司 -Tsukasa-

さくらとももみ

プロローグ

「ナーガ様ぁぁぁぁっ!」


 突如、若い女性の声が背後からきこえた。

 何事かと振り返って見るが、そこには何者も存在しない。畑と畑に挟まれた土色のあぜ道が、見えなくなるぐらい果てまで伸びていて、あぜ道の脇に生い茂っている雑草が風にそよいでいるぐらいだ。そしてあぜ道の中央には、俺以外の足跡も付いている。


 その足跡を辿ってみることにした。ふたつの足跡――俺と何者かの足跡は寄り添うように、つま先が俺の方へ向いていて、だんだんとこちらに向かってきている。


 そして。


「ちょっと! 足! 退けてください! ナーガ様がッ! ナーガ様がッ!」


 足下でしゃがみ込んでいるヤツがいた。そいつは小さな両手で俺の右足を掴んで、なんとか持ち上げようとしているところだった。力を入れる度に上半身を反らす。その度に「うーん、うーん」と声をあげていた。


 体を反らすとき、白い頬をチラつかせる。不健康そうな白。なんか体温が通ってなさそうな、幽霊のような白。フリルの多い半袖の白いワンピース姿。


 あまりにも一生懸命な姿を見せつけられて、罪悪感が沸いてきた。そしてゆっくりと右足をあげることにする。スニーカーの靴跡が模様となり、土色のキャンバスに描かれている。


 キャンバスの色と相まって、教科書で見た縄文土器やら弥生土器やらの模様を彷彿とさせた。黒い影がだんだんと日光に照らされて、少しずつ露わになっていく俺の足下。


 だが、特に何もなかった。


 影が取り除かれた土の上。ギラギラとした陽光に照らされて輝いているぐらい。あえていうなら土器の模様のようなスニーカーの跡。濃くなった土色にそれが形取られているぐらい。


「あああッ! おいたわしい! ナーガ様! こんなド田舎の道ばたで崩御なさるとは……民草がきけば、皆悲しみのあまり冬眠に入ってしまいますぅ。真夏の炎天下だというのに、冬眠に入ってしまいますぅ」


 何言ってんだ、こいつ?


 そいつは両手ですくい上げるように何かを拾った。靴跡の濃くなった土色から何かを拾い上げたのだ。なんとも紐っぽい何かを。


 体長約五センチ。太さ一ミリ。白なのか灰なのかよくわからない体表のそれは、強い陽射しを受けてヌメヌメとしているように見える。


「み、ミミズ……?」


 俺がそう言った途端、足下のそいつ――少女はキッと睨みつけるように見上げてくる。

 あら、かわいらしい。


 蝋のような白い肌のせいで、より強調された真っ赤な唇。小さな鼻は目立たなくて、気弱そうな瞳でキッと睨みつけてくる。愛護対象のような可愛らしさを秘めた少女だった。


 年の頃は中学一年か二年ぐらいか。金色の長めのショートヘアが、太陽に照らされてキラキラとしている。


「あのような環形動物とナーガ様を一緒にしないで頂きたいですっ!」

 すっくと立った彼女は、両手で椀を作って、ナーガ様を載せたまま見せつけるように前へ差し出してきた。


「の、ノーセンキュー……あれ、これまだ動いてるぞ」

 彼女の小さな手のひらの中で、ナーガ様はモゴモゴと動いていた。少女に否定されたものの、どう見てもミミズのそれである。


「えっ? なんですか、ナーガ様! ふむふむ、なるほど……わかりました。従者の名に誓って、必ずナーガ様のご意志は叶えてみせますから!」


 とりあえず。

 こいつはヤバい。十中八九メンヘラってやつだ。何かミミズとひとりで会話してるし。間違いないだろ。


 よし。

 逃げよう。


 過去、これ以上ないという忍び足で、ゆっくりと後退を開始する。

 忍者だ。俺は忍者なのだ。忍者になるのだ。なりきるのだ。


「苦しいですか? 大丈夫ですよ。ジョカがついていますから。最後の最後までお仕えさせていただきますからね。思えば、ナーガ様との出会いも突然でしたね。あ、そうそう。覚えてますか。私がソーダフロートが飲みたいと言ったとき――」


 何かもう回想モードに入ってるし。このままとっ捕まったら何言われっかわかったもんじゃねぇ。あれがミミズの王様で、それを殺したからと払いきれるわけがねぇ額の損害賠償やらを請求されかねん。何か都会じゃいろんな詐欺が流行ってるらしいし、都会人はおっかねーべ。オラにそんな大金払えるわけがねぇ。


「そう言えば、あのときもナーガ様は私のことを気遣って――アアアッ! ナーガ様! お気を確かに! 嗚呼、ナーガ様……生まれ変わったら、今生よりは幸せな時を送ってくださいまし……」


 忍者と化した俺は、なんとか二〇メートルほど離れることに成功した。よし、もうそろそろ後ろを向いて一気にダッシュを、と思ったときだった。


 少女がガバッと顔をあげる。そして。


「ひぃぃぃっ!」


 ホバークラフトで水上を移動するように、ツツッと滑るように地上を移動してきた。すさまじい速度だ。『歩行』している様子はない。なぜなら、長いとは言えない二本の足が、微動だにしていないからだ。瞬きする程度の間で、二〇メートルを一気に詰めてきた。


「どこに行くんですか?」


 彼女は言った。

「い、家に帰ろうかと」


「これから大事な儀式が始まるのですよ」


 背の低い彼女は、俺を見上げてそう言った。表情は至って真面目。凜とした美しさすらある。両手は変わらず椀を作ったままで、ナーガ様をすくったままで。

「ぎ、儀式?」


「はい。帝位継承の儀式です。あなたは武力で前帝を排除なさいました。これからは、あなたが門帝もんていです」


 悪夢の始まり始まり。

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