第33話 【2045_xxxx】記憶痕跡保存媒体検討

「一昔前だったら、記憶がどこに保存されているかは、曖昧だった。だがナノマシン技術とAI研究が進んだおかげで、『海馬』と『扁桃体』の両方に『記憶痕跡エングラム』という特殊なニューロン群が見つかり、そこに人間の記憶が蓄積されていることが判明したんだ」


「えーっ…と、というと、記憶はその『記憶痕跡エングラム』にあって、それを取り出すには……?」



 茂の質問攻めにも、そこそこ飽きてきた。


 思わずデスクを「トントン」と、指で忙しなく叩いてしまったが、茂は気にも留めてないようだ。熱心にここまで聞いてくる研究員も、今どき珍しい。


 論文、参考資料、研究レポート……データ化されて、電子の海を漂うそいつらを見つけるのは、容易なはず。

 それでもこの男は目を輝かせながら、俺の言葉を丁寧にメモにまとめている。若い好奇心っていうのは、どうしてこう熱く活気があるのだろうか。



「『記憶痕跡エングラム』は、新しい記憶を蓄積あるいは古い記憶を思い出す時に活性化し、微弱な電気信号を発している。わずか数万分の1mmの世界を0.1秒で飛び回る電気信号を取得するためには、ナノマシンとスパコン、それらから送られたデータを学習して、機械語に翻訳できるAIが不可欠でした……という話だ。まぁそれも去年の話だが」


「な、なるほど……。では、例えばですが……その『記憶痕跡エングラム』がわかるのであれば、それを別の電気信号で書き換える、つまりも可能なんでしょうか?」



 なかなか面白い質問だ。


 一見、荒唐無稽に思えるが、着眼点は悪くない。思わず俺の口角は上がってしまいそうになる。興奮で一気に走り出す思考を、的確にまとめていく。こういう話ならば、いくらでもしてやっていい。



「いい質問だなぁ~、それは……」


が保存されている『海馬』の『記憶痕跡エングラム』を活性化させながらを体験させれば、元々のは上書きされる。だけど、『扁桃体』の『記憶痕跡エングラム』では、同様の現象は発生しない。会った人や出来事を記憶する『海馬』は変えられても、その時の怒りや悲しみ、喜びなど感情面を制御する『扁桃体』だけは不可侵。いくら技術が発達して『記憶痕跡エングラム』を変えられたとしても、感情は変わらない」


「布瀬ぇ~…、またお前はそうやって……」



 隣のデスクに、布瀬が戻ってくる。


 昔みたいに、研究以外には無関心と無発言ということも少なくなった。会議だろうが研究報告会だろうが、間違いがあれば進行を止めてでも即指摘するようなことも……そっちは先週あった気がする。


 でも今は、こうして俺たちの会話に気軽に入ってきてくれる。「技研の狂犬」と、俺が勝手に呼んでいた時の布瀬には、残念ながらもう逢えなくなってしまったが。


 俺は、話の勢いに任せて、そのまま布施に話題を吹っ掛けてみる。



「じゃあお前はどう考えてる? 人間の記憶が感情を制御できる可能性について」



 布瀬は、持っていたノートをパタリと置いてから、パソコンを操作している。


 無表情で重い瞼。気だるそうな猫背に、いつもと変わらないボザボサの髪の毛。聞こえてないようで実は聞いてるというのも、最近わかってきた。これも、こいつの面白いところだ。


 俺の予想通り、数秒遅れてから不機嫌そうな反応が帰ってくる。



「さぁ……私は別に興味ないけど……。それでこの世界が少しでも良くなれば、気が向くかもね」


「フフッ……相変わらずロマンがない」



 口ではあんな事を言っているが、手は休まずにキーボードを叩いている。


 恐ろしく強い打鍵音と凄まじい速度のタイピング。見る見るうちに、彼女の思考が文字化されて、モニターに並んでいく。こういう時の布瀬は、鬼気迫るものがある。


 あの身体の中で、彼女だけが描こうとする世界が、現実に顕現する時を待ちわびて、激しく燃えているのだろう。


 それでも、声にはわずかな穏やかさを感じた気がする。

 横顔から見える目元……万年睡眠不足で、もはや隈なのか、最低限のアイシャドウなのかわからない影が浮いているが、あれでも絶対笑ってるに違いない。

 

 段々と、こいつの貧弱な感情表情も、掴みどころが見えてきていて、これはこれで興味深かった。



「……はい、わかりました。布瀬さん、主任がルーム3まで来てくれだそうです。保存媒体の件について話したいと」


「そう……」



 いつの間にか内線を取り次いだらしい茂の声が響く。


 布瀬は相変わらず、気だるそうな返事をしたが、手はまだ動いていた。数秒後……思考の区切りがついたのだろうか、ピタッと動きを止める。そのまま時間を掛けてゆっくり立ち上がると、ためらうような足取りでそのまま部屋を出ていった。


 隣の自席に戻ってきた茂を見ながら、俺は感じた違和感をぶつける。



「……お前の父親か。最近やけに呼び出しが多いな」


「ええ……。僕の父というよりも、うちの会社の方が何か用ありっぽくて」


「ふぅん……」



 研究中はあまり意識していなかったが、元々布瀬と茂は「竹村コントラクター」の職員だ。同じ技術研究組合CIPに参加しているといえども、彼らには彼らの会社だけの話がある。それは俺もわかっている。


 だが、なぜか最近は「あの呼び出し」のことが気になり始めてきた。


 俺自身に不利益なことがあったとか、役所から研究に対して無茶振りが降りてきたとか、実害を被るものもない。それでも、布瀬があんな様子で出ていくのを見るのが、なぜだか嫌になってきている……。


 得体のしれない感情の正体を探ろうと、思わず唸ってしまう。が、知らない間に腕組みなどして眉間にしわが寄ってしまった……。茂に気取られてあれこれ詮索されても面倒だ。


 決まりの悪い顔をごまかしながら、俺は先手を打つ。


「はい、茂くん。他に質問は?」


「ええっと……じゃあ記憶を呼び起こす際の脳部位間コミュニケーションについて……」





 * * *


 



「そんなことで毎度呼ばれてるのか? 竹村も随分意固地だな」


「上手く記憶がデータ化したと思ったら、それを『磁気記憶媒体』で保存しろって……そりゃあ40年も前ならそうしたかもしれないけど、衝撃にも弱いし保存量が少なすぎる。事業化を目的にしている以上、携帯性を考慮しないのはあり得ない。そんな技術じゃ、この世界はちっとも変わらない」



 珍しく多弁な布瀬は、勢いよく熱燗を猪口に注ぐ。いくつも徳利を空けていたが、意識はしっかりしてた。


 布瀬の呼び出しの謎が解けた俺は「ハッ」と軽く鼻で笑い、数日溜め込んでた無駄な思考を吹き飛ばした。そして、卓上に並んでる刺し身をようやく堪能する。



「それで? 天十郎主任だっていたんだろ。どれだけの博打になるかは、あの人だってわかるはずだ」



 海老のとろりとした甘さが口に広がる……そいつを冷酒でキュッと絞める。かぁっと喉奥が熱くなり、脳に多幸感が溢れていった。店内照明のせいかもしれないが、視界が光でまばゆくなるようだ。


 その隙に、隣でたこわさを追加注文する声が聞こえてきた。こいつまだ食うのか……。


 呆気にとられていた俺に、布瀬は機嫌の良さそうな笑顔を向ける。

 


「『狡猾老獪こうかつろうかい』って感じ。私達が提案してる『マイクロフィルム媒体』なら低コストで量産可能だし、薄くて軽い。まだそれが実用化できてないことを知ってるくせに『上手くいけば検討の余地もある』だって」


「なるほど。実用化できれば乗り換えるが、それはお前たちだけでやれってことか。見た目通り、喰えない爺だ」



 俺の返答に、布瀬はクスリと笑う。彼女の唇から漏れる声が心地よい。意気投合した旧友と話しているように、なんの気兼ねなくこいつとは話せる。それでいて、俺の心には、どこか安心感も生まれていた。


 ふと、細く白い腕に見える時計が目に入る。



「……針を外してるのか? せっかく俺が選んだやつなのに」



 わざとらしく不満そうな顔をして、布瀬を睨んでみる。少しだけ申し訳無さそうに眉をひそめたが、俺の反応がおもしろかったのか、口元を抑えて微かに笑う。



「時計なんてどこにだってあるし、静間に聞いたらすぐ教えてくれるでしょ」


「うーん……しかし、動いてるかわからん時計って不便じゃないか? 時間にルーズなお前にぴったりだと思ったのにな」



 すると、布瀬はいたずらっぽい目を向けると、細い腕を俺の耳元へ近づけてくる。


 針の無い時計は「コチコチ」と、中の歯車だけが時を刻んでいた。店の喧騒の中でも、今この音だけはしっかり聞こえる。


 ……いや、ここに来て酒が回ってきたらしい。少しだけ時計の音がぼんやりとしてきた。顔もなんだか熱を感じるし、鼓動の音の方がはっきりし始めたようだ。



「いいのよ、これで」



 優しい布瀬の声が、耳に入ってくる。その声だけは、今の俺の身体を流れるどんな音よりも、凛と響いてきていた。



「フン……。初めて逢った時は、こんなおもしろい女だとは思わなかったな」


「あのね、普通の人は初めて挨拶する時に、人の容姿のことを聞いたりしないの」



「そうだったかな」と、とぼけてみるが忘れるはずもない。もう二度と、あんな風に怒られるのは嫌だが……。ただ、もし初めてまた逢う時が来ても……きっと俺は同じようにするだろうな。


 屈託なく笑う布瀬の横顔を眺めながら、俺はこの研究が終わって解散した後のことを考えないようにし始める。


 賑やかに人々が談笑する居酒屋の中で、ただ布瀬の笑顔と笑い声と、俺の高鳴る鼓動だけがずっと続いていった。

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