* 2 *


 それは、喉から手が出るほど欲しい。私が唸りながら下を向いていると、モニカはさくさくと話を進めていく。


「アンタは言葉には問題なし、振る舞いも十分だけれど、ダンスってできるノ?」

「ダンスっ!?」

「経験ナシね。ヨシ、今度ダンス上手な将校でも連れてくるワ」

「そ、それって男性と一対一で踊るアレですよね?」


 手を取り、体を密着させてゆらゆらと揺れる。ずっと前、お兄様に連れられてサロンの見学をしたことがあるけれど……あれを人前ですると思うと、恥ずかしくて仕方がない。私が首をぶんぶん横に振って嫌がっても、モニカの中ではもう決定事項になってしまったらしく「彼にしようかしラ、それともアイツ?」なんて独り言を言っている。


 せっかく踊るなら、ギルと一緒がいい。私はモニカの意地悪そうな横顔を見ながら、そんな事を考えていた。


(……何をしているんでしょうか、本当に)


 私は海の向こうにある遠い国に思いを馳せる。彼の事を考えるたびに、その距離が憎くてたまらなかった。


***


 モニカがダンスが上手い将校を連れてくると言っていたレッスンの日が、あっという間にやって来てしまった。私は重苦しい気持ちを抱えたまま目を覚ます。


「今日も洋装でよろしいですね?」

「うーん、たぶん。ダンスの練習をするって言っていたから、その方がいいかも」


 ギル以外の進駐軍将校と話したことのないトクも、何だか緊張した様子だった。私が今日着る予定の紺色のワンピースに皺がないかをくまなく探している。


「トク、そこまで気にしなくても大丈夫よ」

「しかし、何かありましたら……」

「早く来ないと風邪をひいてしまうわ、ほら、貸して」


 私がまだ肌着姿だったことに、トクはようやっと気づいて何度も頭を下げながらワンピースを渡す。その時、来客を告げるチャイムが鳴った。


「もういらっしゃったのでしょうか!?」


 トクは慌てた様子で玄関に向かっていった。私はそれを見送り、ワンピースの背中の釦を一つずつ外していく。それを着ようとした瞬間、玄関から叫び声が聞こえてきた。


「トクっ!?」


 今まで聞いたことのないくらい、まるで命の危機であるかのような切迫した叫び声。私はワンピースを投げ出し、玄関まで走り出していた。廊下を曲がると、座り込みぶるぶると恐怖で震えるトクの姿と――帽子をかぶった誰かの姿があったけれど、今の私にはそれは眼中になかった。


「……トクっ!」


 駆け寄ろうとした瞬間、その誰かが私の名前を呼んだ。


「リリィ……!」

「――え」


 そんな呼び方をするのは、世界でたった一人だけ。顔をあげると――彼が、ギルが帽子を取って微笑んでいた。


「ギル……」

「リリィ! なんて格好で……!」

「え? あ、きゃぁあ!」


 ふっと我に返ると、真っ白な肌着だけで玄関に飛び出してきてしまっていた。ギルは慌てて背広の上着を脱ぎ、私の肩にかけた。


「そんな無防備な姿で出てこないでください!」

「だって! トクの悲鳴が聞こえたんだもの! ただごとではないわって思って……トク、大丈夫?」

「こ、こ、こ……」

「トク?!」


 トクの言葉に耳を澄ます。彼女は大きく息を吸ってから「腰が、抜けてしまいました……」ととても小さな声で呟いた。


***


「まるで幽霊を見たような反応でしたよ、トクさん」

「当たり前ではないですか! 連絡もなしに突然やってくるなんて」


 紅茶を淹れながら、トクはプリプリと怒っている。きちんとワンピースを着た私はギルに背広を返した。


「……それでは、お二人とも積もる話があるでしょうから、ごゆっくりお過ごしください」

「あれ? 私に小言を言いたいのではないですか、トクさんは?」

「それは後ほどに致します。覚悟なさってください」


 そう言って、トクは静かに扉をしめて出ていった。私たちは二人きりになる。


「……何度も手紙を送ったのに、どうして返事をくださらなかったのですか?」

「おや? リリィまで小言を?」

「ふざけないでください! どれだけあなたの事を心配したか……私の事なんて、どうでも良くなったのだと何度不安になったことか!」

「……申し訳ございません」


 ギルは立ち上がり、私を包み込む様に抱きしめた。私から流れる涙は彼の背広に吸い込まれていく。そういえば、以前良く着ていた軍服ではないのだなと泣きながらぼんやりと考えていた。


「何度も返事を出そうと思ったのですが、いかんせん忙しくて……」

「ギルのバカ、バカ!」

「本当に申し訳ありません。でも、それはあなたにも言えますからね、リリィ」

「え?」


 ギルは私から離れていく。空いた隙間に冷たい空気が流れる。

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