第一章 門帝


「やほー!」


 朝のホームルームが始まるまでの時間。彼女が俺の席の前にやって来て挨拶を交わす。それは毎朝の儀式のようなもので、ごくごく当たり前の光景だった。


 田舎にあるこの学校の生徒は少なく、学年でクラスはひとつ。クラスメートは男女合わせて二〇人にも満たない。正真正銘のド田舎である。当然、彼女だけでなくほとんどのヤツとは仲が良くなるシステムだ。その中でも彼女と俺は一歩抜き出ていた。


「あれぇ? タクローくん、眠そおだねぇ?」

 彼女、野々村蜜が瞳を覗き込んでくる。


「眠そうじゃなくて、眠い」


「寝不足かなぁ?」


「うん、だいぶな。ほとんど寝てねー」


「あっ! もしかして私のことを一晩中考えていて、悶々とした夜を過ごしたんだね。きゃはん、もうっ! タクローくんのえっちぃ」

 ポッと頬を染めて両手で包む。上半身を左右に捻るように振る。「きゅうぅ」などと言っていた。


「うーむ……そうであったならどれだけ良かったであろうか。でもな、蜜。残念ながらそうじゃないんだよ。もはや悪夢だったんだ」

 頬を包む手を下ろして机の上に載せてくる。体をズイっと前に乗り出して、


「あくむ? ゆめ?」

 彼女を見ながら頷く。


「よっし、今夢分析に凝ってるんだぁ。みっちゃんが診断してあげよお」


「ほぉ? それは面白いな」


 どこからかバインダーを持ち出して、ルーズリーフを一枚載せる。パチンと止めた後、シャープペンシルをカチカチカチ。近くの椅子を勝手に引き摺り出して、その上に座って足を組む。白いプリーツスカートから覗く太股が悩ましい。


「女医さんみてーだな」


「うん、そおいうイメージだからっ。で、どういう夢だったのかしら?」

 途端に女医っぽい口調になり問診が始まった。


「蛇だ……」


「へび?」


「凄まじい数の蛇が、四畳半ほどの広さの部屋にひしめかんぐらいに蠢いていた。俺はその中にあった、蛇っぽい椅子に座らされたんだ」


「うげぇ……」

 若い乙女とは思えない声をあげる蜜。


「何ソレ……きんもぉ……」


「だろう? マジ悪夢だろ?」


「うんうん、そんな夢で起きたらさいあくな気分だよね。それで夢の内容はそれだけ? かしら?」

 思い出したように女医っぽい口調を再開させる。


「いや、なんだかよく覚えてねーが、ケイヤクがどうとか、ケイショーがどうとか言ってた。なんかな、その部屋にはひとりだけ蛇じゃない――人間みたいな少女がいて、彼女がそう話してたんだ」


「ほうほう? それでその少女はどんな姿だったのかしら?」

 ワンパターンなお姉ぇ口調にも慣れ親しみながら、俺はこう答えた。


「金色の長めのショート、蝋のような白い肌、血のように赤い唇、気の弱そうな瞳……」


「うーん……残念ッ! それ、私じゃないね。もう金髪な時点で」

 自身の茶色がかったセミロングの髪を指で梳かしながら悔しそうに言う。


「ほんと、蜜の夢ならどれだけ楽だったか……」


「きゃいんっ、もう! タクローくんってばぁ」

 甘い鈴のような声で上目遣いに見つめてくる。


「それじゃ診断結果はっぴょーっ!」


 ドキドキ。


「タクローくん。かの有名な心理学者のカール・グスタフ・ユングはこう言っています。『男性の夢に出てくる蛇は女性』と。そして蛇の部屋でタクローくんに話し掛けてくる少女と言い、私の胸キュン度と言い、これはもう間違いなく」


 最後の方関係なかった気がするけど。


「女を求めてるんだよっ! 欲求不満! 恋人欲しいよぉ! って言う願望だぁっ!」

 勢いよく席を立ち上がった蜜がバインダーを左の脇に抱えて、右手でシャープペンシルを握りながら俺を指して言った。声高に、教室中に響くボリュームで。


 さすがに恥ずかしい。


「あ、あのさ、みっちゃん。ちょっと落ち着いて。そして声を落としてくれよ」

 そんな俺の抑制も構わず、蜜は更に続けてとんでもないコトを口走った。


「タクローくん!」

 変わらないボリュームで。


「は、はい……」

 やや尻下がりに答える。


「ずっと好きでした! 私と、付き合って下さい!」

 変わらないボリュームで。隠れるように上半身を九十度に曲げて、右手を差し出してきた。


 十五年間、そんなことを言わずに付き合い続けて来て、

 今、このタイミングで、そんなでかい声で、


 それ言うっ? 言っちゃうっ?

 でも俺は、そんなみっちゃんが好きでした。


 ふと机の上に投げ出していた自分の両手の内、左手の中指の第二関節に目を向けた。

 そこにいつもと違う違和感があったからだ。


 鈍色の表面に透明度の高い青石がついた指輪。

 夢じゃ……なかったのか……。



「あっははぁ、まさか断られるとは思わなかったよぉ」

 向日葵のような笑顔を咲かせて、強い陽射しを受けながら振り返って後ろ歩きのままの蜜は言った。


「一応言っておくよ」


「はぇ?」

 小首を傾げて彼女が見つめてくる。頭部の右上についている赤いポッチの付いたさくらんぼのような髪留めが揺れた。


「嫌いだから断ったんじゃないから。できれば俺も付き合いたい。だけど……今はダメなんだ」


「今は……? 学生だから?」

 俺は無言のままで首を横に振る。


「じゃあどうして?」

 俺はこっちの世界に八時間しかいられない。それは朝起きて、学校に行って、帰ってくる頃には過ぎ去る時間だ。つまり彼女とふたりきりの時間を共有できないという意味である。


「ちょっと、忙しくって……」

 蜜の表情が曇った。あまり見ることのない顔である。


「タクローくん……」


「ん?」


「好きな人……いる……?」

 首を横に振った瞬間、すぐに思い留まるように、


「あ、いや、いる。蜜が好きだ」


「んー……じゃあ、どうしてかなあ。今じゃだめ……つまり、女として今の私じゃ魅力がないってことかなあ?」


「そんなわけないよ」

 視線を蜜から逸らしてしまう。


「じゃあ……なんでだろう」


「み、蜜」

 彼女は笑顔のままで瞳の端から水滴を零し始める。それは頬を伝って顎先に辿り着き、地面に落下していった。俺は色濃く湿った土をいつまでも見つめていた。


「私、ガンバルよ? ……タクローくんに似合う女の子になれるよう努力する! だから……だからぁ」

 両手で顔を覆って声をあげて泣き始めた。


「そうじゃないんだよ、蜜。なんて言ったらいいか……」


「なあに? わかんないよ……私のこときらい?」

 顔を覆ったままくぐもった蜜の声。涙声のそれは蜜らしくない、暗く湿った声だった。


「嫌いじゃない! 嫌いじゃないよ! 大好きだし、蜜以外に考えられないし……」


「じゃあどうして? どうしてなのよぉ……わかんないよ」


 蜜の言っていることはよくわかる。よくわからない理由で遠回しに断られてるものの、本人は好きだと言っている。じゃあなんで? 答えはよくわからない濁らせたもの。でも本人は好き。じゃあなんで? 答えはよくわからない……。


「あのな、蜜」


「う、うん」

 顔を覆った手のひらから、瞳だけを覗かせた。目は真っ赤になっていて、涙でいっぱいに濡らされた長い睫毛に釘付けになる。


「さっき言った夢さ」


「うん」


「どうも夢じゃなかったみたいで」


「……」


「俺、変なことに巻き込まれたみたいなんだわ」


「へんなこと……? じけん? じゃあ警察に!」


「いや、なんかもう……たぶん現実を超越したみたいな出来事だから、警察とか国とかそんなんじゃどうしようもないと思う」


「……」


「それで、もし付き合ったとしたら、蜜が危ない目にあったりするかもしれないし……なんかそういう制限があって、俺はこっち――この人間世界に八時間しかいられないらしくて……でも、それって学校行って終わりだろ? 恋人の時間ってそれからだろ? じゃあその時間、蜜はひとりになるわけだよな、とか考えたら……」


「……なにソレ?」


「え?」

 相変わらず瞳だけを手のひらから覗かせている。今まで見たこともないような冷たい瞳だった。


「何よそれ……ちゃんと断ればいいでしょ? なんでそんなどっかのマンガの世界みたいなこと言うの? そんな断られ方されて私はどうすればいいの? 断られてもタクローくんのこと好きでいろってこと? 何その蛇の生殺し……」


 蛇……。


 そのキーワードに、一際大きく関心を寄せてしまう。


「もう、いいよ……」


「え?」


「タクローくん、私のことを傷つけないように断ろうと考えてるんでしょ? もうわかったから。だから、もういい……」


 そう言って、蜜はあぜ道の彼方へ走り去っていった。

 だーよなぁ。


 普通に考えたらああなるよな。だから説明したくなかったわけだし。正直に言ったところで余計におかしな方向に話が傾くのはわかってたことだし。


 もしかしたら、蜜ならわかってくれるかも。

 そういう期待は確かにあったけど……まぁ、蜜のリアクションは常識的な範囲だろ。


 じゃあ、断らずに受け入れるべきだったのか?


 いや、付き合ってんのに、理由も行き場所も話さず俺はこの世界から消えちゃうんだ。この現実世界で空白の十六時間を過ごすことになるんだ。余計に最悪な……猜疑心を植えつけることになる。それは絶対にしたくねぇ。


 こうやってちゃんと断っておけば、蜜も新しく好きな人が――。


 そこまで考えたとき、胸が杭を差し込んだような痛みに襲われる。


 思わず呻いて両膝をついてしまう。青地に白いチェックのスラックス。その膝部分に土が付着していく。構わず体を丸めて、その場に横になりたい気持ちに駆られる。


「もう……八時間経ったのかよ……」

 空にある夕日は西へと傾いている。


 左手の指輪の青石は、赤色にしていた。



 黒い四畳半――。

 ここに着たのは二度目になる。


 石造りの床一面に這い散らばっているのは、おびただしい数の大小様々な蛇。表面が無地の黒一色、灰一色、白一色、茶一色のものもあれば、斑のものであったり、赤い線の入った毒蛇だと思われるものもいた。


 昨日聞いた話では、世界中のありとあらゆる蛇がいるそうだ。


 部屋の隅っこの方で三角の頭をもたげているのは、コブラと呼ばれる種類の毒蛇。彼は威嚇しているのではなく、俺を歓迎しているのだと金髪の少女――ジョカは説明した。


「門帝様、お目覚めですか。どうぞこちらへ」

 ジョカが側の仰々しい椅子を指した。帝座である。


 両方の肘掛けから背もたれの側面まで、それぞれ蛇が這っているようなデザイン。シートも毒蛇のそれらしい皮製で、赤い斑点を鏤めた黒い皮膚のものだった。


 背もたれ中央上部には、巨大なコブラの頭が添え付けられている。既に生命活動を行なっていないそれは、延々と対する者を威嚇し続けているような表情だった。コブラの頭は剥製であり、シートの皮も蛇の遺体から作成されたらしい。


 蛇だらけの床を一歩踏み出す。

 すると散らばっていた蛇たちが、俺の足分の隙間をスッと避けた。もう一歩踏み出す。同様に蛇たちが場所を空ける。そうやって蛇型の帝座へと向かった。


 ゆっくり腰を下ろす。


「今日は聞きたいことがある」

 座るなりそう口にした。すると左の側に立っているジョカは、腰を下げて頭を俺の口元の高さまで持って来た。


「なんなりと。門帝様」


「帝位の放棄はどうすればいい?」

 息が止まったような表情になるジョカ。この黒い蛇の部屋に似つかわしくない幼げな彼女の顔が、瞬時に蛇色に染まったとでも言えるような、場の雰囲気と一致する険しい表情になった。


「帝位の放棄……ですか」

 少女の口から発せられたとは思えない、低い声だった。


「うん。俺は普通の高校生だ。普通の生活に戻りたい。泣かせたくない人がいる。人間界に八時間しかいられないのは辛いんだ」


 考えに至った経緯をすべて述べる気持ちだった。


「放棄は不可能です。帝位は奪われるか、寿命が尽きるまであなた様のものとなりますので。自己の意思で放棄できません」


「じゃあ、奪われるにはどうすればいい?」


「……正気ですか?」

 更に頭の位置を下げて窺い見るようなジョカ。金髪の隙間から垣間見える蝋の肌が、黒い部屋を照らすように映えていた。


「うん、教えて欲しい」


「奪われるには、奪う者に倒される――つまり、殺されなければなりません」


「死ぬ以外に帝位は解除できないってことか?」

 ジョカは小さく頷いた。瞳は綺麗な赤。蛇一族だと聞いてそれも頷けた。


「だが前帝ナーガはまだ息があるように見える」


 部屋の隅の方に置かれていた、灰色の台座に目を向けて言った。台座はだいたい腰の少し下辺りの高さで、立てば手がつける――ちょうど教室のスチール机と同じぐらいの高さだった。


 台座の上、中央に載せられるようにいたのは前帝ナーガ。


 ミミズである。


 しかしよく見れば、精巧なミニチュアの蛇の形であることを昨日知った。なんでも特殊なチカラ『ウーズ』の使いすぎで小さくなってしまったらしい。元々人間社会を観光するのが趣味だったらしいナーガは、その姿のままあぜ道を這っていて俺に――。


 正直、俺に特別な何かが備わっているとかではなく、あのとき、あのタイミングで、誰かがあの道を通れば、例え三歳児でも帝位に就いたことになる。末恐ろしい話だった。


 ナーガは台座の上で、小さく痙攣を起こしているようだった。


「もはや虫の息です。あなた様が門帝であることには変わりはありません」


「もし、ナーガがこのまま生き延びていても?」


「はい。帝位の継承は前帝が事切れる直前に、従者が行なうものです。そして一度継承を行なえば、門帝の力が衰えることがない限り揺るぎないものとなります。門帝が五体満足のフルパワー元気凛々の状態だと、従者の力が弾かれてしまうので死ぬ直前でないと帝位継承の儀式を行えないという意味になります」


「なるほど……」

 ジョカは一歩、一歩と歩いて行く。その足下の蛇は器用に且つ素早くその場所を空けていた。


 彼女は部屋の端から、何やら黒いボードを引き摺ってくる。ボードの下には車輪が添え付けられていて軽々と運べるようだ。


 車輪の進行方向の床を這っている蛇が直線に道を空け始めた。モーゼの紅海を彷彿とさせるその様に思わず見入ってしまう。


 一日経てば変わるもんだな。


 俺が昨日ここに連れて来られたとき、それはもう定期注射を受ける小学生の如く泣き叫んだ。四畳半に響く腰が抜けた男子高校生の絶叫は、見るに堪えないものだっただろう。しかし蛇たちが自分に危害を加えないことがわかると、それも次第に落ち着いていったのである。


「では講座を始めます」

 ジョカは白いチョークのようなものを持って、帝座に向かって立つ。


 ニッコリとした笑顔に、蜜を思い出していた。



「まず門帝とは何かというところからですね」

 これまでの経緯からだいたいの察しは付くが、黙ってジョカの講義とやらに耳を傾けることにした。


 もしかするとそれらの教えの中に、帝位の放棄に繋がる知識が混じっているかもしれないと考えたからだ。


 蜜とまた一緒にいられるようになるかもしれない。

 それだけを胸に、ジョカの説明を聞いていた。


「この自然界には二種類の界が存在します。動物界と植物界です。門帝様は元々ヒト門であらせられるので、動物界に所属することになります。そして界の下――つまり下界に位置する階級として『もん』が存在します。『ヒト門』であったり、我々『蛇門へびもん』であったりですね」


「門……?」

 自分の中にある知識との差異を感じて、思わず聞き返してしまった。


「門の下にあるのは綱とか目とか種とかじゃなくって? いきなりヒト門とかなのか?」


「はい。それらはヒトが勝手に作って喜んでいるだけですね。自然界ではそのような分類は異端とされています」


 いや、別に喜んでるわけじゃ……。


「ヒトはなんでもかんでも自分たちの支配下に置きたがる生物ですから。自分たちで勝手に作ったルールを、他生物へ当たり前のように強いることに、疑問を抱きませんしね」


 どうもジョカはヒトに対してあまり良い感情を抱いていないらしい。確かに他生物から見れば、ヒトほど自分勝手な生物もないだろうが。


「講座を続けますね。そして各門にはそれぞれ必ずひとり、『門帝』と呼ばれる方がいらっしゃいます。これはヒトで言う『王』と同義です」


「その門帝に俺は成ったのか」

 ジョカは首を縦に振ってから、


「先ほどもご説明致しましたが、門帝は武力で他の門帝を打ち倒せば、相手の門ごと支配下に置くことになり、相手の門帝という称号も奪います。二種類の門帝を宿したお方は、『門帝長』と呼ばれます」


「じゃあ、俺は門帝長なのか?」


「……? どうしてですか?」

 ジョカが見た目相応の少女の顔に戻った。赤い唇が喋る度にぷるぷると震えるのが、見た目とは裏腹に色っぽい。


「ヒトと蛇の……」

「あなた様は、ヒトの門帝ではないでしょう?」


「ああ、そっか。でもヒトの門帝って誰なんだ?」

 難しい表情に変化させるジョカ。白すぎる肌のせいで眉間に寄った皺がひどく目立つ。


「それは我々の知るところではありません。ヒトは巧妙に門帝を隠しており、公開しておりませんから。まったく、卑怯な話です」


 確かにヒトの門帝などという話は聞いたことがない。

 天皇陛下? どこかの国家元首? 首脳かもしれない。


 倒されれば門帝という位ごと奪われるという。それに対しての対策だろうか。


「次に、私たち『従者』の講義に移ります」

 意識をジョカに戻して耳を傾けた。


「従者は門帝に必ず付き添っており、周囲のお世話や情報の処理、その他もろもろの雑用をこなします。従者の戦闘力は同一門に置いて門帝の次に位置します。いずれの従者も情報処理能力に秀でており、門帝様が思っておられるより多くの情報を持っています。他門界の従者の情報も大体掴んでおりますし、従者同士で交渉を行うことも少なくありません」


 秘書みたいなもんか……。


「門帝が寿命で崩御なされた場合、同一門において次の実力者が門帝に就きます。それを自動継承と言います」


「ってことは、俺が寿命で死んだらジョカが次の門帝に?」


「いえ。従者は自動継承の対象になりません。その代わり従者の家柄として隔絶されておりますので、何があっても私たちの一族が従者となるようになっています。従者の中にも継承権が設定されていますので、私に何かあっても私の妹が従者となることはすでに決まっておりますから」


 かすかに笑いながらジョカが答えた。


「従者は女だけなのか?」


「いえ?」


「そっか……」


「私の一族で継承権が設定されている者が、たまたましばらくメス続きなだけですね。それに一族とは言っても、必ずしも血縁者であるわけでもありません。同一門の実力者をスカウトしてくることもありますし」


 メス……そうか。そう言えばこいつ蛇だったっけ。


「従者の単純な戦闘力は門帝の五〇パーセントほどですが、その代わりに門帝を不可なくサポートするための技能が備わっています」


「それは?」


「人型フォームへの幻身です」


「ゲンシン……?」


「はい。夢の体という意味です」


「ってことは、実態ではないってこと?」


「いいえ。それだとただの夢になってしまいますね。ほとんど実態だと思ってもらって間違いないです。ただ体を組織している原形質塊は細胞ではなく夢ですが。ごくごく微細な夢が詰まってできたモノだと考えて頂ければよろしいかと」


 わかったようなわからないような説明だった。


 細部までリアルに再現した夢は実態なのだろうか。実態となり得るのだろうか。そこがまずわからなかった。しかし目の前のジョカは実態を伴っているように見える。


 いつまでも理解し切れてない顔だったのだろう。ジョカが続けてこう説明した。


「夢という部品で作られた、巨大ロボットをイメージして下さい」


「巨大ロボット……?」

 唐突な言葉に、頭の中の考え事がすべて吹き飛んだ。


「その巨大ロボットの操縦席に蛇が乗り込んで、操縦しているようなものですよ。手足だけでなく表情まで事細かに。もちろん完全なイメージのお話ですが」


 ロボットに……蛇が? 操縦? 手足もないのに……?


「無論脳波での操作ですよ。蛇に手足が、という俗なツッコミはご遠慮頂けますようお願いします」


「は、はい……」

 えっと……。


「要するに今のジョカの姿は幻身した姿だってこと……だよな?」

 ジョカは小さな顔を、ゆっくりと縦へ振った。


「ご命令とあれば、いつどのような姿へでも幻身可能です。最近はこの姿がお気に入りなだけですね」


 ほぉう。

 何だかよくわからないが、男としての感情が頭をもたげた。


「ちょ、ちょっといいかな」


「なんでしょうか?」


「こっちに来て」


「はぁ……」

 てくてくと帝座に近寄ってくるジョカ。床の蛇たちが体を動かして、彼女が歩くことになるスペースを作る。


 目の前まできたジョカの、白い手にスッと触れた。

「きゃぅんっ」


 ジョカは驚いて手を引っ込める。

「も、門帝様? 一体何を……」


 蝋の肌に赤の着色料が加わった。ぱちぱちと大きな瞳を瞬く。触られた手を口元に当てて、何やら恥ずかしそうだった。


「触れることは……できるのか」

 その言葉に今まで忘れていたことを思い出したかのようにハッとするジョカ。


「あ、えっと……私、従者としてはまだ浅く、夜伽はまだ済ませておりませんので……前帝のナーガ様もあまりに私がおぼこいという理由で、お手も触れてくださいませんでしたから……」


 彼女の説明をまったく聞いていなかった俺は、姿を幾らでも変身させられる『自分用』のメイドさん。という解釈に落ち着いた。


「ただ従者の任務に、門帝の卵を産むというお仕事もありますから、私に拒否権はありません……。ドキドキしますが心の準備はできております。精一杯お世話させて頂きますね」


 ジョカはそこまでを一気に話すと、「キャッ」と言って手のひらで顔を覆ってしまった。どこかで見たような誰かの仕草。それを目の当たりにした俺は思わず、


「あ、あのさ……この姿になれる?」

 尻のポケットから携帯電話を取りだして、画面を表示させる。


「え、ええ……可能ですよ。しばしお待ちくださいね」

 画面を食い入るように見た後、ジョカは顔を両手で覆って隠した。


 しばらくして――。

 ジョカが顔から手を離すと、


「おおおおっ! みっちゃん!」

 野々村蜜の顔があった。


「ご満足頂けましたか?」

 ……。


「門帝様?」


「枠……」


「え?」


「枠は要らないんだ……」


「枠というのは?」

 携帯電話の画面枠を指してやる。


 ジョカの首から上に生えていたのは、携帯電話の画面そのものだった。画面の中にあるみっちゃん。髪型は映っていないため、ジョカの金髪がそのまま生えているような感じだ。


 なんて古典的な……。


「ふぅ……」

 戻った。怪しげな煙と共に。


 しかしこれは実物を見せれば幻身できるということと同義。

 上手く使えば、蜜(っぽいヤツ)とこっちの世界でも一緒にいられるということ。


「再幻身はエネルギーを食うんですよね」


「さい……げんしん?」


「はい。今の姿は既に幻身した姿で、そこから更に幻身することを再幻身と言います。これは通常に幻身するよりも、約二万五千倍の速度でエネルギーを消費しますので……もっても二十五秒ですね」


 つかえねーーーーっ!


「元の姿からであれば、百七十時間ほどは幻身できますが……」


「おお、じゃあそうした方がいいな」


「きっと、腰を抜かしますよ? 元々の私の姿」

 そう言えば蛇だった。こいつは蛇女だった。見た目の色形に危うく騙されるところだった。みっちゃんごめんなさい。一瞬の色恋にタクローは心が揺れ動きそうになりました。


「普通の蛇ではないので」

 ニッコリと笑ったジョカの笑顔。まさに睨まれた蛙も同然の如く動けなくなった。



「昨日お渡しした指輪の説明は覚えてますか?」

 ジョカが小さく息をついてから話し始めた。


 再幻身とやらは本人も言っていたように、かなりのエネルギーを消費するようだ。蝋の肌の節々に残った疲労感を見て、悪いことをした気持ちになった。


「うん。人間世界に居れる残り時間に従って、青石からだんだんと赤石に色が変わっていくんだよな」


「はい。だいたい残り時間が六時間を過ぎると青から緑へ。四時間を過ぎると黄緑へ。二時間で橙。一時間を切ると赤ですね」


 満足気な顔でジョカが言う。更に続けて、


「残留時間は二〇〇時間まで蓄積が可能ですので、丸二日こちらで過ごせば十六時間連続で滞在可能となります。門帝様は『ヒト門』ですが、ヒト門では帝位を持っておりませんので、帝位を継承している『蛇門』中心で換算されます。帝位がある門はそちらが優先されますので。逆に言えば、帝位がなかったとすれば蛇界には八時間しか滞在できないことになりますね」


 まぁ、こんな蛇畳半に八時間も居たくないけど。


「ここからが重要なのですが……」

 ジョカは唐突に声を潜めた。


「決して『ヒト界に八時間』ではありません」


「え?」


「『他門界に八時間』です。現状であればホームである蛇界以外に渡る時間を合計して八時間です。例えば、帝務で二箇所の他門界を訪れることになった場合、それぞれ合わせて八時間です。訪れる他門界の数が増えれば増えるほど圧迫していくことになりますね。要は、予定を詰め込みすぎた旅行会社の欠陥ツアーみたいなものになります」


 なんてわかりやすい。


 海外からの日本旅行でもそういったことがあるそうで、千葉のネズミテーマパーク、東京タワー、京都の寺巡り、大阪でショッピング、奈良の大仏見学、広島のドーム見学、厳島神社、博多でラーメン、福岡の宇宙テーマパーク、飛行機で札幌の時計台というツアーが、三泊四日で組まれていることもあるという。それと同じようなことなのだろう。


 日本に観光に訪れた外国人が忙しないのは、きっとそれが理由なのだ。


「でも、そんなに他門のテリトリー? ナワバリ? に行くことあるのか?」

 一呼吸置いて、ジョカは更に語り始めた。


「そのお話はまだしてませんでしたね。現在、ヒト界を除くすべての門で帝位の奪い合いが行なわれています。己の種を守るため多種を滅ぼして、己の種を強化するという流れですね。門帝には『ウーズ』というユニークスキルが存在します。それは門の特質に沿った内容で門帝のみ使用できます。更にウーズは最大で五種類まで同時契約が可能となります。六種類目を契約された場合、既存のものどれかを上書きする形になりますのでそれらから選択することになります」


「つまり、そのウーズを奪い合ってるってこと?」


「さすが門帝様。ご理解が早いようで私も助かります。ただ実際のところ二種、三種とウーズを集めた門帝もおりましたが、先ほど申し上げました通り一日八時間しか他門界で活動できないため、時間が掛かりすぎて寿命が尽きて崩御、ウーズの結集がリセットされる、という状態を繰り返しているのが実情です」


 一旦言葉を切ったジョカは俺の目をじっと見つめてきた。先を促すよう頷いてやると、生唾を飲み込んでから続けた。


「しかしそれによって絶妙な生態バランスが維持されてきた、というのもまた事実なのですよね。どこかの勢力に強力な個体が戦力として混じることは生態バランスを破壊し兼ねないことです。それと同時にその種の安住が約束されるというのまた、我々生物の願いなのです……ヒトのように、絶滅を恐れることなく、強く」


「ウーズの奪い合いが日常で繰り広げられるってことか。他門界に侵攻できる時間は一日八時間。その間に他門の門帝を倒す」


「その通りです。同一門で門帝に次ぐ実力を持った従者で、だいたい門帝の五割ほど。それ以下の門帝と従者、重鎮以外――つまり『門徒』となると足下にも及びません。ですので生半可な物量作戦が通用するとは思えません」


「俺が直接行って他の門帝と決着をつけろってことか」

 ジョカは一瞬瞳を閉じて頷いた。


「それでは門帝様に、ウーズの契約を始めようと思います」


「ウーズの……契約」


 人外の世界で人外の存在に囲まれて人外の力を得るという。なんとも人外な話だが俺は普通の人間であって普通の暮らしがしたい。蜜とふたりで暮らしていければそれ以外にもう何も望まないのに。


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 ウーズの契約とやらが、もう二度と普通の暮らしに戻れない橋を渡ってしまうように思えた。だが仮にウーズの契約とやらを断ったとしても、帝位の継承はもう済んでいる。そしてそれの放棄は自分の意思ではできない。奪われるにしても、寿命にしても死ぬ以外にないのである。


 ではここで躊躇っても、何にもならないのではないだろうか。


 しかし『ウーズの契約』を行なうということは、帝位がどうだとか、そういった類の人外での出来事を、俺自身が受け入れるということに他ならない。


 そのことが決断を鈍らせる。

 もう二度と、蜜と暮らしを共にしていくことができなくなることへの決意。


 ウーズを受け入れ、人外として生きていくことの決意。

 蛇門界を中心として生きていくということへの決意。


 ん……? そうか。


 今俺がヒト界に八時間しかいられないのは、『蛇門』の帝位を継承したからだ。『ヒト門』ではもちろん帝位を持っていない。そのため帝位を持っている『蛇門』が優先されて、蛇界が俺のホームとなっている。


 では『ヒト門』の門帝になれば話はどうだろうか。ヒト界もホームとなり、俺はそこでの活動に制限を受けなくなるということだ。


 二種類で門帝長となるとジョカは説明していた。

 つまり『蛇門』と『ヒト門』の門帝長となれば、今までどおりヒト界で暮らしていけるということになるはずだ。


「なぁ、ジョカ」


「なんでしょうか」


「門帝長となって、二種類の門の帝位を継承した場合、どちらの門もホームとなるのか?」


「もちろんです。帝位を奪えば奪うほど門帝のホームが増えていきます。ウーズは五つまでしか契約できませんが、ホームの数に上限はございません」


 なるほど。腹が決まった。こうする以外にないのだろう。


 俺は『ヒト門』の門帝を倒す。そして帝位を奪い、今までと同様にヒト界で暮らせるようになる。そこまで蜜が待っていてくれるかどうかわからないが……ひとまずはそれしか道がないように思えた。


「わかった……ウーズの契約とやらを進めてくれ」


「畏まりました。では……右手の爪にしましょうか。ちょうどヒトは五本の指と爪を持ちますから、管理上分かり易いかと」


「うん、それでいい」


「好きな指を伸ばして下さい。その指の爪にウーズを宿らせます」

 俺は無意識に右手の人差指を伸ばしていた。


「この指ですね。多少痛みを伴いますが耐えられると思います。またウーズの能力は蛇の特性に準拠したものとなりますが、あなた様の性格や特技などが考慮されてその内からひとつが選ばれます。どういった能力になるかは宿るまでわかりません」


「わかった。進めてくれ」


「では……」

 ジョカは両手で俺の右手をすくうように持ち上げた。それを自分の口元へと移動させて、右手の人差指の爪。そこに口づけをする。


「あ、あ、あ、あ……アウッ、グッ」


 唇と付けられた箇所。人差指の爪の裏側。そこが燃えるように熱い。激痛のあまり強く閉じていた目をカッと見開く。目線を人差指の爪へ向けた。内側の肉の色であろうそれは、ピンク色だったものが真紅に変色している。爪の表面はボコボコとした隆起が目立っていて、元の滑らかな表面だったモノからは想像もできないほど変貌していた。


 高温を帯びたような爪はやがて、何かが貫通するような痛みに変わった。爪の先に釘でも打ち込まれたような、肉の中までが熱く、ヒリヒリとするような痛み。何かがプツンと弾けた。異物が差し込まれたようなそれは、だんだんと自分のモノでなくなっていくような気がする。脳が外部からの刺激を正確に認識できていないのかもしれない。あまりの激痛に感覚が鈍るというやつだろうか。


 爪の裏側から何かが吹き出ていた。それが爪を覆ってデコボコのいびつな表面を形どっていく。


 更に脳天から足の先までを突き抜けるような、不愉快な感じがした。不愉快の元を辿ってみるとそれは何匹もの蛇。実際に蛇が突き抜けているわけではないだろうが、実態を伴わない蛇が上から下へと通っていくような感覚。


 数分後。

「これで契約は終わりです。大丈夫ですか、門帝様」


 ジョカの声が遠くできこえる。途切れ掛けた意識を繋げ直す。瞼を開くと、黒い、蛇の詰まった四畳半の部屋だった。


 麻酔を打たれた後のような、痺れを残している右手の人差指。指の根本から動かすのが精一杯で、そこから先を動かすことが怖かった。


 爪の表面はゴツゴツとした赤い隆起が目立つ。ちょうどマグマが吹き出て固まった直後、このような状態になるのではと思われる様だった。盛り上がった山から小さな棘が幾つも飛び出ている。それらが爪の表面に数え切れないぐらいにあった。


 気がつけばすぐ側に立っているジョカ。彼女がどこか晴れない顔をしている。

「どうしたんだ? 失敗したとか?」


「いえ、契約は成功しています。しかし……」


「なんだ?」


「付与されたウーズが……できれば毒の『ヴェノム』、鋭牙の『ファング』、丸呑みの『スワロウ』辺りが汎用性が高かったのですが、まさか『リング』とは」


 残念そうにジョカが呟いた。

「リング? 輪?」


「いえ、締め付ける力のことです。リングの力は締め付けるときのみに発揮され、その力が増大するのですが、零距離でないと効果がない上にそれ以外に用途があまりなく、利便性に欠けるのが難点です。一度拘束してしまえば容易に脱出できないので、あとは体術の問題でしょうか」


 って言っても、俺普通の高校生だぞ。

 彼女はそこまで想定した上でそう言ったのだろうか。


「所詮ヒトの体術など知れておりますから。ヒトは知恵や道具を使って真価を発揮する生物です。それ以外の基礎能力は他門の動物には適いませんよ」


 悟りきったようなジョカの言葉に、内心苛ついた。


「言ってることはもっともだと思うが、やってみなければわからないということもあるだろう? 事実、ヒトは今までそうやって不可能に挑戦してきてここまで進化してきたんだから。自身の能力以上のことを決して行おうとしない、他の動物に言われたくはないな」


 ジョカが息を呑んだ。そして俺をじっと見つめてくる。瞳は丸く見開いていて、すぐに伏せるようにして笑った。


「では試してみますか?」

 落ち着いた声だった。


「試す?」


「どうも我々蛇門の力を侮っておられるようなので、一度私の実力を見て頂いた方がいいかと思いまして」


 侮ってるのはそっちだろ。

 そう考えていたものの、口には出さないまま頷いてみせる。


「では」


 ジョカが小さくそう言って帝座から離れた。するとおびただしいまでの床の蛇たちが、直径一メートルほどの円を描くように場所を空けた。その分の蛇は押し込められたように積み上がり、蛇同士が絡み合って形成された蛇の塔があちこちで見られた。


 一分後――。

「あいたたた……」


 床に這いつくばるジョカがいた。金髪の隙間から苦しそうな表情を覗かせる。

 俺がやったことと言えば上から踏みつけただけだ。ウーズは使わなかった。


「わ、忘れておりました……前帝ナーガ様を打ち砕いたお方だということを……すっかり忘れておりました。と、とりあえず足を」


「あ、ああ。ごめんごめん」

 言われて気づき、すっと足を退ける。服についた足跡をはたきながら、ゆっくりとジョカが立ち上がった。


 そう言えば、従者は門帝の半分の力しか持たないと言っていた。前帝と言われるナーガがアレだったのだから、その半分の力しかないジョカはお察しということだ。


「これでおわかり頂けましたか」

 なんで勝ったみたいになってんだ!


 満足気な表情を浮かべるジョカ。節々を押さえながらまだ痛そうだった。

 ていうか一度踏んだだけなんだが。そんなあちこち抑えるなよ。

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