故郷、カプト村
レイルスの沈むような気分と重たく感じる体、というより背中の剣など物ともせず、船は北へと進んだ。
船客は南に行く船よりも格段に少ない。それに比例してか、一日に航行する船の数も少ない。ラーナ以東や大河ウラーノの下流、トロタから南に下った先にあるウィリデスの首都シルワオルクスからの直通便は一本も無い。そのため、トロタで一度船を下りて、北行きの船に乗り換えなけばならないのだった。
かつてはネヴェスキオ川を遡上して北へと向かう船も多くあったが、ファタリア連峰にあるアニムスクナエという国がクピディタスに滅ぼされてからは、格段に便が少なくなった。
甲板に出ていたレイルスは、遠いファタリアの峰々をぼんやりと眺めていた。あの山のどこかに、アニムスクナエの都があるらしい。けれどそれが、どこにあるのかレイルスは知らない。そこに行く必要が無いためか、父もルサックもあまりその地のことは話さなかった。気になったレイルスは一人で調べてみたこともあったが、分かったことはあまりなかった。突然の侵略で、一夜にして城が落ち、剣を持って立ち向かった王と騎士たちも凶刃に倒れ、いまでは旧領地に住む民が、酪農で細々と生計を立てている。分かったのはそのぐらいだった。
「なあ、ルサック……クピディタスって、なんで戦争するんだろうな」
脈絡も無く、そんなことを聞く。ルサックが正確な答えをくれないことぐらい、レイルスにも分かっていた。ただ少し、手持ち無沙汰になって聞いただけだった。
「……さあなぁ」
ルサックもまた、甲板からファタリア連峰を眺めていた。横に立つルサックの顔をレイルスは見る。特に何の表情も浮かべていない。何を考えているのか、それとも特に感慨が湧かないのか。遠い国のことだった。
「あっちにだって何か、理由はあるんだろうけどな……ただ、戦争を起こされた方は、たまったもんじゃないよな」
「……そうだよね」
いま、この辺りは平和だ。しかしその平和がいつまで続くのか。薄氷の上で暮らすような危うさが、常にウィリデスにはある。侵略国と隣接する国だが、しかしそこに住む民はそんな素振りをおくびにも出さない。それを忘れて享楽的に生きているわけではない――そういうことを、一度父から言って聞かされた。
幼い時分、レイルスは純粋に不思議だった。
『どうして人は、戦いがあるところから逃げないの?』
一度、父にそう聞いたことがある。しばらくの沈黙の後、重苦しい声で答えが返ってきた。
『戦う者はみな獣だ。獣は逃げる獲物を追いかける。己の腹を満たすために。だから、戦うしかない』
そして、民の戦いはその場に留まることなのだ、と。そう続けて言った。逃げれば獣は追ってくる。そして獣は人がいなくなった場所で子を産んで数を増やし、また人がいる場所へと攻めてくる。どんなに弱い者でもその場に踏みとどまり、町を作り、獣の住処を広げないこと。それこそが、獣を増やさないことに繋がるのだ、と。
――そんな言葉を交わした、かつてのレイルスとその父ワレンスの前には大きな塚があった。
シルワオルクスにある、共同墓地だ。身寄りや戸籍が無い者、あるいは墓を建てる金が無い者のためにあるその塚の中に入り、レイルスはワレンスと共に故人を偲んだのだった。
墓にはワレンスが所属していた狩猟団の者たちのうち、身寄りのない者が眠っている。そして、多くの身元が分からない戦死者と、戦争孤児もまた。多くの者が戦争や、魔物によって殺されていった。
獣とは――少なくとも父にとって獣とは戦争であり、軍隊や兵士だったのだろうと、レイルスはいまになって思う。
「……ずっと帰ってなくてごめん、オヤジ」
呟くレイルスの前には、墓があった。あれほど大きく見えた背中をした父は、いまや小さな墓標となって静かに、レイルスの故郷カプト村の片隅に眠っていた。
カプト村はウィリデス北部に位置する、小さな開拓村だった。旧文明の遺跡の上にできたのではない、現代の技術によって作られた魔導障壁によって保たれている、比較的新しい村だ。新しいとはいえできてから十五年以上は経っており、村としての体裁は、他の開拓村と比べても整っている方だ。
「ここに来るのも、久しぶりだな。ワレンスさんが亡くなって以来だから、三年ぶり……か」
感慨深げに、目を細めてルサックは言う。レイルスはその隣で、やはり同じような気持ちでカプト村の光景を眺めていた。木造の、茅葺き屋根の家々の横には小さな畑が備わっている。こことは別に共同のやや広い麦畑が南にあり、東には船着き場へと続く道がある。
船を下りた後、レイルスたちは東の道から来て村の入り口で一度立ち止まり、あまり代わり映えのしない村を見ていたのだった。
そして、そんな風に立ち尽くしていれば、すぐに村人が気付く。あっ、と声を上げたのは、野菜が入った桶を持った一人の女だった。五十代ほどだろう、白髪交じりの金髪をした彼女は取り落としそうになった桶をぐっと持ち直して、小走りに近付いたレイルスの前に立ってすぐ口を開いた。
「レイルス! レイルスじゃないか……こんなに大きくなって」
「久しぶり、タルトおばさん」
「久しぶりなんてもんじゃないよ! 村長のとこに来る手紙で、無事だってのは知ってたけどねぇ……でも、元気そうで良かったよ。さ、お父さんのとこにいっておやり。随分とあの人も暇してるはずよ」
手短に会話を住ませて去って行くその背中にレイルスは軽く頭を下げた。村人たちはみな、レイルスにとっては親しい友人や家族のようなものだった。色々と話したい気持ちはあったが、それでもまずは父に会わなければならなかった――レイルスは急ぎ足で父の下へと向かい、その墓の前へと立ったのだった。
特に墓前に供える物すら買っていなかったことにレイルスが気付いたのは、ルサックが墓に、ワレンスが好きだった地酒を掛けてやっていたのを見た時だった。慌てて何か無いかと持ち物を探り、トロタの町で出会った、影法師のような彼女からもらったマルモントの実を一つ供えた。そして目を伏せてうつむき、黙祷を捧げた。無言の内に様々なことを想った。父に報告するつもりで、村を離れた後のことをいくつも思い出した。
そうしているうちに、レイルスは船上で思い出した父との会話をまた想起し、そして父のことを一層深く考えた。
狩猟団だった父。どうして狩猟団になる道を選んだのか、最後まで聞けないまま。いつか戦いの中で死ぬのだろうとほんのり苦く笑って言っていたのに、病に罹り、床の中で死んでいった。医者はいても薬は無かった。この木の実があれば助かった、なんていう風には思えない。死病だったのだろう。――しかし、いまでも心のどこかでは、気持ちの整理がついていない。
レイルスは、一度か二度、こみ上げるものを喉の奥に押し込めるように、深く息を吸わなければならなかった。深々と呼吸をすれば、どこよりも濃い森の空気が、ひんやりと肺を満たして心を宥めてくれた。森の中を吹き抜ける涼風は、レイルスにとって故郷の息吹だった。
「……あのさ、ルサック。ルサックは、どうして父さんが狩猟団をやってたか知ってる?」
レイルスは初めて、ルサックにそう聞いた。二人で組んでいた二年間、いつでも聞けるはずだったのに聞けなかったこと。それは父のことだった。父の過去を、レイルスはほとんど知らない。物心ついてからの父の姿しかレイルスは知らなくて、本当はどこが故郷だったのかさえも分からない。けれどそれは、ルサックもあまり変わらないことだったようだ。
「詳しくは言えないぞ」
「詳しくなくてもいいよ」
「そうか。そうだなぁ……お前の親父さんの故郷は、滅ぼされたんだ。だから狩猟団になった。言えるのは、そんぐらいだな」
ルサックが語ったのはそれだけだった。ただ、レイルスにはそれだけで充分なようにも思えた。寡黙だった父は、常に鍛錬を怠らなかった。魔物との戦いで右足の腱をやられ、ろくに動かせなくなった後も、毎日のように素振りをしていた。思い返せばその太刀筋が、一流の剣士だったと分かる。だからこそ、少しだけレイルスは悔しいのだ。
「父さんの血、継ぎたかったな」
「……レイルス。お前」
知ってたのか。その先をルサックは飲み込んだ。その素振りで何となく、レイルスは感付いた。たぶん言えなかったか、事情があって言わなかったのだろう。もしかしたら重荷を背負わせていたのかもしれない。そう思うと、自然に「ごめん」と前置きして、レイルスは話していた。
「父さんから聞いてたんだ。俺、養子なんだって。もうすぐ死ぬのに、そういうのを自分の口からは言わないのは卑怯だってさ」
「……ワレンスさんらしいな」
「うん。それ聞いても、意外と平気だったよ。だってオヤジとは元々、全然似てなかったし。そういうもんかな、って……」
全くショックが無かったと言えば嘘だ。ただ、血の繋がりは無くとも、無骨ながらに愛情を注いでくれていたことだけはよく覚えている。まだ狩猟団にいた頃、各地を放浪する生活に巻き込むことを度々詫びられたこともある。そんな生活の中で生きていけるよう、剣や弓の使い方も教えられた。それに、
「ルサックが親父と話してたのも、俺についてのことだったんじゃないか?」
「……まあな」
「ありがとう、ルサック。いままで色々と」
「なに言ってんだ。これからまた面倒見るんだぞ。その言葉にゃまだ早いね」
もう面倒を見られるような年じゃないと反発することもできたが、レイルスはそれを黙って受け止めた。
ルサックから父の墓石へと、レイルスは目を移した。故郷を滅ぼされた。どこにとか、何にとか、ルサックは言わなかった。ただ、何か大きな力に襲われたのは分かる。クピディタスかもしれない。だからルサックは、そして父も言わなかったのだろうか? 復讐を志すのを止めるために? そんなことはしない、とは言いきれない。まだ分からなかった。自分が何をしたいのか。レイルスは、自分のことを何も分かっていなかったのだった。
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