里帰りへの船出

 ヒュドリアポリスは、レングワード大陸東部にある諸国の中でも一番の大国だ。その首都、水の都ヒュードラから西に向けて流れる大河ラウーノ沿いにシルロの町はある。

 シルロはヒュドリアポリスの同盟国、ウィリデスに国境を接している。ヒュドリアポリスの西端にある街故に、ウィリデスから来る物流や旅人は一度はこの街で足を止める。宿場町としての色が強かったが、古くからある街故に景観も優れていた。首都ヒュードラの様式を真似た、白い漆喰塗りの壁が並ぶ街並みは『小水都』とも呼ばれており、観光客も多い。


 リンから受け取った剣を背に負ったレイルスは、そんな人で賑わう大通りを歩いて、さらに西へと向かっていた。


 道中、ギルドの探求者がよく利用する商店の一つに入って、バックパックに入るだけ保存食を買い込む。顔見知りの店主に「一人か? それともパシリか?」と冷やかされたのでパーティから抜けたことを告げると、驚く風もなく同情的な視線を向けられた。

「あの鼻持ちならない若造のとこでよくやったよ。職がほしけりゃ喜んでこき使ってやるぞ。どうだい?」

「いや、いいよ。ちょっと故郷に戻ってみようかなって」

 レイルスがそう返すと、店主は「そうかい」と言ってあっさり引き下がった。人手が足りないようには見えないので、ただの冗談だったのかもしれない。

「故郷つったら、隣のウィリデスだったか。首都までは船が出てるが、そっから障壁の外に出るなら気を付けろよ……って、探求者様には無用な説法だったな」

 レイルスは曖昧に笑って小さく首を振った。パーティ四人で行動していたときは、街の内外を隔てる障壁外に出てもさして危険を感じたことは無かった。しかし、いまは一人だ。獣や魔物と、一人でどの程度戦えるだろう。いっそ、恥を忍んでギルドに護衛を頼んだ方がいいのかもしれない。……そう思ったものの、自分も一応は探求者だというなけなしのプライドが、レイルスを一人旅へと駆り立てていた。



 荷物でだいぶ重くなったバックパックを背負い、船着き場で切符を買って西へ出る船にレイルスは乗った。川を下る高速船なら、日が沈むだいぶ前にウィリデスに着けるはずだった。

 船内のロッカーに荷物を放り込むと、レイルスは甲板に出た。白壁の街並みを川から見上げるためか、甲板には乗客が十人ほど立っていた。が、その人だかりがあったのも障壁の外に出るまでだった。

 十分ほどが経つと、外の景色がすっ、と薄暗くなった。

 まるで太陽が影に入ったような薄暗さだった。顔を上げれば、中天からやや斜めの位置に太陽の光がぼんやりと見える。直接見ても平気なほどに鈍い光だ。太陽の光を遮っているのは雲ではない。薄らと立ちこめる黒いもや――瘴気だ。

 瘴気がいつからあるのか、レイルスは知らない。レイルスどころか、世界中のどこの学者もまだ解明できていないことだった。一説によると、神々がまだ眠りに就く前の時代には瘴気が無かったとも言われているが、そもそも神なんてものがいるかどうかすら分からないのだから、その説を信じるのは、おとぎ話や物語にある妖精や精霊の実在を信じるようなものだった。

 風はほとんど無い。そのせいか、大気はより一層澱んで見えた。そんな澱んで穢れた空気に、この地方どころか世界の全てが覆われている。濃淡こそあれど瘴気はどこにでも存在する。そして、瘴気を吸い続ければ人は命を落とすばかりか、体が穢れ、魔物と化してしまうという。

 そんな世界で人間が滅びもせず生きていけるのは、魔導の恩恵があるからだ。遙か昔に滅んだと言われている旧時代の文明は、魔力マナを操る技術を持っていた。機械によって魔力を制御し、瘴気から身を守る障壁と魔物と戦う力を生み出した、旧文明の遺産によって現代人は生かされていると言っても過言では無い。

(昔の人の遺産がなけりゃ、いまごろみんな野垂れ死にか……いや、魔物になって新しい人生か)

 人々は、旧文明の遺跡の上に街を、そして国を作った。いつの時代に旧文明が滅びたか、正確なところは分かっていない。四百年前だと言う者もいれば、千年以上も前だと言う者もいた。何が本当なのか議論は尽きないが、ともかく、遺跡から掘り出された魔導機械、略して導機は、現代においては製造が可能になりつつある。それでも、街一つを覆うほどの障壁が展開できるものは作られていない。小型のものを大量に置くことで土地を確保することはできるが、あまりにコストがかかりすぎて、そういった形での街作りはあまり進んでいない。街と街は、障壁を展開できる大型導機が眠る遺跡ごとに分断され、そこを小型障壁を搭載した馬車や船が繋いでいた。

 大型の障壁は作れない。反面、小型化には成功している。人一人を覆えるほどの障壁を展開できる機器を、レイルスも持っている。

 腰のベルトに鎖で着けて、ズボンのポケットに突っ込んである、それ。二枚折りの樹脂と金属の板は、マナボードと呼ばれている。形は様々だがカバーの表には必ずギルドの紋章が描かれている。レイルスが持つものは円形だ。それを取り出して、見るともなしに見る。手の平より少し余る程度の大きさで、厚さは薄めの文庫本ほどだが、見た目よりは軽い。

 こんな小さな導機が、障壁を展開している。

 これがあるから、一人で旅ができる。障壁の展開だけでなく、魔力を炎や水、あるいは光のエネルギーに変えて現象にする魔導術法――単に『魔導』と言う時は、個々人が使う魔導術法を指す――も扱え、おまけに短距離通信もできる。探求者にとってマナボードは、身を守る盾であり、戦うための力でもあった。

 ――これを失ってしまえば最後、為す術もなく苦しみながら死ななければならない。

「一人って……こえーなぁ……」

 呟けば情けない声が出た。パーティ単位で行動していれば、万が一マナボードが壊れたとしても、パーティメンバーの障壁がある。が、一人旅はそうもいかない。頑丈な造りにはなっているが、それでも壊れたらもう障壁の外には出られない。街の外で壊れようものなら死ぬしかないのだ。

 考えるだけで恐怖が背筋を這い上り、軽い目眩を覚えたレイルスは、そそくさと船室の中へと戻っていった。



 三時間弱船に揺られて川を下ると、国境を越え、ウィリデスに入った。下船まであと十数分ほどになってレイルスは甲板に、今度は荷物を持って出た。周辺の景色はシルロ近辺とは様変わりしている。川の両岸こそ整備のために木が伐採されているが、川岸から少し離れたところでは木々が生い茂っていた。この辺りは平地が広がり、雨も多い。草原が広がるシルロ以東よりも常緑樹がよく生える。

 ――ウィリデスの木々は濡れている。だが、乾かせば最高の木材になる。

 森を眺めていたレイルスの耳に、そんな声が聞こえた。その声は現実のものではなく、思い出のものだ。

「……オヤジ。もうちょっと、待っててくれよな」

 森の方から、木を切る導機ノコギリの唸る声が聞こえる。これは幻聴では無い。船から見える範囲に、木を切る木こりの姿が見えていた。近くにはギルドの狩猟団ハンターらしき一団の姿もある。狩猟団は、旧文明の遺跡や遺物を調査発掘する探索者とは違い、すでに見つかった遺跡を獣や魔物から守るために組織されたものだった。現代では、各国の軍と協力して町や開拓村、街道の警備にもあたっている。

 街の外に職能を発揮する者は、街の近辺からは大きく離れない。もうすぐ街に着くのだ――甲板の舳先付近に立って先を見てみれば、レイルスの蒼い瞳に、大きく開かれた水門が、瘴気越しにぼんやりと映った。


 ――ウィリデス国、東端の街ラーナ。


 大河ウラーノの両岸の森を切り開いて作られた街は、シルロの街と比べて全体的に素朴な印象を与える見た目をしていた。船着き場や役場といった建物はレンガ造りだったが、大半の家々は木造だった。素朴だが、粗末には見えない。東の大国ヒュドリアポリスの玄関口となっているラーナは、シルロ同様宿場町として栄え、活気に満ちていた。

 埠頭に降り立ったレイルスは、深く息を吸う。水の湿った匂いと木々のかぐわしい香りが混ざる匂いが、懐かしさと共に肺を満たした。――帰ってくるのは一年ぶりだ。まだ故郷の村からは遠いが、それでも帰ってきたという感覚が強い。

(一年じゃ、ほとんど変わらないな……)

 船を乗り降りする乗客の少し向こうには、木材を輸送船に積み込む重機や人夫が見えている。埠頭から少し離れ、船の待合所がある辺りに近付くと、導機車や馬車を改造した屋台が整然と並ぶ光景が広がっていた。そういった人々に向けて食料品や傘、地図や本、土産物の置物やアクセサリーを売る行商人たちの中には、ぼったくりに近い値段のものもある。一年前、出発の日はそういった者も警戒して最低限の買い物しかできなかったが、いまなら――。

(……いやいまも駄目だろ)

 いまの自分は無所属仕事無しだ。収入源が無いのだから、やっぱり浪費はできない。昼食は食べて出てきたのだから――と我慢しようとしたレイルスだったが、しかし屋台から漂う香ばしい、魚や肉の匂いの誘惑は抗いがたかった。

 結局一匹だけ、丸々と太った川魚の唐揚げを買って食べ、ああ故郷の味を感じられたから良かったんだ――などと言い訳のようなことを考えながら、レイルスはその場を離れて街の中心の方へと足を向けた。

 川の北岸、馬車が通る広い道の横にある、石畳の歩道を歩けば、道沿いに立つレンガ造りの赤っぽい外観の建物が見えてきた。正面に立てば、両開きの重厚な木の扉の上に、木の一枚板で作られた看板が張り出されているのが見えた。

『ラーナ・ギルド』

 東方諸国にあるギルドの、ラーナ支部の集会所。やはりここも一年前に来たきりだったが、レイルスにとっては、父に付き従って子供の頃から出入りしていた馴染み深い場所だった。

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