* 6 *

「わかった。国に帰る前に必ずこちらに来るよう伝えて……いや、絶対に連れてくるから、待っていろ」


 そう言ったお兄様は、上着の内ポケットから封筒を一通取り出した。


「この前写真を撮っただろう? 現像できたから持ってきた。……本当は、これを見てお前たちと笑い合いたかったんだがな……。また来るよ」


 お兄様は写真の入った封筒をテーブルに置き、足早に去っていく。けれど、私は呆然としたまま涙を流すだけだった。


 気づけば、夜が更けてしまっていた。私は自室の寝台の上で目を開ける、どうやら泣き疲れて眠ってしまったみたいだった。枕元にはお兄様が置いていった写真が封筒に入ったまま置いてある。それを見ようと思ったけど、目元が熱くなっているのに気づいた。泣いてばかりだったから腫れているのだろう。鏡を見なくてもわかる。


「……氷嚢、あるかしら」


 腫れぼったい目を冷やしたい。トクに聞きに行こうと体を起こす。それと同時に、ドアがノックされる音が響いた。


「トク?」


 返事はない。


「……誰かしら。どうぞ、入って」


 ドアノブを回す音は控えめだった。差し込んでくる明かりは眩しくて、私は目を顰める。逆光でドアを開けた人物の顔は見えなかったけれど……私にはその影だけで誰が来たのかがすぐにわかった。


「……ギル!?」


 私は飛び上がり、彼の元に駆け寄る。勢いがつきすぎて転びそうになった時、彼は咄嗟に私の体を支えてくれて、そのまま包み込むように抱きしめられた。彼の胸の中で私は何度も呼吸を繰り返す。体の中で満ちていく彼の香り。私はそれを掴むように、何度も彼の名を呼び、強く彼に縋り付く。しばらく互いに縋り付くように抱き合っていたけれど、ふっとギルの腕の力が弱くなった。


「……申し訳ございません」

「本当です! どうして国に帰ると、私に言ってくださらなかったのですか? こんな仕打ち、あんまりです!」


 ギルは私の手を握り、視線をそこに落とした。


「その話があったとき、何度もあなたに相談しようと思ったんです。けれど……きっと貴女を悲しませると思い、どうしても言いだすことが出来なくて」


 私は鼻をすする。


「結局、リリィを泣かせてしまった。貴女にそんな表情、させたくなかったのに」

「……戻ってくるのでしょう? いつになったら、帰ってくることができるのですか?」


 見上げると、彼は首を横に振っていた。


「それは、分からないんです。数か月かもしれない、一年……いや、もっと長いかもしれない」

「そんな……」


 彼の指が、私の頬に触れた。涙を拭ってくれている、けれど、それはとめどなく溢れていく。


「ギル、お願いがあるの」

「……なんでしょうか? 私にできる事なら」

「私も、あなたの国に連れて行って」


 彼が息を飲むのが分かった。


「ずっと考えていたの。あなたと一緒にハノーヴに行く、この国を出ていく」

「それはダメです!」

「どうして?」

「頼むから、私がこの国に戻るまで待っていてください。まだ私の国の国民が、陽本国に対して反感を抱いているのを知っているでしょう?」

「でも、あなたと離れたくないんです……」

「それは私だって同じだ。でも、貴女には双方の国から祝福されて欲しい、祖国に反発されている状態で迎え入れても、貴女が辛い思いをするだけだ」


 ギルは私の手を強く握った。その手は私の涙で少し濡れている。


「先の戦争の禍根を残すことなく、互いの国が友好的になり、陽本国のプリンセスがハノーヴの貧民から成り上がった少尉と結婚するという事は、平和の象徴です。貴女には、すべての国民から祝福を受けて欲しいんです」


 先ほどまで痛々しいものだったギルの表情は、優しいものに変わっていた。私ばかりが泣いていて、彼の瞳の中にはわがままを言って困らせている私の姿が映っていた。


「私はそのために戻ります。必ず帰ってくるから、待っていて。……私が帰る場所はただ一つ、貴女の元だけですから」

「……なるべく早く帰ってきてくださいね」

「努力します」

「いつ発つのですか?」


 彼は顔を伏せて「もう行かなくては」と小さく告げた。


「最後にちゃんと挨拶することができて良かった。……もうこの涙をぬぐえないのかと思うと、寂しいです」


 ギルはゆっくりと離れていく。そして、胸ポケットから丸い何かを取り出した。それを私の手のひらに載せる。彼の体温で温かくなっていたそれは、懐中時計だった。


「これは?」

「初めての恩賞で授与された懐中時計です」

「あなたにとって大事な物では?」

「えぇ。だから、リリィに持っていてほしいのです。これを私だと思って、貴女の側においてほしい」


 ならば、と私は寝台の横にある棚からリボンを取り出した。いつも身に着けているそれは少しくたびれているけれど、きっと私の気持ちが乗り移っているに違いない。


「これをあなたに。ギルの事を守ってくれますように」

「ありがとうございます。……あぁ、あの写真があったら尚更良かったのに」


 さすがにまだ現像は終わっていないですよね、と彼が残念そうにつぶやく。私は慌てて、同じ棚から写真が入っている封筒を取り出した。見たら辛くなってしまうから、お兄様から貰ったままにしていた。


「貴女の写真、貰って行っても?」

「もちろん。あの、私だけの写真でいいんですか? 二人で写っている写真もあるのに」

「それはリリィが持っていてください。私には、これさえあれば十分ですから」


 封筒から私の写真だけを抜き取り、胸ポケットに折れないように仕舞ってしまう。


「……それでは、ごきげんよう、皇女殿下」

「えぇ、どうか息災で。中尉殿」


 他人行儀な振る舞いに、お互い噴き出してしまう。あぁ、最後に見れたのが彼の笑顔で良かった。ギルは身をかがめ、唇を掠めていった。そして「必ず戻ってきます」とだけ言い残して……そのまま帰ってしまった。


 本当は、ドアを開けようとするその背中に縋り付きたかった。いかないでと泣き叫ぶことが出来たら、そして彼がずっとここにいると考えを変えてくれたらどれだけ良かっただろう。でも、私は彼の気持ちを汲み取り、その背中を押すことに決めた。こぼれる涙をぬぐう。これを受け止めてくれる人は、もういない。これから、私は一人で泣き止まなきゃいけない。


 でも、今夜だけは……私は布団に顔をうずめる。声を押し殺して、私は泣きじゃくっていた。


 数日後、新聞には進駐軍の人事が刷新されるという事が掲載されていた。カーター中尉がハノーヴ国の外務省付きになり、本国に戻っていうこと。記事は国交正常化に向けた動きが本格的になったのではと締めくくられていた。その中にはどこにも、彼とこの国の皇女の結婚話の事は書いていなかった。


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