記憶の底の少女

 レイルスがかつては自分の家として使っていた家屋に戻ってきたのは、夜も間近になってからだった。

 森の中の狭い土地に差し込んだ西日は、明るい場所よりも暗い場所を増やしているようだった。建物と、石垣と、それから張り出した木々の枝の影が、村をまだらに切り取っている。そんな村の中を、野菜を満載した籠を背負ってレイルスは横切り帰宅したのだった。

「……なんだ、その荷物」

「いやちょっと、みんなに挨拶するついでに畑に行ったら貰っちゃって……」

「こんなに食い切れねーな。明日になったら村長さんとこに持っていこう。分配したり、加工して倉に収めてくれるだろ」

 入り口に置いといてくれ、と言われたのでレイルスは言われたとおり、土間に籠を置いた。玄関から入って右手側に台所があり、ルサックはそこに立って料理を作っていた。とはいえもうほとんど出来上がっていたようで、フライパンの上には湯気と香気を立てる、焼かれた肉の塊があった。もう一品スープでも作るのか、二つあるコンロのもう一つの方には、鍋が一つ置かれていた。

 台所の反対側は、一段高くなった木張りの床が広々と続いている。床の上には毛足の長い絨毯が敷かれ、その上に座卓とクッションが置かれていた。他に部屋は無い。部屋の隅にはタンスや長持があり、寝る時は布団をそこから出して寝る。簡素な、最低限の機能しか無い一軒家だった。私物といえる物はほとんど無い。元からそうだった。レイルスもワレンスも、無駄な物を持つという考えは無かった。あるいは、そのうちここをレイルスが巣立つことをワレンスが予期していたのかもしれない。本当に、余分な物は玩具一つ取っても無かった。

 殺風景とすら言える家の光景を懐かしげに眺めると、レイルスは台所で手を洗い、食器棚から皿を二枚出した。それを受け取ったルサックが、二枚の肉の塊を皿の上に乗せる。どうやら鳥肉のようだ。ルサックと別れた時間から逆算して、森の中に入って野鳥を狩ってきたのかもしれないな、とレイルスは思った。

「……ルサック、森の中はどうだった?」

「ん? ああ、特に変わりは無かったな。狩りのついでにちょっと見回ったが、魔物の痕跡は無かったよ」

「そうなんだ……」

「とはいえ、油断はできないな。ラーナですらあんな量の魔物が出たんだ。クピディタスの奴らは、魔物を使って侵略してくるって話もあるし……」

「それなんだけどさ」

 ルサックの言葉を遮るような形でレイルスは言った。

「森の中に……集落があるんだ。そこに、クピディタスの奴らが来たんだって」

「……そうか」

「ルサックは知ってたのか?」

 ルサックは、かなりの間黙っていた。眉間にしわを寄せて野菜を切り、それを鍋に放り込んでいく。鍋の中には出汁のつもりなのか、鳥の骨が突っ込まれていた。

「ルサック……」

「知ってた、っちゃあ知ってたかな……」

「やっぱり、そうなのか」

「いや待て。俺だって詳しくは知らないんだ。グラナトに何があるのか……お前がたまに村からふらりといなくなって、森の方へと行こうとするのを何度か止めたって、ワレンスさんには聞いてたんだが。むしろ……お前の方が俺に、何か言ってないことがあるんじゃないのか?」

 どきりとして、レイルスは思わずルサックから目をそらした。泳ぐ視線が鍋の中へと向く。煮立ったスープの中で具材が踊っている。ほとんど完成に近い。味を見ようと小皿にスープを入れて飲むと、ちょうど良い塩加減だった。

「……ちょっと長くなるかもしれない。食べながら話してもいいか?」

「おう」

 短く返事をすると、ルサックは木の椀にスープを流し込み、それを座卓の上へと運んでいった。レイルスもそれにならって皿を座卓に並べる。卓上にはすでに、数個のパンとサラダが盛られた皿があった。

「いただきます」

 そう言ったのはレイルスだけだった。ルサックは瞑目し、小さく頭を垂れて胸の辺りに右手の拳を当て、何かを呟いていた。その言葉が神に祈る言葉だとレイルスは知っている。そして、見る度に不思議に思う。大陸東部では、神というものはほとんど廃れた存在だった。それはおとぎ話の中にある超常の存在で、精霊や妖精とかと同じものだった。クピディタスには信仰する神がいるらしいが、その信仰もここ数十年の間に、いきなり持ち上がったものらしい。この世界で信仰や祈りは、旧文明のものだった。

 どうして祈るのか、とレイルスは聞いたこともある。しかし、ルサックから返ってきた言葉は『単なる習慣だ』という簡潔なものだった。本当に、特に信仰心があるわけじゃないのだという。――そんな習慣がどうして身についているのかが気になるのだが、未だにレイルスはそのことを聞き出せていない。ルサックにしろ、そして父ワレンスにしろ、自分に会う以前のことは何も分からない。それが時折寂しくもある。

「……俺に合わせずに食っててよかったんだぞ」

「あ、ああ……うん」

 お互い知らないこと、言っていないことが多い――そんな思いをそっと胸にしまい込んで、レイルスはサラダにフォークを突き刺した。ルサックは、丸いパンを裂いてそこにサラダの具材を挟み込んで食べている。

「さっきの話だけどさ」

 青菜を咀嚼して飲み下すと、レイルスは口を開いた。

「グラナトの森の中に、村があるんだ」

「……村が?」

「うん。そこから、こっちの村に来てた子がいたんだ。俺がまだ小さい頃……村に来たばかりの年だったから、六歳かそこらだったと思う。俺と同じくらいの年の女の子で――」

「一人でか? 瘴気は……どうしてたんだ」

 レイルスは、黙って首を横に振る。分からない。昔も不思議に思っていたけれど、その時はあまり気にかけていなかった。なにせ、

「わたしは平気なの、って言われて。そういうもんかな、って思って」

「普通じゃありえないな。確かに個人差はあるけど、瘴気を吸って大丈夫な人間はいない。ましてや……女の子だろ? 体格が小さけりゃその分だけ瘴気の回りも早い。それなのに、か……」

「ごめん、いままで言ってなくて」

 指摘されれば異様なものだったと改めて分かる。本当なら、もっと早くに言うべきだったのかもしれない。――それでも、レイルスは言えなかったのだ。

「その子、誰にも言わないでって俺に言ったんだ。村から出てはいけない。一番大切な人以外に、村の場所を教えてもいけない。それが村の掟なんだって言ってた」

「そうなのか。だから、いままで言えなかったんだな」

「うん……でも、もし言ってたらって、思うんだ。もし事前に、村長にでも言ってたら、って……」

 クピディタスがグラナトに分け入ったと聞いて、レイルスは心臓が止まるかと思った。あまりにも愕然としていたせいで、逆に驚きが表に出なかったほどだ。もしかしたら、あの子は戦争に巻き込まれたのではないか――たまらなく不安で、口を付けたスープの味がよく分からなくなってくる。

 そんなレイルスの不安を見透かしてか、ルサックはどこか軽い口調で言った。

「言っても結果は変わらなかっただろうな。この村は、村を自衛するだけで精一杯だ。巡回する狩猟団や国の兵もあまり来ない。この村の近辺、西の方にクピディタスの兵が出たって話はちょっと前に村長から聞いてたんだが……何しに来てたかは分からなかったんだ。元々、グラナトは神域で、洞窟だらけだから、探索も難しい場所だしな……」

 だから、お前が気に病むな。言外にそう言われても、レイルスは心のどこかに濁ったおりが溜まるような感覚を覚えていた。

「それで、だから俺、明日……そこに行こうと思うんだ。その女の子に教えてもらった村に」

 いまさら行ってどうなる、どうせもう手遅れだ――などとルサックは言わなかった。

「道は分かるんだな?」

 簡潔な問いが、レイルスにはありがたかった。

「教わった道、というか目印が変わってなかったら大丈夫だと思う」

「そうか。良い機会だ、その辺りの調査をしちまおう」

「いいのか?」

 すぐにルサックは頷いた。が、レイルスが問いたいのはそれだけの話ではなかった。伝説の王のマナストーンを探す、という話だったはずだ。ここにいったん立ち寄り、さらに北上してその遺跡へと向かうのが元々の予定だった。その予定を延期しても良いのか――そう尋ねたレイルスに、ルサックは笑って返した。

「遺跡は逃げないだろ。それに、開かずの遺跡だからな。うっかり誰かが開けて中を検めるってことも無いだろ」

「……なら、いいんだけど」

「よし。そういうことならしっかり食えよ。森の中を歩き回るのは、案外体力がいるんだ。食ってちゃんと体力付けとけ」

 レイルスは、言われるままに焼いた鳥にナイフを入れ、切り分けた肉にかぶり付いた。今度はしっかりと、脂の乗った鳥の旨みと潮の味、香草と胡椒の香りが口の中に広まるのを感じ取れた。

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