第2章 令和島オロチリンクス編
第18話 【2052_1025】情報1課の契機
「令和島」と神奈川方面を繋ぐ海底トンネル「第5オロチリンクス」を、1台のスポーツセダンが走り抜ける。
クラッチが踏まれてスムーズな加速を得ると、専用車線を走る自動運転トラックを、何台も追い越していった。
やがてトンネルを抜けると、高層ビル群の合間から厚い曇の切れ目が見えてくる。わずかに窓を開けて沿岸道路を走っていると、陽光と塩気の混じった冷たい風が、車内を通り抜けた。
『
いかめしい名前が掲げられている警備門を通り、香椎は地下の職員駐車場に車を停めて、エレベーターで上がっていく。
黒のビジネススーツにパンプス、そして無駄なく一つに結ばれた黒髪。これが、いつもの香椎の姿だ。
「
本部は永田町だが、ここ「令和島」にも2号館が設置されている。「スマートシティの取組を官民連携で加速するため」として、他警察機関等と併せて建てられていた。
「……さて」
誰もいないオフィスで日課のブラックコーヒーを淹れながら、アサナはひとりデスクの上の資料に手をつけ始めた。
* * *
太陽が昇ってきたのか、中途半端に降ろされたブラインドから日が差し込む。
一段落したアサナが顔を上げると、眠そうな瞳を擦りながら小柄な女性職員がやって来た。シャツにブルゾンを重ねて、余った袖を遊ばせている。
「……あれ、アサナさん? 今日も早いっすね。昨日、遅かったんじゃないすか?」
「ええ。みさきも今日は早いのね」
「ふぁあ、はい……。先週豊洲のクラブで捕まったブローカーの調書をとってたっす。記憶喪失で時間がかかっちゃって……。今日から再開っす……」
置かれているキャラクターグッズや可愛いマグが、少しばかり揺れた。あどけない顔から、まだ眠気が抜けていない。
「でも、記憶喪失くらいなら所轄か警察のサイバー犯罪部内で処理できなかったの?」
気になった香椎は三崎に尋ねる。寝ぐせで跳ねたショートボブの襟足を、しきりに撫でながら、三崎は声だけで返事をする。
「……それが約半年間の記憶はあるんですが、狙ったように『キュベレイア』での活動記録だけ焼かれてました。捕まえた時は支離滅裂だった、って現場の警官は言ってます」
言い終わった後も、まだ手は動いている。マグにラテを注いだり、昨日の資料が残ったままのデスクを、忙しなく片づけているようだ。
「いつもの手口ね。わかってて聞くけど、供述はどこまで取れたの?」
「アサナさんもいじわるっすね~。自分の記憶なのに『キュベレイア』については体験ベースの供述が一切ない。疑いもなく、こいつも信者っすよ」
「キュベレイア」。
令和島内で違法なメモリア使用を繰り返し行い、多くの記憶喪失者を出している集団だ。
その手口は、「違法改造されたメモリア」を貧民層の住人に使い、記憶を「メモリア」へ保存させつつも「元の記憶を完全消去」するという、非人道的なものだった。
そして、その「メモリア」を「サポート・ドール」に再生すれば、記憶と自意識が元の肉体を離れて「サポート・ドール」に移り、新しい肉体で生き永らえると吹聴していた。
だが、そんな成功事例は、どこの研究機関にも存在しない。それでも、彼らは「魂の救済」をずっと唱え続けている。まだ「令和島」内での事件に過ぎなかったが、それでも彼らを信奉する者は、既に数千人を超えていた。
「このままだと被害者は拡大するばかりなのに……。どうして何も掴めないの」
香椎はデスクから「キュベレイア」関連の資料を取り出し、唇を噛み締めながらページをめくる。
目ぼしい情報がもうそこにはないのはわかっていたが、それでも何か気づくことがないかと、手は自然と動いていく。
すると、1件の音声通話依頼が届いた。通話先を確認し、すぐさま応答する。
「おはようございます、ジョルジュさん」
「さすが。もうオフィスにいるんだな」
「はい。それで、何かありましたか? 今日は午後からだと聞いていたのですが……」
「昨晩、警察庁の知り合いから連絡があってな。都内の河川敷で女性型サポート・ドールを回収したんだが、損傷が酷く、廃棄しようとしていたらしい。規則通りに行動や視覚履歴を掘ってたら、別の人間の記憶を
「それで、そのサポート・ドールと入っていた記憶は?」
思わず香椎はデスクを揺らす。ただならぬ気配を感じたのか、三崎は自分の仕事を進めながら、こっそりと通話に耳だけ傾けていた。
「そう言うと思って、本部で復元したデータを送ったよ。断片的だが、「メモリア」再生はできた。確認してくれ」
「わかりました。三崎も出ているので、これから確認します」
「おっ、そうか! まだベッドの中だと思ってお前に連絡したが、俺も嗅覚が落ちたかな」
「課長、バカにしないでほしいっす!」
「ハハッ! じゃあ、よろしく頼むよ。ひなこの調書は後回しで構わん」
すぐに1件の「メモリアデータ」が送られてくる。「memファイル」と呼ばれる、まだ物理媒体に保存される前の記憶データだ。
香椎は、三崎にも見えるよう大型の3Dウィンドウを宙に展開して、送られた「メモリア」情報を表示した。
「……かなりひどいわね。再生できる箇所が少なすぎる。これじゃあ元の記憶も…」
「あ、アサナさん。そこから再生できますよ、10月22日。これも1分くらいしかないっすけど」
展開していたウィンドウを長方ディスプレイ状に変形させ、香椎は、「メモリア」の再生箇所から「10月22日_01」を選択する。
波形音声図、感情起伏座標、位置・環境ホログラム、会話ログ……。これで直接再生機器を通さずとも、視覚的に「メモリア」を確認できる環境ができた。
三崎を一瞥してから、香椎はその「メモリア」を、1人称視点で再生した……。
* * *
……開始した瞬間はノイズが多かった。視点もゆらゆらと不定期に揺れ、まるで焦点が合ってない。音声を見ても、ただ歩く音と「サポート・ドール」が上げる機械的なうめき声が出ているだけだ。
感情起伏座標も[x0,y0]の始点で止まっている。つまり、この記憶には文字通り感情が何もなかった。
そして、周囲の3D構築を試みていたホログラムは、
少し経つと視界が明るくなってくる。彼女の記憶が、安定してきたのだろう。
「サポート・ドール」は、自らの掌をじっと見つめる。指の間には自身の髪だろうか、白く脱色した生糸のような毛が、何本も絡まっている。
目の前には数の男達が、箱を運ぶ様子が見えた。中には透明なカードのようなものが溢れていて、箱が揺れる度に乾いた音が鳴っている。
「どっかに売りに行くのか、ミスってゴミになった『メモリア』を作業員が不法廃棄してるんですかね~」
「……あと30秒ある」
タイムラインを見ながら、香椎が呟く。けれども、その意識はまだ再生されている「メモリア」に向けられ、どんな些細な点も見逃さまいと集中していた。
そのまま歩いてくと、今度は橋が見えてきた。
人間2人が、やっと通れるほどの狭く古い吊橋。ところどころ赤錆が目立っている。少し荷を運ぶペースが落ちるが、運び手は足元に注意を配りながら、そのまま橋を渡っていった。
橋の真ん中あたりに差し掛かると、その向こう側になにやら大きな黒い塊が見えた。深く生い茂る木々か……いや、あれは……。
「……洞窟」
「位置情報は完全にロスト。山奥で、古い橋と河川。そして洞窟がある……ちょっとこれじゃあ、わからないっすね」
「待って。様子が変だわ……何か探しているの?」
いつも間にか「サポート・ドール」は、不規則に頭を上下に振り始めていた。まるで、身体を走る苦痛にもがいているようだった。
「悲しみ」、「嫌悪」、「不安」……感情起伏座標もネガティブな方向へ乱れ、次第に激しいうめき声が、波形に表れた。
続いていた歩みも止め、糸が切れた人形のように立ち尽くしている。会話ログには、依然として何のテキストも表示されていない。
すると、いきなり橋の下の川岸に視線を向けた。
そちらを向くよう指示を受けたかの如く、はっきりと焦点を合わせていく。ぼやけていた視界は、ぐんぐんと鮮明さを得ていき、次第に川岸にいる人影を捉えた。
そこには、女性が立っていた。
河川に1人で立ち、向こうもこちらを見上げている。
薄くブラウンの入った黒髪をかき上げて、まだ幼さの残る顔を不思議そうに向けている。地元の女の子だろうか、純朴そうな印象の子だった。
「…………ァ。ァア、、ア、、ウウ、、、ォオオッッ!!!!!!!!!!!」
次の瞬間、始めて会話ログにテキストが入ってくる。
大量のログが駆け巡り、数十行もスクロールしていった。だが、それは言葉にはなっていない。ただ獣のように喉を鳴らしている、音の集合だ。
そして、感情座標が指す点は、意思を持った生き物のように飛びまわっていた。縦横無尽に暴れ、次々とネガティブな感情をデータに示していく。
「怒り」、「苛立ち」、「嫌悪」、「悲愁」、「後悔」、「恐怖」、「拒絶」、そして「恍惚」……。
ここまで多様な感情起伏を見せる「メモリア」は、始めてだった。目の前の現象すべてを認識することも、理解することもできない。ただただ、2人は傍観することしかできなかった。
そして、「サポート・ドール」の視点は、川岸にいる女性に集中する。見えるはずもない視力なのに、彼女の瞳はまっすぐとその顔に向けられて……。
「………シ、。。ズ………、、。」
《Warning,or Memoria end......》
あっけない最後だった。
具体的な場所が、わかるわけでもない。誰かとの会話が、残っていたわけでもない。2人の間に広がる沈黙が、手掛かりのなさを物語っていた。
だが、先に動いたのは、香椎だった。
「さっき橋の下にいた女性を認証システムにかけて。私は河川の情報から該当地域も絞り込む」
「……あっ、はい! わかりました」
香椎は、デスクにあったこれまでの資料を脇に追いやると、さきほど出力されたログを細かく展開する。
――何もなかったんじゃない。ただ今は見えていないだけだ
長年の経験と直感だけが、今の彼女を「この先の真実」に向かって、駆り立てていた。
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