すことは一度もなかった。それどころか「あなたにも解らないなんて」とさらに持ち上げる始末だった。

 その日、S美のふりをしたC子は、生まれて初めて忘れ物ひとつなく家に辿り着き、一日を終えた。


 S美はC子に言われた通りに彼女が勤めるオフィスへと向かった。

 彼女は日頃の癖で10分ほどの余裕を持って家を出た。地図を片手に、徒歩10分もかからない仕事場だ。不測の事態でも起きなければ問題のない道のりだった。

 しかし、C子の頭脳はS美の予想を大きく阻んだ。家を出た時点で鍵を忘れたことに気づいて舞い戻り、その後はせっかく取りに戻ったにも関わらず施錠を忘れて舞い戻り、道に迷い、仕事場が何階であったのかを忘れ、デスクに着く頃には既に30分も始業に遅れてしまっていた。

 エレベーターで居合わせた同僚と思わしき人に散々笑われ、こんなに馬鹿にされたことはないと怒りすら湧いてくる始末だった。

 きっと上司にはしこたま怒られ、晒しあげられ、笑い者にされるに決まってる。

 そう思いながらもルールに則って上司の机に向かった。暗い声で謝罪をする。

 しかし、上司は一拍置いてから驚くほどの笑みでS美を励ました。

「どうした。君らしくない。具合でも悪いのか」

 彼は一度もS美を叱る言葉を口にしなかった。彼女のことを楽しそうに見つめ、会話する。

 同じように同僚の女からは似合いそうだからと服を贈られ、部下の男には髪を褒められ、あらゆる人が隙を見ては食べ物や飲み物を差し出しにくる。

 昼時には数え切れないほどの人が食事の誘いにくる。

 君を見ていると毎日が楽しい。そう言う者もいた。

 自分から話しかけただけで相手は幸せそうに頬を染めてうっとりと容姿を褒めちぎる。

 ドジをしてもそれすら愛らしそうに見守り、その様子を見られたことに喜びすら見出す。この職場の中心は明らかにS美であった。

 その日、C子のふりをしたS美は、生まれて初めて人の目を見て会話をし、同僚の数人に見送られながら一日を終えた。


 一週間の入れ替わり生活を終えた休日、彼女たちは部屋の前で行き逢った。

 懐かしい自分のものであった体を見て、お互い苦笑いをこぼした。

「まあ、あなたの人生も悪くないわね」

「そうね。あなたの人生も捨てたものじゃないわ。天才の人生を体験できるなんて、神様も面白いことをなさるわね」

「ええ。でも……うーん、そうね、やっぱり違うわ」

「あなたの人生も良いけれど、それでも一番は私よ。あなたもそう思うんでしょう?」

「ええ。いろんな人に愛されて褒められて、こんなに自信をもって人と話せたのは初めてよ。でもやっぱりバカは向かないわ。なんにも上手くいかなし、つまらないわ」

「それは私のセリフよ。尊敬されるのは気分がいいけれど、自分を着飾る楽しみもない。それに第一印象は視覚情報に依るところが大きいの。醜い姿なんてごめんだわ」

「ねえ、何か元に戻る方法は? 思いつかない?」

「あなたの頭によれば、こういうのにはいくつかお決まりのパターンがあるみたいね。一番多いのはぶつかった衝撃で元に戻るパターンかしら。やってみる?」

「もちろん。どうやって? このまま頭でもぶつけたらいいの?」

「バカね。それじゃ足りないわ。この廊下の端から助走をつけて思い切り体当たりしましょう」

 二人は廊下の端まで行って向き合った。そしてお互いの体を目掛けて全速力で走った。

 二人の運動能力はさほど変わらず、ほとんど同じスピードで廊下の半ばほどまで走りきり、漸く肉体が衝突し合う。

 というところで、ちょうどそこに現れた女性が、二人を守るべく衝突を阻んだ。

 その女性は突然の失速に転びそうになったC子とS美を、それぞれ片腕で軽々と抱きとめて、あわやというところだったと安堵に息を吐いてこう言った。

「いやはや、あんなにゆっくり歩いていてもぶつかりそうになるなんて、運動音痴にも程がある。憐れね」

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