第二章 衝突


「ねぇ、みっちゃんと喧嘩したの?」


 妹である杉山加奈が庭にしゃがみ込み、手にしている線香花火を見ながらそう言った。ウーズの契約を済ませた後、滞っている帝務とやらの簡単な説明を受けていると、いつの間にか夜明けになっていた。


 蛇門界で睡眠を取れば滞在時間を浪費しなくて済むのだが、ヒト界の自分の部屋で、自分の布団でゆっくり寝たい気分だった。


 まだ、俺はヒトでありたいと思っているのだろうか。

 そういった真相心理が自室で睡眠を取るということへの欲求を駆り立てているのだろうか。


 実際、蛇門がどうたらとか人外の事柄に干渉するまでは、自分の部屋、自分の布団で眠ることに執着していなかった。確かに落ち着きはするが、「自分の布団で」というよりは、ただ「眠りたい」という欲求の方が強かった気がする。


 学校の机の上。家のリビングのソファ。蜜の家。稀にではあるが広々とした公園のベンチでうたた寝することもあった。寝ることができる場所があればどこでも眠ることができたのである。そのときに、「自分の部屋の、自分の布団で」ということは考えなかった。


 だが今は違う。俺は自分の部屋を、布団を、家を、ヒト界を強く求めていた。借りてきた猫のような蛇門界での生活は、非常に息苦しく、堅苦しくて、気疲れが蓄積していくのがわかった。


 またジョカが告げていく蛇門界の帝務を初めとした人外な出来事。それらを耳にする度に体が緊張していくのがわかった。


 果たして俺なんかにそんなことができるのだろうか。門帝など務まるのだろうか。他門界の門帝と戦って勝つことなんてできるのだろうか。しかし負ければ待っているのは死らしい。


 そしてその戦いは日常的に繰り広げられているという。いつ、どこで襲われるかなんてわからない。どんな状況でも他門界の門帝と対峙する可能性がついて離れない。それこそ就寝中であってもだ。


 悲観的な考えにどっぷりと浸かった頃、どうして俺はこんな人外な出来事を受け入れたのだろうかと思い始める。


 そうだ。蜜と、ヒト界で一緒に暮らすためだ。そのために俺は、ヒト門の門帝を倒してウーズを奪わなければならない。今のままではきっと勝てないだろう。


 彼らは門帝の存在を巧妙に隠しているという。つまりそれらに付き添っている側近たちが、門帝をかくまっているという風にもとれる。そう、屈強な従者が門帝をかくまっているのだ。


 門帝を上手く隠すことができる知識や、他門界は元よりヒト門の門徒俺たちにすら隠匿できる知恵や経験。相手は百戦錬磨の者である可能性が高い。


 それでも俺は勝たなくてはいけない。蜜の……蜜と一緒にいたい俺のために。


 そんな蜜と加奈は家が隣同士で、家同士が先祖からの長い付き合いとなっているため、そして同性であることも手伝って、幼い頃から非常に仲が良かった。もちろん俺もその中に入っている。


 蜜がいることが自然な日常であり、彼女と話したりすることは当たり前の日常でもあった。俺が彼女の家を訪ねたり、蜜がウチにきたりすることも別段何事でもない日常であった。


 そして今日。非日常が訪れた。


 毎週土曜日曜の朝は蜜がウチを訪ねてくる。俺が起きてくるまでの間、蜜と加奈が遊んだりしているのである。それがなかったことを不審に思ったのだろう。


 しかし今までも蜜が来ない日がまったくなかったわけではない。彼女が体調不良になっていたり、家族で用事があるときだ。だが体調が悪いときは連絡があるし、逆に俺と加奈が見舞いに行ったりする。


 隣の家で用事があるときは、大概我が家も一緒だったりする。親同士で旅行に行ったりすることも珍しくない。


 そのため、蜜が家に来ないイコール喧嘩した、ということにはなり得なかった。ましてや俺たちは今まで一度もそういったことがなかったから余計だ。


 何故、加奈は俺たちが喧嘩したと思ったのだろうか。そういった素振りは見せていなかったつもりだが、言動の節々で感じ取ったというのだろうか。


 小学六年の加奈が? いやしかし、女子は男子と比べて精神面の発育が早いという。大人びた言動が目立ってきているのも確かであり、異常に気が利くときもあった。相手を、周りを、ヒトをよく見ているということだろうか。


「うーん……喧嘩って言うのかな」

蜜と仲が良かった彼女に対して、後ろめたい気持ちになる。そのことが濁らせるような返事になってしまった。


「あたし、みっちゃんがお姉ちゃんになったら良かったなって思っていたんだけどな」

 縁側に座っていた俺は、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる加奈を見ていた。


 鈴虫やコオロギ。夏の夜虫による演奏が鳴り響いている。合わせるように、家の外からは何匹もの蛙が合唱していた。大音量のサラウンドで鳴るそれらは、呟くような声など掻き消してしまいそうである。


 夏の風物詩である蚊が耳障りな羽音を立てながら舞っていた。ヤツは俺の血を吸おうと企んでいるようで、周囲を五月蠅く飛び回っている。


 何も返せないでいる俺は、黒髪を結い上げている加奈の白いうなじを眺める。知らないうちに大人びてきていた彼女に、今更ながら女性を感じた。


 チビで泣き虫だった加奈の変貌ぶりに違和感を抱きながら、加奈も蜜ももちろん俺も変わっていくんだということを考えていた。進化と呼ぶに相応しい変化。さなぎが蝶になる。彼女は蝶になったのだ。


 鬱陶しく舞っている蚊がボウフラから変化したのと同じように。そして……ヒトだった俺は『ヒトではないもの』へと変化してしまった。蛇でもヒトでもない。それも進化というのだろうか。


 変わってしまった自分が、つい先日まで同じ屋根の下で暮らしていた加奈とは同種ではなくなってしまったこと、寂しくもあり、残念な気持ちにもなる。父や母はどう思うだろうか。息子がヒトではないものへと変化してしまったこと。申し訳ない気持ちと、償いたい気持ちが同居する。


 俺はもうこいつらとは違うんだ。でも、それも今だけのこと……。


 そう考えないとやっていられなかった。何で自分がこんな想いをしなければならないんだ、という腐った感情も沸いてくる。ただそれよりも大きくて、強くて、揺るぎない感情が居座っている。


 早くなんとかしなければ、という焦燥。時が経てば経つほど人外に染まっていくような気がした。ヒトでなくなっていく気がしていた。前向きになっていられるだけマシなのかもしれない。


 もしどうやってもヒト門の門帝を倒せないことがわかり、絶望の淵に立たされてしまっていたら……と考えると、恐ろしくて仕方がなかった。


 目の前の加奈に縋りたくなってくる。情けない兄だと思われるだろう。ただそれでも泣きじゃくってどうにかしてもらいたいと、彼女にそんなことができるわけがないのに、そういった感情が沸き立ってくる。


「あのな、加奈。俺、告白されてさ」


 唐突な切り出しと同じ時、彼女の手に提げていた線香花火の灯火が、土が剥き出しの庭の地面に落ちた。ゆっくりと顔を上げてこっちに目を向ける加奈。長い睫毛がピンと張り、大きな瞳を強調していた。真一文字に閉じていた口を開いて、


「ああ、そうなんだ?」

 予想外の軽い反応。思わず俺は、


「蜜から何か聞いていたか?」


「うん、あたしとみっちゃんって、お兄ちゃんが知ってるより仲良いんだよ。女同士だからお兄ちゃんに言えないことも色々相談したり、話もしてたし」


 含みをもったように言葉を切る。

「あたしからすると、やっとかって感じだけどね」


 出来れば蜜を離したくなかった、という強い思いがこみ上げてきた。

 出来れば『ヒト門』の門帝を奪うまで、門帝長となるまで待っていて欲しい。


 届かないかもしれない俺の希望が、加奈の言葉によって想いをもたげていく。

 思い出してしまった、といった感じだった。


 パンッという強い衝撃を意味する音が夜の庭に響いた。ウーズが契約された爪の生えた手のひらで左腕を強く叩いた音である。半袖から剥き出しになっている肌がじんわりと赤くなった。


 煙たいほど飛んでいた蚊が、腕に張り付いてきたのだ。ヤツが血を吸うよりも早く叩き潰してやった。


 せめて最後に至福の時ぐらいは味わわせてやるべきだったか、などという考えが頭を過ぎる。手のひらに張り付いた蚊の死骸を、左手の指で庭の地面へと弾いて捨てた。


 そのときだった。


「マルティアリス様ぁぁぁぁぁぁっ!」

 どこかで、こんなことがあったような気がする。


 そうだ、デジャヴュというやつだ。過去にそんな体験はなかったのに、経験したことがある気がするというやつだ。


 半ば現実逃避しつつある俺の足下で、何者かが騒ぎ立てる。

 だいたいこいつどっから入って来たんだ。


「ああああ、このようなド田舎のボロ一戸建てで崩御なさるとはッ! なんとも嘆かわしい結末!」


 やばい。絶対的にどこかでこれと似たような経験をした。もう間違いない。


 しゃがみ込んで火種の途切れた線香花火を持っている加奈は、長い睫毛を張らせるように瞳を丸くして、俺と『そいつ』を見比べていた。


 長い銀色の髪をツインテールに結った頭。漆黒の装いは、所々が綺麗な円状に切り開かれている。肌が露出していて妙に色っぽい。ハズなのだが……。


 なんとも面妖なそいつは、小学生と見紛う――いや、加奈と見比べると幼稚園児とも思えるような幼女。アキレス健が切れるぐらいに背伸びをしても、中身と服装にかすりもしないほどの格差がある。そんなそいつが土の上に弾き捨てられた蚊の死骸を、両の手で掬って名残惜しそうに見つめていた。


「覚えておりますでしょうか、あたしたちが初めて出会った、あの時のことを……」

 足下で回想モードに入っていく。


 嗚呼……またか。

 またなのか……。


「帝位の継承か?」


 全身が脱力していく中でなんとか呟いた俺の声は、夏虫に掻き消されることなく幼女の耳に届いたようだった。彼女がバッと見上げて青い瞳で俺をじっと見ている。


「も、物事には順序というモノがあるんだよっ!」

 自分のペースをかき乱されたせいか、慌てた様子でそう言った。


「いや、もう説明はいい。次は『蚊門』? かなんかのテリトリーに連れていかれるんだろ? もういい。既読済みだからスキップしてくれ」


「なっ! ななななっ! あたしの見せ場のひとつがっ」

 何が見せ場なんだか。


「つーわけだ。加奈、兄ちゃんちょっと行って来るから」


「いや、全然意味わかんないし」

 冷めた調子で答えながら立ち上がった。両手を腰に当ててため息をついてから、


「もうっ、しょうがないな。いいよ、お父さんとお母さんにはあたしから言っとく。あと……みっちゃんにも上手いこと説明しとくよ」


 なんか勘違いしたまま受理された気がする。

 半ば不安になりながら、不完全燃焼全開の『蚊門』の『従者』に連れられて、新たな人外魔境へと飛び込むことになった。


 内心もう「どうにでもなれ」という、投げ遣りな気持ちであったのは言うまでもない。



 壮絶な世界だった。

 ある意味、蛇界のテリトリーより恐ろしい。


 やはり四畳半の部屋に、無数の蚊が飛び回っているのだ。


 黒い部屋だが壁は白かった。黒く見えるのは蚊だ。全部蚊だ。目や耳、鼻と口。それらに当たる時、蛇と同じようにスペースを作ってくれるため入り込むことはない。しかし蛇の時より我慢にならないのが羽音だ。世界中に存在している蚊を、四畳半の世界にムリヤリ押し込んだような感じ。


 穴という穴に入ってこないだけマシとは言えるが……。

 そして蚊門の帝座の側に立っている従者、リアは少し拗ねていた。


「そんなにスキップスキップと言われると、あたしの仕事がなくなるんだけど?」


 門帝についての説明を大部分カットした。内容確認のため俺が把握している『門帝』について話していくと、彼女はずっと頷いて『その通りだけど』と答えた。


 俺が蛇門の門帝であることも、彼女たち従者の間では既に周知の出来事となっていたらしい。その後に尚も説明を続けようとするので、スキップと伝えたわけだ。


「とっととウーズの契約を済ませてくれ」

 右手を挙げて爪がよく見えるようにしてやる。俺よりもだいぶ身長の低い彼女の目線に合わせるには、腰をだいぶ曲げないといけなかった。


「ぶぅ、わかったよぅ」

 ふくれっ面のリアは小さな両手で俺の右手を掴んだ。彼女の手では俺の片手を覆い尽くすこともできず、しがみ付いているという印象だ。


「じゃあ、どの指にする?」

 人差指の次だから、


「わかった。この指だね」

 自然に中指を伸ばしていた。リアは指を自身の口元へと近づけていく。その度に腰を下げないといけない俺は、中腰の姿勢が辛くなりつつあった。やがて、


 カリッ。

「いってぇぇぇぇぇっ!」


 こいつ、噛みやがった!

 右手の中指の先。爪と肉の間から鮮血が滴っている。それを見るなりリアが、ああもったいない! などと言っている。


「てめぇ、何しやがるんだ!」


 すごんでいる俺とは真反対に、ずっと流れ落ちる血を見ていたリアが顔をあげる。とてもきょとんとしていて状況を理解しているとは思えない。まるでずっと人殺しが罪とならない世界で育って、この世界にきて初めて人殺しをして問い詰められている、といった表情だ。


「何って、ウーズの契約だよ」


 何言ってんの、こいつ?


「契約ってあれだろ。キスするんじゃないのか、爪に」


「ううん? ああ、蛇門はそうだったんだね。でも蚊門は違うよ」

 なんてこったい。門によって契約方法が違うのか。


「はやくはやく! もったいないよ!」

 ホントにウーズの契約なのか? こいつただ血が欲しいだけなんじゃねぇの。


 仕方なしに中指を伸ばして彼女の前に差し出してやると、それにしゃぶりついたリアはちゅうちゅうと吸い始める。喉をコクコク鳴らしている。自分の中指を懸命にしゃぶっている幼女の姿は、意外にも悪い気はしない。血を吸われているのだということを除けば。


 しばらくして――。

「インヘイルだね」


 腹がいっぱいなのだろうか、やたらに満足そうな顔のリアが言った。

「インヘイル?」


「相手の力を吸って、自分の力に加えるの」


「ほほう。すげーウーズだな」


「そうだね。かなりアタリを引いた方だよ」


「どうやって使うんだ?」

 その質問の後、リアは両目を瞑って唇を突き出した。


 ナメてんのか、こいつ。


「はやくぅ」

 何度も唇を突き出す形を作り直し、急かすように言った。


「いや、意味わからん」

「なんでよぉ。インヘイルは口づけで相手の力を奪うんだからぁ」


 マジかよ……。

「相手が男とか、人間じゃなくっても?」


「もちろん。ね、ね。はやくぅ」

 つかえねーーーっ! なんだよ、そのバグ仕様。ほとんど使えねーじゃん。


 幾ら『力』が欲しくても、筋肉ムキムキのマッスル野郎とそれはできねぇ。俺のファーストキッスの相手はみっちゃんと決めてるんだからな。


「ああ、そっか……」

 ガッカリしたようにリアが呟いた。


「ん?」


「契約先、右手の爪だったね」


「ん、ああ。そうだな」


「じゃあ、発動方法が変わるんだよね」


「ふーん? キスしなくていいってこと?」

 残念そうにリアが頷く。更に続けて、


「右手で、相手の顔面を掴むの。爪を食い込ませるぐらい力を入れてね。力を入れれば入れるほど相手の力を吸い取るから。


 ふむ……。

 それって、蛇門のウーズ『リング』と相性よさそうだな。


 何にしてもキスしなくてよかったのは幸いだった。



「蚊門の門帝になったわけだけど」


 ウーズの契約が終わった後、腹が膨れたらしいリアは眠そうに語り始めた。その場に足を崩して座り始める。床付近で飛んでいた蚊は、流れるようにスペースを空けた。


「おい、そんなに足を崩したら見えるぞ」


 リアの黒い股布から眩しい太股が見える。だがこれが蜜であったなら、と思わずにはいられないほどに、リアは幼女なのである。そんなものを見てもなんとも思わないが、スリットから覗かせている足を目の当たりにすると、自然にそう口にしていた。


「見えるって、何が?」

 構わず座り込んだままで見上げるリア。大きな瞳をぱちくり。


「だから、その、あれだよ。し、下着……とか」


「下着?」

 理解出来ないと言ったご様子。


「いや、だからぁ……有り体に言えばぱんつだよ、ぱんつ」


 女性の下着自体それほど珍しくはない。何せウチには妹がいるのだから、あんな布生地見たところでなんとも思わないはずだ。しかしそれとこれとは別であり、やはりそれは見てはいけないものなのだという概念が俺の中に存在する。見たくても見てはいけないもの。口にしてはいけない禁断の果実。目を逸らさなくてはいけない存在。


「ぱんつって何?」


 時が止まった。


 蚊門界の四畳半に敷き詰められていた羽音が、すべて止まったような気がした。


「そうか……蚊だから……じゃあ、その下ってどうなってるんだ?」

 リアの股布を指しながらきいてみる。


「どうって、別に何もないよ?」


「何か付けてるとか、履いてるとか」


「つける? はく?」

 こいつ……履いてないのか。


 衝撃の事実が判明した! 蚊門の従者であるリアは、下着をつけていないらしい。なんという危険が危ないヤツだ。転んだりしたらどうするつもりだ!


「ま、まぁ……いい。それで何の話だっけ」


「あ、うん。えっとね――残念ながら、現在の蚊界はあんまり治安がよくないんだよ!」


「なんで?」


「んーっとね、前帝のマルティアリス様の性格についていけないってヤツが多くて、内乱状態なんだ」

 小さくため息をつきながらいう。


「へぇ? ……え? って、もしかしてそれって俺が」


「うん。よろしくね。門帝サマ!」

 要するに前任者の尻ぬぐいを俺がやらなきゃいかんらしい。


「今のところ、内乱は勃発していないけど、発生次第最優先で向かわないといけなくなるから、覚えててね!」

 ウインクをしながら軽く言う。


「でもよ、前帝ってどんな性格だったんだ?」


「そうだねぇ……一言では言い表すなら、とにかく『我が強い』に尽きたかな。ちょっとでも自分を持ってる臣下だと、あっという間に忠誠度が下がっちゃうの。で、忠誠度が低いヤツ同士が結託して、反乱軍を組織しちゃうんだよ!」


「ふーん……リアは気にならなかったのか?」


「うん!」


「なんで?」


「楽だったから。基本的にぜーんぶ自分で決めてやってくれるから、あたしがやることは簡単な雑用ぐらいだったし!」


 なるほど。リアらしい考え方だった。だが彼女は尚も言葉を続ける。


「それに従者は門帝に捨てられると、何の価値もなくなっちゃうからね。門帝あっての従者であって、破門されようもんなら一族から集中攻撃されるし。本当に行くところなくなっちゃうんだよ!」


 けろっと話したリアだったが、束縛に次ぐ束縛のような日々に置かれているのではないだろうか。生まれた時から運命も上司も仕事も決められていて、彼女の意思は何ひとつ無い状況下に置かれている、という風に聞こえた。


「大変なんだな」

 労うようにそう言ってみると、


「そうでもないよ?」

 ニコニコとした表情で彼女はそう言った。


「あ、そう……ならいいんだが」


「ま、そーいうわけで。蚊界も一筋縄じゃないから、これからもよろしくねっ!」

 終始元気な口調で話した蚊門の従者リアだった。


 翌日学校に向かうと、教室内には見慣れた顔の見慣れないヤツがいた。


 動きにくそうなヒラヒラしたロングスカートの白いワンピースに身を包み、鍔の広いフリルのついた白い帽子。白い絹の手袋に白い日傘を持っていて、足下を飾るのは白いサンダル。


 田舎の避暑地に訪れたどっかのお嬢様? といった風の中身は、見知った顔である野々村蜜。


 一体どういう風の吹き回しなのか。近寄って真相を聞きたいものの、先日のこともあって近寄りがたい気がしていた。


 向こうから話し掛けてくれないものかと、思案を巡らせていると、


「席につけーっ」

 独特な教室扉を開く音の後、担任が室内に入って来る。


 結局、様変わりしていた蜜にそのことを聞けなかった俺は、頭の中がモヤモヤとした霧に包まれていた。


 もう以前のように、気軽に話し合える仲にはなれないのだろうか。


 いつもであれば毎朝のように、蜜から話し掛けてきてくれていたのに今日は来なかった。それはつまり彼女の中でも心境に変化があったからに他ならない。俺が彼女に話し掛けにくいのと同じように、蜜も話し掛けにくいのか。それとも……もう話をしたくないと考えているのか。たまたま虫の居所が悪かったのか。


 おそらく最後の考えはないだろう。少しでも現実逃避したい俺が生んだ、都合の良い解釈だと思う。となると……普通に考えると、話をしたくないと考えているのではないだろうか。悲観的かもしれないが、明るい答えへ導けるような根拠は少なすぎた。


 そんな妄想を吹き飛ばすべく、担任は日常に横やりを入れるようなことを口にする。

「学期の途中で珍しいが、転入生を紹介する。おい、入って来い」


 閉じられていた教室扉が開かれる。ぬっと姿を現す頭は金色の髪。長めのショートヘア。白すぎる頬に赤すぎる小さな唇。低い背の彼女は、蜜が着ている服と同じような夏物のワンピースを着ていた。同じようにサンダル履きの彼女は、ひょこひょことした足取りで教壇の上に飛び乗る。


 あいつ、何してるんだ?


「初めまして。ジョカと言います。よろしくお願いします」

 彼女はぺこりをお辞儀をした。


 何しにきたんだ? 転入生とか……はあ?


「それじゃジョカはどこに座ってもらおうかな」

 担任が教室中を見渡している。幸い俺の左側は窓。残りの三方は人で埋め尽くされている。完全な包囲網である。


「先生様、私あの方の隣がいいです」

 そう言ってジョカは俺を指した。


「杉山か……だが場所が空いていないな」


「大丈夫ですよ」

 歩幅の狭い足取りで歩いて来たジョカは、隣に座っていた女子の前で立ち止まった。


「退いてくださいまし」

 にっこりと笑いかける。他の者はどうか知らないが、眼前で直視していたその女子と俺は、瞬きするぐらいの間だけジョカの顔が蛇になったのを見逃さなかった。


「ひっ……ひぃ。わ、わかったわ」

 そう言って、机ごとその列の最後尾へと逃げるように移動していった。


 どこからか持ち出してきた机と椅子を配置して、ジョカは椅子へとゆっくり腰を沈ませてこっちに向いた。


 満面に笑みを浮かべる。曇りなどひとつもないその笑顔は、一直線に相手を求めているようで、心をグッと掴んでくるようなものだった。


 例えるなら、道端にいた捨てられた子犬の純粋な円らな瞳。それに見つめられた時のような、目が離せないものだった。


 視線をジョカの列の最前席に向ける。そこには野々村蜜が座っていた。彼女は――。


 み、みっちゃん……。

 体全体で後ろへ振り返り、じっとジョカを睨みつけている。俺の視線に気がついたようで、こっちへ視線を這わせるも、やはりこれ以上ないぐらいの目つきで睨まれていた。


 蜜さん……黒板はあっちっすよ……。


 手振りでそう伝えてみるが、変わらず蜜は睨んでくる。気の弱そうな顔が描くその表情は、怒っていても可愛いと思えるような、健気さすら漂ったものだった。


 そして再び蜜はジョカを睨みつけている。

 当のジョカは、俺を見つめて笑っていた。



「タクローくんっ!」


 その日、初めて彼女の声で名前を呼ばれた気がする。


 最後に名前を呼ばれたのはいつだっけ。

 そんなことが頭を過ぎるほどに、懐かしい気分になった。例え彼女が俺の席の前に立ちはだかって、尖った声を向けていようとも。


 蜜は貴族の婦人がつけるような白い手袋。それをはめた手首を両腰につけて、仁王立ちで俺を見下ろしている。笑顔と泣き顔しか見たことがなかったが、こういった顔もできるのか、などと関係のないことを考えていた。


「どーいうコトっ! なんで? なんでっ?」

 蜜はひたすらにそんなことを繰り返した。


 もう思い当たる節が多すぎて、彼女の「なんで?」という問いに答えられる気がしない。どうすれば彼女の気持ちが収まるのか、という解決法が思いつかなかったのである。


「ちょっとよろしいですか」

 ぐいっと俺と蜜の間に割り込んで来たのはジョカだった。蜜の肩ぐらいまでしか身長がないジョカは、蜜を見上げるようにして、


「失礼ですが、拓朗様とどういったご関係でしょうか?」

 ジョカは凛とした佇まいでそう切り出した。更に追い打ちするようにこう捲し立てた。


「あなた……私と拓朗様が初めてお会いした時に、遠くで覗き見ていた方ではないですか? 私の服によく似たその格好も、拓朗様が愛する私を真似たものでしょう? ははーん。さては、私と拓朗様の門帝と従者を超えた恋仲を邪魔するキャラですね。なるほど。しかし私たちの恋仲は、そんなお邪魔キャラに負けることはありませんよ」


 対する蜜の表情の変化は著しい。中国三千年の絶壁の山より険しい。顔中の肌を紅潮させて、今にも頭頂部から煙が吹き出しそうだ。


「なっ、なっ、なっ」

 壊れたように同じ文言を繰り返しているのは蜜。声にならない声という感じだ。言いたいことが多すぎてアウトプットする口と、処理をする脳の数が足りていないのかもしれない。つまりフリーズ寸前。


「まあまあまあ。落ち着けって」

 熱暴走で蜜が倒れるのではないかと、心配になって仲裁を試みる。


「拓朗様。私という者がありながら、この女性は一体何なのですか? あの夜の出来事は遊b――」


 パカン!

 教室中に大きな音が鳴った。俺のウーズを宿した右手が、ジョカの後頭部をはたいた音である。脳が詰まってなさそうなジョカの頭は、非常に気持ちが良い音を奏でた。


「あたたたっ、ひどいですよ……ちょっとした冗談だったのに」

 面白い変化をしていたのは蜜の顔で、パラパラマンガさながらの驚いた表情から、冗談だということがわかって安堵した表情にシフトダウンしていた。


「冗談にならん」


「うぅ……」


 自分の後頭部を両手で押さえながら、涙目になっているジョカ。

 右手の人差指の甲で溜まっていた涙を拭う蜜。涙が染み込んだ絹の手袋が灰色に変色していた。


「それでこの子……ジョカさんは、タクローくんの何なの?」


 実に難しい質問だった。何を言っても誤解を招く気がする。正直に話したところで、前の時のようにマンガの世界みたいな言い訳としてとられるだろう。それこそ余計に話がややこしくなりかねなかった。


「私の名はジョカ」

 いや、それはもう聞いたって。


「拓朗様の身の回りのお世話と夜のお供を努めさせt――」

 パカン!


「いたたっ……そのようにパカパカ叩かれると、アホになってしまいますよ……」


「もうなってるから心配いらん」


 両手のひらで口元を抑えた蜜が、

「ということは……」


 なんだかよからぬ解釈をされているように思える。壮大なボケの前振りだ。


「奥さん……?」

 なんでそうなるんだ。『夜の』というくだりしか耳に入っていないんじゃ。


「んなわけないだろ。えーっと、あれだ。お手伝いさん?」


「何の? 一体何のお手伝い? タクローくんお手伝いしてもらうようなことあるの?」


 ごもっともな意見で。田舎のいち高校生が、一体何の手伝いをしてもらうというのだ。家にいるならまだしも、学校に入学してもらってまで手伝ってもらうこととは何か。


「いえ、奥さんみたいなものでs」

 パッカン!


 学習しろ、このバカ。やや強めに叩いたせいで、ジョカは後頭部を両手で押さえたまま踞ってしまった。


「タクローくん……この子と結婚してるから、私とのことは断ったの? どうして言ってくれなかったの? 一言早めに言ってくれてたら……ここまで傷つかなくて……済んだのに……」


 白い手袋で覆われた手のひら。それで顔中を覆って泣き出した。声を殺すように、教室にいる者の耳には届かないように。


「ハッキリ言うぞ、蜜」

 俺は決意を固めて彼女に声を掛ける。顔を覆っている手のひらから、両目だけを覗かせて俺を見てきた。


「こいつは、俺と結婚しているわけでも、メイドでも、愛人でも、なんでもない」


「じゃあ……何?」


「わからん」

 一瞬の沈黙の後、


「ストーカー?」

 蜜が尋ねてきたので頷いてやる。


「ひどっ!」

 いまだ後頭部を押さえたまま踞っているジョカが、顔だけを上げてそう言った。『リング』と『インヘイル』を契約した右手で、ジョカの頭部を上から力任せに抑えて頭を下げさせる。


「う、がががっ……」

 ちょっと可哀想な気がするが、もう埒があかん。つーか俺の方が可哀想だろ。


「ホントに?」

 強く頷いてやった。

「よか……った……」


「お、おいっ」

 その場に倒れるように勢いをつけてしゃがみ込んだので、体を支えてやった。


「ホントに、もう、どうしようかと……思ったよ……」

 よく見てみると蜜の目元には、色濃く隈ができていた。



 蜜が落ち着き始めた頃、休み時間が終わりを告げるチャイムが鳴った。

 そして再び衝撃を受けることになる。


「今日はもうひとり転入生を紹介する。一日にふたりもやるのは珍しいな」

 その後、教室へ入ってきたのは銀髪のツインテール。穴あきの黒い衣装。ブルーアイの幼女であった。


「はっじめましてぇ! リアと言いまーす! よろしくねぇ」

 馴れ馴れしいにもほどがある。案の定リアは俺を指して、


「せんせぇ、あたしの席、あの人の側がいいな」

 と口にして、前の席の男子の前に立った。


「退いてくれるよね?」

 やはり一瞬だけ、蚊の顔面を拡大表示したような顔をチラつかせた。


「ははは、はいっ。直ちに!」

 そう言って前に座っていた男子は、廊下側の一番後ろの席へと移動していった。なるべく離れたかったのだろうと推測する。


 前の席に座るなり、百八十度体の向きを変える。片足を椅子の上に載せて椅子に座る。

「来ちゃった」

 リアはそう言った。


 視界に入っている右隣の最前列の席。その席に座っている彼女が、さっきのジョカの時よりも鋭い目つきで俺を睨んでいる。更には右隣に座っているジョカもまた、俺のことを睨みつけていた。


 何なのこの状態。

 俺は蜜とふたりで暮らしていければ、それだけで幸せなのに。


 何で世界は俺の邪魔ばかりするんだ!

 そう憤慨せずにはいられなかった。


「タクローくんっ!」

「拓朗様っ!」


 休み時間になった途端、見事なスタートダッシュを見せた蜜が、光の速さで机の横にある通路空間を走って、窓際の俺の前にやって来た。


 それに負けじと席を立ち上がったジョカが、約一歩半の空間を飛び込んでくるように急襲してくる。


 ほぼ同時に辿り着いたのは、やはり蜜の愛の差だろうか。などと妄想に耽っていた。


「なんでしょうか、お二方」

 説明するのも面倒になった俺は、開き直った態度でそう言った。


「何なのこの子はっ!」

「何なんですかこの方はっ!」


 ああ……うるさい。俺が聞きてーぐらいなんだよ、もう。

 ものすごい剣幕の二人に対して、リアはにんまりと笑ってこう言った。


「やっぱり、タクローちゃんも若い子がいいんだって」

 なんという火に油。なんという自信。なんという勝ち誇った笑顔。


「若すぎるよっ!」

「若すぎますっ!」


 一般女子高生よりもちょっと幼い蜜。一般女子中学生よりもちょっと幼い感じのジョカ。彼女たちは口を揃えて園児みたいなリアにそう言った。


「あーもう、これだからオバサンはヤなんだよねぇ。ケンケン言ったら済むと思っちゃって。やっぱり年齢的な余裕のなさがそうさせるのかな?」


 何で俺に振るんだこいつ。余計にややこしくなるだろうが。

 首を縦にも横にも振れない俺。ぐぬぬ、と言わんばかりの表情の蜜とジョカ。


「俺が言うのも何なんだけど」

 口を開けば蜜とジョカはキッと睨み付けてくる。

 は、話しづらいではないか。


 ふたりに気圧されながらも俺は何とか言葉を紡ぎ出す。

「相手が相手じゃねーか? 若いってレベルじゃねーだろ。蜜はともかく、ジョカまでもが必死になるヤツでもないと思うんだが。要は子供なんだし」


 極めて一般論を語ったつもりであった。だが激高し始めたのは蜜だった。

「なんで庇うのっ? なんでこの子庇うのっ?」

 いや、だから……。


「若いように見えても、私たちと同い年なんでしょ? 童顔なだけなんでしょ? じゃあやっぱりダメだよ! ヒトとしてやっちゃいけないことだと思うっ!」


 もう蜜は、自分が言っていることが支離滅裂になっていることにも気がついていないようだ。そもそもリアって年齢いくつなんだ?


 ヒトの年齢の数え方が適応されるのかどうかは知らないが、たぶん見たまんまの子供だろうと思っていた。それは彼女の言動のあちこちに表れている。


「そうですよ、拓朗様! こんなボウフラモドキなんて相手にしないで下さいよ!」

 言い得て妙のジョカ。彼女もまたショートの金髪を振り乱して必死の様相であった。

 何でジョカが必死なのかがわからんのだが。


「やっぱり……この子たちとイチャイチャラブラブするために、私のことを断ったんだ。絶対そうだ。そうに決まってる。それならそうだって言ってくれれば……」


 ひとりで堰を切ったように話した後、

「タクローくんなんて、もう知らないんだからっ!」


「お、おい。蜜っ!」

 そう叫んだ後、彼女は走って教室を出て行った。もちろん、俺は彼女の後を追って走らなければならない。と、その前に、


「いいか。おまえら、ここで大人しく待ってるんだぞ。くれぐれも着いてきて話をこじらせないでくれよ」

 ジョカとリアにそう言ってから、蜜の後を追って教室を出た俺だった。

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