グラナトの森

 窓から差し込む光に、レイルスは目を開けた。光、といってもまだ薄明かり程度だ。薄明に照らし出される室内を、布団の上で横になっていたレイルスは視線だけで眺め回した。隙間風が吹くワレンス手製の家は、他人が数度使ったとは思えないほど昔のままだ。

 家の外、遠くから薪を割る音が聞こえている。父がひょっこりと顔を出すような、そんな気がしていたレイルスだったが、やがて太陽が昇り光が強くなると、のっそりと起き上がって、窓にかかるカーテンを開けた。

「うっ……うぅ、もう朝か……?」

「朝だよ。おはよう……ルサック」

「さ……さっぶ……うぅぇ……」

 光が一杯に満たされた室内にいるのは、自分と、眠たげな目を擦って寝転がったままのルサックだけだ。父の姿はどこにもない。分かってはいたが、レイルスの口元は、小さな溜め息に白く曇った。この辺りは夏が遅い。雪解けは終わったとはいえまだ名残雪が降ることも時期だ。今日は天候にも恵まれたためそれほど冷える見込みも無いが、それでも朝は寒かった。レイルスには慣れ親しんだ肌寒さだった。適当に上着を引っかけて土間に下り、昨日の残りのスープに火を入れる。薪で火を焚くので、暖まるまでには少し時間がかかるだろう。

「ルサック、先に村長さんに話してくるから」

「お……おう、行ってらっしゃい……」

 ルサックはくしゃみをした。寒さに弱いわけでは無いらしいが、ただ、朝には極端に弱いタチだった。



 村長はグラナト方面の調査について、快諾とは行かないまでも許しを与えてくれた。やや返事が鈍かったのは、グラナトに『荒ぶる神』が眠っているためだという。

 グラナトの荒ぶる神。それが何なのか、具体的に知っている者はいない。

 ただ、何か恐ろしいものが眠っているのだと言われている。何度か探求者が派遣され調査が行われたこともあったが、旧文明のものはほとんど何も見つからなかった。単に人が住むに適さず魔物がはびこっているため、そこに近付くな、と周辺の村落で伝わっているのだろう。そんなことを村長は忠告として口にした。


「――旧きも新しきも無く、文明が根ざさない魔の森か」


 そんなことをルサックは呟きながら、目の前に張り出した枝葉を鉈で切り落とした。元レイルスの家にあった物だった。数少ないワレンスとレイルスが持っていた私物で、どうせ持っていっても誰も怒らないだろう、とルサックが勝手に持ち出したのだった。せめて村長さんに一言、とレイルスは思ったものの、役に立っているためあまり文句も言えなかった。

「ルサックもここのこと、ほとんど知らないんだな」

「ああ。村の安全の確保のため、ちょっと近いところを探った程度だ。村があるなんて聞いたことも無かったが……」

「その女の子の村、洞窟の中にあるんだ。だから凄く分かりにくいんだって」

 グラナトは周囲の森に比べ、起伏に富んだ地形だ。洞窟があり、湧き出した水が沢を作っている。地形が複雑すぎてほとんど人の手が入っていないのだ。それでなくとも、旧文明の遺跡は古い街道で繋がっていたり、川の近くにあったりするので、このような深い森の中を探索することはあまり無い。ここに来る者がいるとすれば、それは、依頼も無く己の好奇心や富の独占を目当てに遺跡を発掘するような探求者だろう。

「探求者の中には、戻ってこなかったヤツもいる。魔物にやられたんだろう……気が抜けないな」

「悪いルサック、付き合わせて」

「今日でもうそれ三回目だぞ。気にするなって、俺が好きでやってることだ」

 気にするなとは言われても、個人の都合だ。申し訳なさは付きまとう。――が、確かに謝り続けてもルサックだって困るだろう。

「せめて、足引っ張らないように頑張るよ」

「その意気だ。むしろ俺一人じゃ逃げるぐらいしかできないからな、助かってるぐらいだ」

 森に踏み込んでからすでに一度、魔物に襲われている。魔物は猿のような姿をしていて、頭上から石や木の実を投げつけてきた。木の葉が邪魔で投げナイフが遮られていたので、レイルスの魔導で木の上から叩き落としたところを二人がかりで撃破したのだった。

「……しっかし、道っていう道が本当に無いな。お前が言う目印が無かったら、本当に迷って帰ることすらできなくなりそうだ。お、次のがあった」

 ルサックが、藪の中にあった切り株を覗き込んだ。まだ若い内に切られたのかその直径は十センチも無い。その切り株の片側が、不自然に、直角に切り落とされている。よく見ると切り口にはニスのようなものが塗られ、枝葉を塗って落ちてくる僅かな木漏れ日を鈍く照り返していた。

「木を隠すなら森、って言うが……こんな隠し方されちゃあ、見付けても少し不自然に思う程度で目印とは思わないな」

「……そもそも見付けられるのが凄いと思う。ルサック、よく分かるな」

「上見りゃ何となくな。木が密集してるから、逆にほんの少し空間があるからその下が切り株だ。……それはそれとしても、どうしてこんな目印なんか作ったんだろうな。隠すぐらいだし、これを教える相手だって限定してるぐらいだ。見つかりたくは無いんだろうが……村に来る用事でもあったのか? レイルス、お前はどう思う?」

 レイルスは少し考えてみたが、あえて目印を残す理由については思い至らなかった。というより、ルサックの問いによってなおのこと、当時の奇妙さが浮き彫りになり、頭の中がまとまりの付かない思考でごちゃついていた。

「村の人には見つかってほしくなかった、けど……カプト村に来る用事があって……でも村のことは俺以外知らないし……ていうかそもそも、こんな危ない道どうやって通ってたかも分かんないし、あの女の子よく無事だったな……」

 一人でぶつぶつ呟きながら、レイルスも剣で邪魔な枝を打っていく。目印がある周辺ですら、歩くのに難儀するほど鬱蒼と草木が生い茂っている。最近使われていないから、というだけでは済まされないような密林だ。それに加えて魔物も出る。ただの少女が無防備にも行き来できる場所だとは、とても思えない。

「……もしかしたら、地上を行き来したりはしてなかったのかもな」

「え? ……それどういうこと?」

「いや、この辺には地下洞穴があるだろ? あそこにも見えてるが……もしかしたら天然の地下道があって、切り株の近くに洞が開いてるのかもしれないな」

 レイルスが教えてもらったのは、あくまでもルートの一つ。切り株は表の道とも言える、来客用の道としての目印なのかもしれない。……何故そんなものを作るのかは、依然として分からないが。ルサックはそんな推測を述べ、それから話題を全く別の方向へと変えた。

「どういう子だったんだ?」

「え、ああ、俺のとこに来た子? そうだな、元気な子だったよ。オヤジが魔物に襲われて怪我して、狩猟団から離れて……何かちょっと、塞ぎ込んでた時期に会ってさ。自分で家に閉じこもってる、って言ったら『わたしはもっと外に出たい』って、そう言ってた」

「外に出たい……か」

「たぶん、何かの事情があって、本当は村の外に出られなかったんだと思う。それに人と会うのも、本当はいけなかったんじゃないかな――」

 思い返せば、いままで思い浮かべなかった日があったことが嘘のように、鮮明にその声が脳裏に浮かんだ。彼女はどこか必死に、レイルスでは無く自分に向けて言い聞かせるように、しきりに呟いていた。

『あなただけ、あなただけだから……』

 うつむいた拍子に銀色の髪が一房落ちて、その白い頬を飾ったいた。さっきまで元気に遊んでいた女の子がそんな素振りを見せて、痛々しいと子供心に胸を痛めると同時に――レイルスは心のどこかで、それを嬉しいとも感じていた。

「――今にして思えば情けない話なんだけどさ。その子が何か事情を抱えてて……それを俺だけがなんとかできるんじゃないかって。村の大人たちじゃなくて、オヤジじゃなくて、俺の手で何かができるような、そんな気持ちになったんだ」

 恥ずかしいとレイルスは思う。そう感じたものの、結局、彼女にしてあげられることは何も無かった。村の外れで大人たちに見つからないようこっそりと遊んであげることしかできなかったのだ。もっと早く、父が持っていたマナボードを手に、彼女と共に、彼女が暮らす村に行っていれば――けれど、そうなったとしてもやっぱり自分は何もできなかったのだろう、とレイルスは一人苦笑をこぼす。

「結局、子供の夢っていうかさ……その時の俺は村の大人たちに守って貰うことが当たり前で、自分から誰かを守ろう、助けようだなんて思ってなかったんだろうな、真剣には。そういうの、あの子にも伝わってたと思う。だから村への目印をこうして残してくれたけど、一緒に来てとか、そういうことは言わなかった……言わせられなかった、かな」

「子供なんてそんなもんだ。自分なら何かできると思うのと、自分には何もできないって思うのと、その繰り返しだ。大人になるってのは、できることが分かることかもな」

「……じゃあ、俺はまだ子供なのかな」

 前を行くルサックが一度足を止めた。行く手をつる性の植物が覆っていて、それを鉈で切り刻んで道を作り、一度コンパスで方角を図りながら、

「何もできないかもって思ってても、それでも、やりたいことはいまやってるだろ? そのための力もちょっとはある。大人と子供の真ん中かもな」

 そう言うと、また足を先に進め始めた。レイルスは顔を上げてルサックに続いた。うつむいていては、周りに魔物がいたときに対処できない。いまはただ前に進むだけだった。

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