第38話 【2052_1107】屋上庭園の輝き

 肌寒い海風が、屋上へ入った身体にぶつかってくる。

 もう夕陽は西に見える陸地へ沈もうとしていた。海面からの照り返しが少しだけ眩しい。

 

 辺りには誰もいなかった。


 それもそのはず。この時間が、もっとも会社が騒がしくなるのだから。自宅に帰るため必死に働く人もいれば、諦めて夜食を買いに出る人もいる。

 

 この会社で、どれだけの人が今日を生きているのだろうか。そして、いつか「あの時は忙しかったね」なんて思い出して、それが誰かにとって大事に日になったりして……。


 ほんのりと現れた感傷的な気持ちを胸にしまい込むと、奥に見える展望デッキに目を向ける。そこには、夕陽に照らされた2つのシルエットが佇んでいた。

 

 その姿を見ると、山野はなんだか妙な気持ちになる。遠い昔からタイムスリップしてきたような、長い旅行から帰ってきたような心地がしていた。ついさっきまで、あの人達とは一緒にいたのに、急に懐かしさが湧いてくる。今すぐ駆け寄りたいような、「おかえり」と言ってほしいような……

 

 それでも山野はゆっくりと、だけど自分の存在に気づいて欲しいように、1歩ずつ近づく。石畳の小道に「コツコツ」と靴が鳴る音だけが響いていた。


 先に気づいたのは、サクヤだった。

 いつも通りの無表情で、軽く会釈をしてくれる。たったそれだけのことなのに、山野の胸には熱いものが込み上げてきて、何か言葉を掛けたくなってくる。


 だけど今は、にっこりと笑顔で返すだけにした。

 

 そしてサクヤは、柵に手をかけて令和島の工業地域を眺めている、自分の主へ呼びかける。



「静間様。山野さんがお見えになりました」



 聞き慣れた声で軽く返事をすると、彼は振り返る。


 軽薄な笑顔、自信に満ち溢れた態度、人を見下して楽しんでいるようなあの視線……。さっき見た「メモリア」とは違う、山野が出会った時のような静間がそこにいた。こちらを見ると、軽く含み笑いをしてから、サクヤに目配せをした。


 

「ふっ、やっと来たか……。すまないサクヤ、少し休んでいてくれ」


「承知しました」



 軽く一礼してから、サクヤは石畳の小路を歩いていく。しばらくすると、静間が柵にもたれながら口を開いた。



「香椎の姉御はどうした?」


「……少し休んでから『竹村コントラクター』に行くみたいです。ここからなら、すぐですし。あと、『男性の記憶って合わない』って、言ってましたよ」


「まぁ、そうだろうな」



 「私は大丈夫でしたよ」と言いたかったが、静間は聞いてくれない。今は少しでも静間と言葉を交わしたかった。


 なんだか2人の間には、気まずい空気が流れている……いや、そう感じているは山野だけかもしれない。言いたいことはたくさんあるのに、どの順番で聞くのが正解か全く見当がつかない。そんなことを思案していると、次から次へと新しい質問が湧いてきて、全く頭の整理が追いつかなかった。きっとこんなことをしてるから、いつまでも言葉が出てこないんだろう。



 それでも何か聞かないと――



 山野は、はやる気持ちを抑えられなくなり、今まさに頭に浮かんだことを正直に言葉にした。



「……静間さんて昔は『俺』って言ってたんですね。ちょっと意外でした」


「ぷっ……あっはっはっは! やはり流石だな、お前は!」



 静間は少しだけ耐えていたが、最後には大きく口を開いて笑い出してしまった。身体を揺すって、本当に腹の底からおかしくて仕方がないといった様子だ。


 普段の山野なら「なんで笑ってるんですか!」と突っ込んでいただろう。しかし、今は見えない壁を崩してくれたようで、ちょっと救われたような気持ちになる。


 それでも口だけはきゅっと結んで不満そうにしてみるが、どうしても目元には笑みが隠しきれない。そして、段々とそれが声としても溢れ出してしまった。少しの間、2人の声が辺りを包む。


 目に溜まった涙を拭いきると、静間は一息ついてから、落ち着いたトーンで質問をしてきた。



「それで……お前はどう思った、のメモリアを。正直に言って構わん」


「えっと……。うちの社長がなんであんなひどいことをしたのか……もう怒りでわからないです。それに私、必ず布瀬さんを取り戻したい。もう1度逢いたいって思ってます。だって、あんまりですよ……! なんで布瀬さんが……」


 

 話し出すと、胸の中を漂っていた名もない感情がまとまってきて、急に押し寄せてきた。自分の出した言葉があの時を思い出させて、きゅっと心を絞ってくる。徐々に声はしぼんでいき、じっと自分の両手を見下ろしてしまった。そして、掴んだはずもない彼女の手を握るように、細い指先を目の前にかざしていた。


 その様子を静間は少し笑いながら見守っていたが、ゆっくり山野に近づいていく。



「私の記憶に当てられてるな……。ちょっとこっちを見ろ」



 そう言うと、静間はしゃがんで、腫れぼったい目をしている山野を見上げる。空っぽの両手をしっかりと握りながら、彼女に優しく語りかけた。



「私が見えるか? 今、お前の前にいる私は、どんな顔をしている?」


「……いつものいじわるな顔です。でも、ちょっとだけ優しい気がします」


「そうだな。悲しそうに見えるか?」



 手から伝わる温かさを感じながら、山野は黙って首を横に振る。「それでいい」と静間は呟くと、少しだけ強く手を握ってくれた。



「お前が感じた恐怖や痛み、そして想い。それは間違いなく私も感じていた。何年もの記憶が一気に流れたんだ。お前がそうなるのは、お前のせいじゃない」


「……はい、わかってます。私だって、『メモリア・デザイナー』なんですから」


「だからこそ、お前はを大事にしろ。他人の記憶と感情に敏感なのはいい。だが何よりも大事なのは、それを受け取ったお前がどうしたいかだ。……今もまだ悲しいか?」



 再び山野は、首を横に振る。だけど今は、さっきとは違う感情が芽生えてくる。


 私にできること、私がしたいこと……それはきっと――



「静間さん。私、メモリアを使う人には、みんな幸せになって欲しいです。私の周りだけかもしれませんが……。そして、もし今からでも間に合うなら、やっぱり私は布瀬さんの記憶が戻っていたか、確かめたいです」



 強く言い切る山野の瞳は、もう弱々しく震えていない。確固たる信念が感じられた。


 じっと黙って聞いていた静間は、いつものようにニヤリと口角を上げて悪い顔をしてくれた。握っていた手を離してすっと立ち上がると、再びビルの外へと向かって歩いていく。そして、背中越しに山野へ言葉を投げかけた。



「みんなが幸せか……。それをするためには、お前がもっと偉くならないとだな。ここの部長とか。まぁそれは、茂が引退してからになるが」


「あっ、茂さ……。えっと、九重部長には会わないんですか? あれからのことは『メモリア』になかったですけど……いいんですか?」


「ん? ああ、あそこから先はな、『プライベート』だ。気が向いたら考えるが、お前には話さないだろうな」



 思わず山野は「はぁ」とため息が出てしまう。これだ、やっぱり私が知ってる方は……。


 げんなりしている山野を見ながら、静間は内心胸を撫で下ろしていた。そして、そんなことは1ミリも顔に出さないようにしながら、普段の調子が戻っている彼女に1つの質問を投げかける。



「少し前だが……赤金市の奥村のこと、覚えてるか? 彼が疑似睡眠状態になっていた時のことだ」


「佐々木さんが昔話をしたら、記憶が一部活性化したことですよね? 今更ですけど、結局あれはなんだったんですか?」


「これは仮説だが……人間の五感には運動機能が伴わなければ能力を発揮できない感覚がある。視覚、味覚、嗅覚、触覚。これらの感覚は、運動機能がオフになっている無意識下ではまともに働かん」



 静間は滔々と自説を展開する。まさに水を得た魚のようだ。こういう時の静間が、山野は一番好きだった。思うように、思いのままに、好きなことを語る姿に少しだけ憧れてしまう。


 身振り手振りを交えて屋上を闊歩しながらも、まだまだ静間は止まらない。



「……だが、最後の聴覚は運動機能がなくても機能できる。音が鼓膜に届き、聴神経、脳へと伝われば、例え寝ていても認識できる。記憶保存中とはいえ、完全に脳の働きを停止させることはしない。つまり、あの状態の奥村には、しっかり佐々木の話が聞こえていたと考えている。そして、過去の古い記憶を想起させるような思い出話をきっかけに、活性化した。私はそう考えている」


「でもそれがなんの……。あれ? もしかしてですけど、あの時の布瀬さんも? 布瀬さんも、静間さん達の話を聞いていたかもってことですか?」



 山野の問いに、静間は答えない。だが、それを聞き終えると、少し俯いてから天を仰いで深く息を吐く。



「そうかもしれん。あの瞬間、確実に記憶は戻っていたはずだ。だが……あれっきり私は布瀬とは逢えなかった。馬鹿げた希望だろうが、トンネルで見た奴が本当に布瀬なら……確かに私のことを憶えていた」


「静間さん……」

 

「フン、私らしくもない感傷に浸ってしまった。仮にそうだとしても、今の布瀬がなぜああなったかはわからん。それに、この島でふざけたメモリアの使い方をしてるのがあいつだとしたら、私にはそれを止める義務がある」


 

 静間が見つめる空は、もう既に日が落ちていた。薄闇に浮かぶ雲の切れ間から、白い月が顔を出して輝いている。その輪郭をしっかりと確かめているかのように、静間はじっとしている。そして、誰に話しかけるわけでもないような、小さく穏やかな声が聞こえてきた。



「光があれば陰も生まれる。光がある限り、陰は生まれ続ける。光を止めてもダメなんだ、陰も消さないと……。私達が始めたことの責任は、自分で取らないとな」



 彼の吐露を、山野の心はしっかりと受け止めていた。


 だが、それは同時に一抹の不安も植え付ける。今度こそ……今度こそ本当に、静間は戻ってこないかもしれないと思い始めていた。



 ――そう、だからこそ私は……



 

「さて、そろそろ私は帰ろう。お前も香椎が待たせてる刑事に送ってもらえ。明日は早いぞ」


 

 それだけ言うと、静間は一直線に庭園のエレベーターへと向かっていく。「明日」は……特に何もなかったはずだが、どうしたのだろう。


 返事もせず不思議そうな顔で見つめる山野に、静間はいたずらのネタばらしをするようにニタニタと笑ってから、エレベーターのボタンを押した。



「うちの姉御が『竹村』へカチコミかましてるんだ。黙ってても、明日は向こうから呼び出しが来るさ」


「わかりました。……『姉御』なんて言ってると、香椎さんに怒られますよ」


「構わん~。どうせ向こうも、私のこと嫌いだろうしね!」



 「もう!」と、咄嗟に不機嫌な声が飛び出す。思わぬ自分の声にハッとなるが、それでも山野は取り消さない。これが、私のいた場所なんだから。

 

 いまエレベーターを待つこの時も、いつか思い出したりするんだろうな……。外に広がる街の明かりを見つめる山野の瞳は、また別の光でも輝いていた。

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