第42話 【2052_1107】囚われの過去

 ――自分の入店の番が来ると、私は棚に並ぶパンを横目に、真っ直ぐレジを目指す。

 


 「おはようございますー」


 「ああ、おはよう山野さん。今月も作ってあるよ」


 「ふふっ。はい、お願いします!」


  

 リストバンド型のデバイス「フォリウム」をかざして、支払いを済ませる。店主の木本さんに挨拶すると、足早に店を後にして駅に向かう……。



「火曜日からなんて罪深い……」



 * * *



 ――皆の前で自分の名前が呼ばれると、やっぱり緊張してしまう。それでも、どうにか足を動かして校長先生の待つ壇上へと上がっていく。



「秋の読書感想文コンテスト、小学6年生の部『優秀賞』山野芽衣。あなたは……」



 賞状を読み上げられている間、頭の中では読んでいた「春の谷の魔女」のワンシーンが思い起こされていた。そう、あの時の魔法がすっごくおもしろくて……



 * * *



 ――春の暖かい日差しが、ビニールハウスを通して顔に当たる。いちごの甘い香りと、畑の土の匂いが私を包んでいる。



「ねぇ~、明日もここに来ようよ~。ずっといちご狩りするの!」


「変なこと言ってぇ、芽衣は春休みの宿題終わってるの? 中2に進級できなくなっちゃうわよ~」


「だ、大丈夫だよ! ……ちょっとパパに手伝ってもらえないかな?」


 

 遠くで夢中になっていちごを摘んでいる背中を、わずかな期待を込めて見つめる。隣にいたママは「やっぱり~」なんておもしろがってるけど、別に全然進んでないわけじゃないし。


 でも、どうやってパパに宿題を手伝ってもらう言い訳をしようか……。私の頭は休みの日だと言うのに、猛スピードでフル回転していた……。



 * * *



 甲高くブーツを鳴らしながら、布瀬が錆びた鉄骨階段を上る。


 初めてこの場所で「メモリア」を世に放った時と同じ、上品なグリーンのベロアスーツを着ていた。そして彼女は、2階の作業員仮眠室へ入っていく。


 中のソファには、山野が力なく横たわっていた。


 報告通り、首の「記憶迷路」は上手く動作しているようだった。黒いプラスチック製の首輪のようでもあるが、本体にはブルーのライトがけたたましく点滅している。


 布瀬は、山野の頬をそっと撫でる。


 細く白い指が、少し青白い顔のラインをなぞっていく。どこかでこんなことがあったような、あるいは自分がされたような、奇妙な過去が布瀬の脳裏をよぎる。

 しかし、一瞬の後、もうそんな曖昧な感覚は消え去っていった。



「……」



 横たわる山野をもう1度見る。その目元は眠そうな重い瞼で覆われているが、瞳のハイライトも薄い。やはりどこか退廃的だった。


 そのままゆっくり布瀬は立ち上がると、仮眠室を後にした。再びブーツが階段を叩く。その音だけが、古く空っぽな倉庫内に反響する。


 小一時間前までは、赤金市から運んできた荷物でいっぱいだったが、今は停泊しているコンテナ船へと移動が終わっている。残るは外のコンテナだけだが、それももうすぐだろう。


 倉庫から出ると、入り口脇に獅童が待っていた。


 何やら不服そうに、じっとこちらを睨んでいる。腕組みをしているが、新しい右腕はまだ馴染んでいないようだ。しっかりと肘が曲がらず、組めていなかった。


 布瀬の姿を確認すると、彼はぶっきらぼうに言葉を投げてくる。



「トンネルに来た時は何かと思ったが、いい加減に訳のわからねえ変わり身もやめてもらいたいな……。相変わらず得体がしれねぇぜ」



 その言葉は布瀬の耳にも入ったはずだろう。しかし、彼女はまるで獅童など存在しないかのように、一度も声の方を振り返らない。そのまま、遠くに停泊していたコンテナ船の方向と歩みを進めていった。


 獅童はその反応がわかっていたのか、別段取り乱すこともなく、黙って彼女の後に続いていく。恐らく普段からこの調子なのだろう。


 満月にはわずかに満たない、十六夜の光が、闇を歩く2人の陰を地に落とす。


 遠くで忙しなく運搬を続けるクレーンの稼働音も、ここでは朧気おぼろげに聞こえた。この静けさに、まるで時の流れすら淀んでいるようだった。


 倉庫から数十メートル、ようやく布瀬が口を開く。

 


「……早く表のコンテナも運ばせといて。蛛詠ジュヨンが捕まって、挙げ句にあの子を連れてきたんだから、もうじきここも掴まれるでしょ」


「なぁ、あんたとは長い方だし、コロコロとのもまァいいが……はっきり言って今回はハメられてるぜ? 親父共によ……」


「さぁ……」



 会話はそれが最後だった。


 布瀬は海岸に係留されているコンテナ船に向かっていく。その顔には、動揺は一切見られない。こんな現状でも、自身の安否に全く興味を示していないようだ。



「娘の記憶を消しても足はついてるか……思ったより逃げるタイミングが早まったな」



 布瀬に気取られぬように、獅童はひっそりと心の内をこぼす。


 そして、言われた通りに動いていると言わんばかりに、わざとらしく足を鳴らして方向を変えると、残っているコンテナ郡が生み出す陰の中へ歩いていった。


 取り残された布瀬の姿だけが、月光に照らされている。


 その「生生流転しょうじょうるてん」とでも言うべき淀みのない足取りは、行く川の流れに従うように……そして、避けられない彼女の行く末に向かって、粛々と歩む姿に見えた。


 動き出した過去は、もう何者にも止められなかった。

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