第三章 同盟


 彼女は校庭に設置されている水色のベンチに腰を掛けていた。


 膝を抱えるように座っていて、両手で顔を覆っている。小さく何度も体を震わせている辺り、泣いているのだろうと思った。


 近づいて声を掛けることは簡単だ。

 問題はその後。何て説明すれば彼女がわかってくれるのかを考えていて、俺は蜜の前に行くことができなかった。しょうもない(しょうもないこともなく事実なのだが)説明では、かえって話しがややこしくなってしまうのは既に経験済みだ。言い逃れももう通用しない。


 では何と言えば、人外の存在をこの世界のヒトにわからせることができるのだろうか。

 そう言えば、俺はなんでジョカやリアの存在を受け入れたのだろう。


 俺も元々はこの世界『だけ』の住人だったはずだ。


 ある日、突如ミミズを踏みつけたり、蚊を叩き殺したりしたことで、帝位を継承するなどという、訳のわからない非日常の世界に巻き込まれてしまったのである。俺はいつから彼女たちを、彼女たちの言葉を、その背景にある世界を受け入れたんだ?


 テリトリーだ。

 この世のモノとは思えないほどの世界、四畳半の蛇の世界を目の当たりにすることによって、それがマジもんだということを自覚した。


 そしてウーズの契約。

 あれ自体が夢で出て来ようものなら、悪夢以外の何物でもない。目覚めれば部屋中が蛇で埋め尽くされているとか、発狂、失神レベルだろう。


 ダメだ。蜜をあの世界へ連れて行けば、信じてもらえるかもしれないが、まずまともな状態を維持できるとは思えない。俺ですら泣き叫んだのだ。一般の女子高生では叫びまくった挙げ句、気絶するのがオチだろう。


 それに彼女をそんなところへ連れて行きたくない、という気持ちもあった。

 俺がそうやって考え込んでいると、蜜の側に背が高く、黒い整髪の男が近寄っていくのが見えた。


 なんだあいつ。


 大学生ぐらいだろうか。上半身は白シャツ。ベージュのチノパンはブーツカット、茶色のレザースニーカーと全体的に凄まじいさわやかさであった。男はベンチに腰掛けている蜜の目の前で止まる。顔を覆っていた両手を払って、見上げる蜜。そして。


 なっ……。

 蜜は事もあろうか、男の胸に顔を寄せて抱きついた。泣き声がここまで聞こえてくる。男も蜜の頭を抱きしめるように手を回していた。彼女の後頭部を何度も撫でている。


 親戚か……?

 蜜に男の兄弟はいない。となると親戚なのだろうか。


 だが俺の幻想を打ち砕くような現実が、目の前で繰り広げられる。

 立ち上がった蜜は、蜜は……唇を突き出すように男に向けていた。背の低い彼女は背伸びをして、男に届くように懸命な姿勢を作っていた。


 そして見たくない光景が映し出された。

 直前の動作で連想してしまっていたが、必死で頭から振り払って信じないようにしていたイメージが、目の前で現実として訪れる。


 男は姿勢を下げて、蜜の唇に自分の唇を這わせていた。


 彼の右手は蜜の腰に回されていて、左手は蜜の右手を握っていた。男は左手の人差指と親指の二本で、慈しむように彼女の人差指の先を摘んでさすっている。


 それは、どこか、慣れたふたりの、愛し合っている所作に見えた。

 初めてではなく、幾度目かの、ふたりの日常だった。


 その場にいてはいけない気がした。

 その場にいたくなかった。


 俺は彼女たちを背に、逃げるようにしてその場を去った。

 道中の頭の中では、何度も口づけを交わしているふたりが描かれる。見もしないふたりのあらゆるシーンが再生される。


 都合の良い解釈だった。

 常識的に考えれば、あの日、俺が蜜の告白を断った時から、こういう日が来ることは、わかりきっていたことで当たり前なのだ。だから裏切られたわけではない、はずだ。


 理屈の上ではそう思考していても、俺の心は裏切られた時のような、心が砕け散るような、放心状態になっていた。


 まさか蜜が……。

 その言葉がすでに甘えだったということもわかる。蜜ならばわかってくれる、蜜ならば待っていてくれる、蜜ならば……俺以外の男に目を向けないで居てくれる。


 そういった妄想だったんだ。俺と彼女は何でもなく、家が隣同士の幼なじみ。一時期は恋仲に近いところまで進展したのに、それを断った俺。彼女が新たな男を求めるのも道理。それが例え流行廃りのものだとか、本心だとか、俺を忘れるためだとか、そういったことは関係ないのだ。


 メスがオスを求めて、オスがメスを求めるのは自然界での共通原則であり、生物としての生理的反応に過ぎない。恋愛感情云々、倫理的感情云々、などと世迷い言を言っているのは『ヒト門』だけ。


 ジョカは言っていた。


 人間が勝手に決めて喜んでいるだけです、と。

 人間はすべてを自分のルールに当てはめないと気が済まない生物なのだと。


 本当にそうだと思う。自分たちで敷いたルール。それを踏み外すのもまた人間であり、それで勝手に傷つくのも人間。ヒトとはおろかな生き物だと言わんばかりの表情だったジョカの気持ちが、何となくわかった気がする。


 人間も動物なのだということを、人間は認めようとしないところがある。

 自分たちは選ばれた生物であり、自分たちは他の動物とは一線を画している存在だと認識している節もある。


 神の使いだと言わんばかりに、自分たちは動物の『一門』に過ぎないのだということを、彼ら『ヒト門』は受け止めようとしなかった。


 近親相姦、ロリコン、その他の様々な性癖。それらを異端として捉えるのは、『ヒト門』が自分たちは特別な存在なのだということのアピールでしかない。

 他門の生物は、それを重要視しないのだから。



 項垂れたままふらつく足取りで教室へ戻った。

 扉を開けて中へ入ると、これはこれでまたおかしな光景が広がった。


 教室の中にいたクラスメートは、室内の脇へ取り巻くように立っている。誰かの椅子がひっくり返っており、幾つかの机も倒れている。机の中に仕舞われていたと思われる中身が、乱雑にそこら中に広がっていた。


 そして取り巻かれるようにして立っているふたりの少女が、教室の中央付近で向かい合って立っている。


 あいつら……大人しくしてろって言ったのに……。


 俺がそんなことを考えている間にも、リアの右足がジョカに向かって振るわれる。深いスリットから覗く短い生足。丈の長い腰布により絶対領域は確保されているものの、俺は彼女が履いていないという事実を知っている。そのことがハラハラとさせた。


 自主規制は大丈夫だろうか。

 どこまで描写が許されるのだろうか。


 そう言った不安が駆け巡り、あくまで『そういった不安が駆け巡っているために』、リアの腰布から目を離すことができなかった。


 決して失恋の痛手を、目の保養で埋めようなどという考えはない。決して……。


 ジョカはリアの右足を左腕で受け流して、そのまま彼女の足を右手で掴んだ。そして大振りに旋回。リアの体は板張りの床へと勢いをつけて叩き付けられた。直前で素早く受け身をとるリア。


 うおおおお、すげぇ! ぎりっぎり見えねぇ!


 何界かはわからないが、俺はその時まったく別の世界にいた。確実に現実の、目の前で繰り広げられている非日常すらも逸脱していて、非現実な戦いを展開している人外の少女たちも及ばないような世界。


 あえて言うならば『股布界』とでも言おうか。俺は股布界の帝位を継承したのかも知れなかった。ウーズはもちろん股布を自由自在に操ることができる、カミカゼとでも言っておこうか。『蛇門』『蚊門』『股布門』を制覇した俺は、門帝長すらも超えてしまったことになる。そういえば次の肩書きは何なのだろうか。


 リアは腹筋だけで上半身を起こす。右足はいまだジョカに捕まれたまま。自由に動かすことができないようだった。


 器用にも上半身を起こしたリアは、そのまま右手でジョカへとフックを放った。それに対してジョカは左手で受け止める。右手はリアの右足を掴んだままだ。リアはそれを予期していたように、続けざまに左フックを繰り出した。


 ジョカの右手がリアの右足から離される。そしてリアの左フックを受け止める。リアの右足が自由になって地に降り立つ。ふたりは両手同士を交差して力比べに入っていた。


 両者の顔は普段からは想像もつかないほど、数多の戦場を駆け抜けた戦士のものとなっていた。互いが互いを睨み合い、四肢は力一杯に踏ん張っていて、汗でべとついた肌周りの髪が湿っていた。


 ぽたり、と汗が落ちる。それはジョカでもリアでもなく、俺のものだ。


 あいつら、なんで戦ってんの?


 あまりに理解できない光景に、思わず別の世界に入り込んでしまっていた。自分の意思に関わらず他世界に連れて行かれるのは、これで何度目のことだろうか。


 ジョカの右足がリアの顎先を狙って蹴り上げる。リアは頭を引いてそれを躱す。蹴りの風圧でリアの前髪がふわりと浮いた。吹き出ていた汗だけがその場に残って、宙に浮いてから床に落下するような速度でそれらは執り行われている。


 リアが左足でミドルキックを放つ。ジョカは体をひねってそれを躱そうとするものの、距離が足りない。リアの足の長さから考えても、体を引いて躱すべきだったのだろう。


 ジョカの蝋のような肌が険しく歪む。小さく赤い唇から喘ぐように息を漏らす。体は嫌がっているように曲がっていた。


「はーい、ストップストップ」

 ジョカの苦痛な顔を見て正気に戻った俺は、ふたりの間へと体を割り込ませていく。今の今まで悠然としすぎていたが、蝋が割れるように歪ませた顔を見て、ようやくそれどころではないということに気がついたのだ。


「拓朗様! 戻っていらしたのですか」

 という、申し訳なさそうなジョカに対して、


「タクローちゃん! おかえりなさい!」

 弁解しようとする余地すらないようなリア。


「なんでおまえらが戦ってんの? 両方共俺のホームの従者だろ?」


「そ、それは……」

 言いにくそうにどもるジョカ。


「タクローちゃんの取り合いだよっ」

 悪びれもなく答えたのはリア。


「取り合い?」


「はい。拓朗様がヒト界にいる八時間以外の時間、どちらにいるかという話で口論となってしまいまして」


「だから、蚊門は今現在内乱真っ只中で、いつクーデターが起こってもおかしくないんだってば。門帝がいないとそれこそ反乱して下さいって言ってるようなもんじゃん?」


 リアはジョカに向き直ってそう主張した。


「蛇門も前帝の力が弱まってからというもの、帝務が溜まっているのです。何ぶん前帝の力は、最終的に戦闘を行うことすら容易ではない状態にまで陥りましたから」

 そりゃあ、あのミミズじゃ出来ることなんて知れてるわなぁ。


「それはあんたんとこの門の話でしょ? あたしらには関係ないもん」


「そうなると押し問答になるだけですよ。私からしても蚊門のことなんてどうでもいいですし、やはり優先すべきは蛇門だという話になってきます」


「だってあんた、クーデターだよ? もしあんたんとこでそんなのが起こったら、やっぱり最優先事項になるんじゃないの?」


 両者の言い分はわかった。

 双方共に、譲れない考えを持っているのもわかった。


 ジョカの言う通り、これ以上続けても押し問答になるだけだろう。

 リアの言う重要性も把握している。


 だが。

 なんで俺の時間の使われ方が、勝手に話されてんの? 俺の意思はそこにないわけ? まぁ、これまでの経緯から考えても、俺の意思が反映されたことは一度もなかったわけで。すべての俺の考えは無視されていたわけで。


 そう考えると、今回も俺の意思が介入する余地がないことは、想像に容易かった。



「じゃあこうしよう」

 仲裁に入った俺は、ふたりの間に立って交互に顔を見比べながら言った。


「八時間以外の十六時間を、半分ずつ蛇門と蚊門に割り振る。これなら公平だろう? どちらの門を訪れるのが先かは、一日置きで入れ替えるという感じならどうだ?」


「確かに、解決しようとするとそれしか考えがありませんね」

「ホントは丸々蚊門にいて欲しいんだけど……タクローちゃんが言うなら仕方ないね」


 なんでこいつ上から目線なんだ。素直に従うところは可愛げがあんのにな。


「よし、じゃあふたり共、仲直りの握手だ」

 俺は両手を使って、ジョカとリアの右手首を掴む。握手をさせるように力を入れた。


「わ、わかりました」

「はぁい」

 揃いも揃って頬を赤くしたふたりは、抵抗を見せながら互いに握手を交わした。


「申し訳ありませんでした」

「ううん、こっちこそごめん」


 とまぁふたりが仲良くなったのはいいのだが、今後蛇門と蚊門を行ったり来たりしながら様々な雑用? 帝務? を行うことになるのかと思うと、気は重たかった。


 ふたりの白くて小さな手が握手を交している。双方の両手首を、自分の両手で掴んでいた。仲直りの握手をさせるために。


 教室の扉が開かれる。直後に授業開始のチャイムが鳴り響く。入ってきたのは蜜だった。心なしか頬を赤く染めて恍惚とした表情になっている。舌で唇をぺろりと舐め回して、なんだか嬉しそうだった。


 本当なら、さっきまでの俺なら、また気まずいものを見られたと思っていただろう。

 しかしその時の俺は、彼女の恍惚とした表情。ぺろりと舐め回した唇。そこにさっきまでくっついていた得体の知れない男の唇。それを彷彿とさせてしまっていた。


 イライラしたんだ。

 それは表情にも表れていたと思う。


 もしかしたら汚らわしいモノを見るような目つきで、蜜を見ていたかも知れない。そう問われれば否定できない。

 俺は、自分の中にいた蜜を、つい先ほど壊されてしまったのだから。


 見開かれた瞳で、教室の中央にいた俺たち三人の方をじっと見つめている蜜。直前までの顔つきとは打って変わったモノとなった。


 例えるなら蔑視。

 汚いものでも見るような目つき。


 そして心が砕かれた後のような顔。口はだらしなく開けられていて、瞳と口以外の顔の筋肉は一切使用していないような無表情。それだけに蔑視を含んだような冷たい目つきが、より強調されている気がしていた。


 痛い視線を向けられて傷ついていく心の中で、沸々と反発心が芽生えてきた。

 そんな目で見られる筋合いはない、と。


 その想いが自分の顔に出ていたかどうかは定かではない。しかし蜜は俺と目が合った後、一瞬だけ喫驚の様子を見せて――しゅんとした顔になった。そして俯いて方向転換。教室には入らず去って行ってしまった。


 両眼を見開いた彼女の顔。そのすぐ後に見せた顔が、とてつもなく哀切を含んだものだった。絶対的に愛していた者を、根底まで落とし込むような失望を与えてしまった気持ちになる。


 同時に想到されたのは、蜜とはもう終わったのだということ。彼女の行為に対しての俺の反応が、それを確定的なものへと変化させてしまったのである。


 今まで見たこともないような彼女の目からも、それは察することができた。


「行ってしまいましたね、野々村さん」

 始終を黙って見ていたジョカが、開け放たれた教室の扉を見て呟いた。


「ありゃあ、もうダメなんじゃない?」

 そう軽口を叩くリアだったが、今は反論できる気がしなかった。


 そして反射的に、追い掛ける足を踏み出せなかった俺。

 自分の心がわからなくなる。


 今も蜜のことは大好きだった。

 しかし俺は彼女の告白を断った。十五年間幼なじみとして共に生活してきたふたりだ。愛の言葉を告げることへ、どれほどの勇気が要ったことだろうか。


 少なくとも俺は、ふたりのぬるま湯のような、幼なじみとしての関係を壊したくなくて、断られるのが怖くて、それを告げることができなかった。


 それを彼女は口にしたのだ。ふたりの間で暗黙の了解となっていたタブー。そのグレーゾーンに彼女は足を踏み入れた。そして俺はそれを断った。


 彼女にとってそれは想定外であったろう。

 しかし俺が見た、校庭のベンチでの蜜。それもまた想定外であった。


 俺自身が、どれだけ冷めた表情を浮かべていたのかはわからない。意地になっていたところもあるのだろう。俺の顔を目の当たりにした蜜の表情。それはまだ未練があったからだろうか。それとも想いが現実についてこられなかった時の一過性のものだろうか。


 俺が校庭の彼女を見た時と同じように。

 信じたくない現実。受け入れたくない現実を目の当たりにした時のような、どうしようもなくやるせない気持ち。


 彼女が見せたのはそれだったのかも知れない。

 単に現実を受け入れる心の準備が出来ていなかっただけ、だという。



 その日、蜜が残りの授業に顔を出すことはなかった。

 それだけでなく、その日から蜜の姿を見かけなくなった。


 家にいるのかもしれないと、加奈に見に行ってもらったものの、


「みっちゃん、しばらく家に帰ってないみたい。おばさんたちはウチに泊まってると思ってたみたいだったから、口裏だけ合わせておいたけど」


 気が利く妹だった。加奈は俺の部屋に入ってきて、ベッドの上に腰掛けて足を組んだ。ベージュのタイトスカートから覗く太腿。そこから目を逸らす。


「それにしても、一体どこ行ったんだろうな、蜜の奴。もしかして自殺……」

 そこまで考えてから、あの男のことが頭を過ぎった。


 俺とこんなことになったからって、あいつが自殺する理由なんてないよな。

 その考えを読み取ったように加奈が、


「みっちゃんに限って、それだけはないよ」

 そう強く言い切った。


 なんでそう言い切れる? という疑問も浮かんだが、蜜と加奈の親密さを考えればそれもおかしくないのだろうか。


「あのさ……みっちゃんさ、男性恐怖症なんだよね。男の人の前だと目を見て話すこともできないの。お兄ちゃんは小さい頃から一緒にいたから、特別なんだと思う」


 は? でもあいつキスしてたわけで。

「そんな話、聞いたことないぞ。学校でも普通だったし」


 キスしてたし、という言葉は口に出せなかった。

「お兄ちゃんがいたからじゃない? 一緒にいる時はなんとか自制が利くみたい」


「あいつ、今まで俺に何も言わなかったけどな」

「言いにくいんじゃないかな。自分の精神的な病なんて。仲が良かったら特にさ」


 確かに心をすべてさらけ出すというのは抵抗があるとは思う。それで遠慮? 下手な心配を掛けないように? していたのだろうか。


 水くさいなぁ。

 そう思いながらも、蜜のそういった心遣いを知って嬉しくもなり、より深く好きになってしまったことは否定できなかった。直後にもう届かない存在になったという現実が訪れて、落胆する。


 蛇門の帝位継承さえなければ……。

 そう思わずにいられなかった。


 あの時、あのバカミミズがあぜ道を這ってなければこうはならなかったのだ。


 あの時、俺が蟻一匹殺さないよう、地面に注意を払って歩いていれば……ってそんなの無理だよ。毎日何百匹の蟻を殺して歩いてるかもわからねーのに。事情を知った今でも、これから蟻を殺さずに道を歩けって言われても無理すぎる。


 それにしても、ミミズにしても蚊にしても、よく今まで帝位継承されなかったもんだな。今の今までどうして他のヤツに継承されなかったのだろうか。


 偶然に偶然が重なったのか? ありえん。何かしらの陰謀すら感じる。

 ミミズの方のナーガは、ウーズを使いすぎてミミズになってしまったのだとジョカは説明していた。だとすると、元々の姿があるはずだ。それは只のどこにでもいるような蛇なのか、それともヒトに巻き付いて殺すことができるような大蛇なのか、それとも神懸かった姿なのか……。


 蚊門の前帝マルティアリスにしてもそうだ。

 ヤツはただの蚊だった。今まで殺されて帝位を他のヤツに継承していてもおかしくないわけだ。


 何故、今の今まで、俺に殺されるまであの姿だったのか。

 偶然以外の考えられる可能性と言えば、『他のヤツでは殺せなかった』か『俺に殺される必要があった』かである。


 前者の場合、他のヤツとは限らず『一般のヒト』では殺せない存在――つまり神のような存在であることが考えられる。マルティアリスに関して言えば、何故あの姿だったのかということをリアに聞かなければならない。


 後者だった場合、俺自身が選ばれた何者かだという、中二じみた妄想的発想になってしまうが、何らかの要因で『初めから俺が帝位を継承するように仕組まれていた』ということになる。

 では何らかの要因とは。それを企んだ者は。俺が帝位を継承することで、どういった変化があるのか。それらが疑問となる。


 ジョカに訊ねなければならないことは、『門帝が俺じゃなくなった場合、不都合があるのか』ということだろう。理由は何でも良い。自殺してしまったりとか、他の門帝に殺されてしまったり。そうなった時、ジョカたち蛇門に何らかの不都合が現れるのかどうか、という点が問題である。

 よし。ちょっと行って来るか。


「加奈、兄ちゃんちょっと行って来るわ」

 俺が彼女にそう告げると、


「ああ、うん。わかった」

 と簡単に答えて、更に続けてこう言った。


「次に戻って来るのはいつ?」



 ウチの両親は共働きだった。

 つっても、ふたりとも会社勤めではなく農家で頑張っているだけだ。至ってノーマルの一般人であり、伝説の血が流れた特別な親でもない。


 つまり、俺も妹も一般人だということになる。

 俺たちが『特別な何か』とかいう、頭のおかしい存在であるはずがない。


 だとするとただの偶然だろうか。

 含みを持った加奈の別れ際の問いに、俺は『十六時間後』と返答した。すると彼女はごく自然に『わかった』と返事をした。


 何故このようなやりとりが普通に行われたのか。

 蚊界への道中で考えていたことだった。


 加奈との別れ際。俺の脳内ではジョカとリアに対する疑問で埋め尽くされていた。加奈のその台詞の深さに気がつけなかったのである。


 次に戻れるのは十六時間後。その時にまた聞けばいい。そう思っていた。

 

「タクローちゃぁん!」

 質の低いキャバクラの客引きを彷彿とさせるリア。もちろんイメージの話で、一般高校生である俺は、そんなところに足を運んだことはない。


「リア、今日はおまえに聞きたいことがある」

 蚊の帝座に腰を下ろして、すぐにそう口にした。するとリアは嬉しそうに、


「なにかなぁ? スリーサイズはまだヒミツだよっ。これから成長するんだかr――」

 パカン!


「いったぁ……痛いよぅ、痛いよぅ。ナメて、ナメて。ふぅーふぅーして?」

 パカン!


 所詮は虫の脳だと言うことだろうか。ヒト門と比べると彼女たちの頭は、がらんどうではないかと思われた。叩いた張本人に慰めを所望する辺り、脳が足りていない証拠だろう。


「今日は真面目な話だ」

 パカン!


「いったたたっ……まだ何も言ってないよぅ」


「どーせおまえらのことだから、『何々結婚の話? まずはウチの両親に顔合わせしてぇ、ああ、やっぱり先にタクローちゃんのご両親に挨拶が先かな? やっぱりそっちが先だよね。あたし、ドキドキしちゃうことは、先に済ませたいタイプだから』とか言うんだろ?」


 どきり。


 といった表情をするリア。「ど、ど、どどどーしてあたしの心がっ!」と驚愕しながら言った。それでも懲りない彼女は続けて、「やっぱりタクローちゃんしか、あたしの旦那様はいないかなっ」と言う始末。もう面倒になった俺は話を続けることにする。


「前帝マルティアリスは、何であの姿だったんだ?」


「門帝的超絶無視」


「何でいきなり中華風なんだ。いーから質問に答えろ」


「わかったよぅ。でも何でって、蚊門だからに決まってるじゃん?」

 小首を傾げながら答えるリアだった。別段何かを隠していそうな素振りにも見えない。


 そう言われてしまうとこれ以上は何も言えない。切り込み口を変えて更に聞き込んでみることにした。


「前帝の在任期間は?」

「だいたい聞いてるのは百年ぐらいかなぁ……」


「ふむ……それじゃリアが従者となってからはどれぐらいなんだ?」

「一週間ぐらいだね」


 は?

「一週間っ?」


「そんな驚かないでよぅ。あたしだって大変なんだよ。前任者がいきなり死んじゃって、ちゃんとした引き継ぎも行われないまま前帝が崩御したわけじゃん? クーデター以外のことだって、未処理の帝務が山積みだってのに」


 マジかよ。考えられる限り最悪のタイミングでの継承なんじゃねーか。

 何よりも、こいつが必要以上の情報を持っているとは思えないのが絶望的だった。


 元々の性格なのか、楽天的な彼女でなければ現状の従者は勤まらなかったのではないだろうか。生真面目そうなジョカだと、とっくに脳内が崩御していたかもしれない。


 そう考えるとこいつも可哀想なヤツだなと感じる。挙げ句、蚊門の現門帝はやる気の欠片もないわけで、何だったらどうにかして帝位を継承できないかとか考えているわけで。


「おい、クーデターとやらの対策にはとりあえずどうすればいい?」


 ちょっと助けてやりたい気分になった。山積みになっている問題とやらを、前向きに片付ける姿勢を見せてやった。するとリアは、


「あ、あっ、よかったぁ……ぶっちゃけタクローちゃんのやる気が微塵も感じられなかったから、あたしひとりで何とかしようって考えてたんだよ。一緒にやってくれようとする気持ちだけでも心強いよ」


 何とも可哀想なヤツだ。それと意外に相手を見ていることに感心した。


「って言っても、現状そういった不穏な動きがあるってだけで、あたしらからはどうすることも出来ないんだよね。いちおー防衛部隊の配置は終わってるから、後はコトが発生次第、指揮をとってもらうだけかな。兵と兵はそれで片付くから。問題は先導者なんだよねえ」


 こいつ……もしかして結構優秀なのか?

 見た目が幼女、バカっぽい喋り方、軽すぎるノリ、空っぽの脳、直情的な性格、そして何よりも従者となって一週間だということ。こいつが従者として有能でないと思える条件は十分のはずだったが。


「先導者の始末は俺がつけたらいいんだろ?」


「うん……そうしてもらえると助かるんだけど……いいの? 面倒じゃない?」

 済まなそうに上目遣いで見てくるリア。


「うんにゃ。大したことねーよ」

 強がりだった。


「じゃあ、悪いんだけどお願いね。従者は同一門でナンバー二の実力だって言っても、あたし在籍一週間だからさ。やっぱどうしても経験の差とかが出ちゃうと思うんだ。正直、勝てるかわかんなかったんだよね」


「安心しろ。何とかしてやる」

 とは言ったものの、戦いなんてしたことねーし、ウーズこそ契約したけどそれを使ってどうこうした、ということもない。こいつの言うように『先導者』との経験の差が、モロに出なきゃいいんだけどな。


 内心不安で仕方がない俺だった。

 だが、


「大丈夫だよ。帝位の継承で、力も同時に継承されてるから。きっと指先一つでダウンさ!」

 見透かしたように、明るくそう言ってくれた。

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