* 5 *


「こんな人の言うことじゃなくて、直接話を聞きましょう!」

「こんな人っテ……」


 京子さんはそれから授業が終わるまで、私の事を気にかけてくれていた。放課後、私のカバンも持って玄関にスタスタと向かっていく。校門には、私の迎えと京子さんの迎えの車がそれぞれ停まっていた。


「私、これから百合子さんと一緒に進駐軍の本部に行きますから! うちの者にはそう伝えておいて!」


 そんなことを言われたら、うちと京子さん、それぞれの迎えにきていた運転手がとても動揺していた。


「京子お嬢様、それは困ります。奥様からは寄り道はさせないようにときつく言われておりますし、それに進駐軍の本部なんて……」

「百合子さんの、お友達の一大事なの! ほら、百合子さんの家の運転手さん、行くわよ!」


 そう言って京子さんは私の手を引っ張って、我が家の車に乗り込んで行く。運転手は否応なしに進駐軍本部に向かわざるを得なくなってしまった。

 けれど、京子さんの威勢の良さはここまで。異国人を前にすると、ピタッと動きを止めてしまう。


「ど、ど、どうしましょう。私まだろくに外国語なんて喋れません……」


 唇は少し青ざめ、わなわなと震えている。私は大きく息を吸った。


「……大丈夫、私が行くわ」


 京子さんにはここまで連れてきてくれた恩がある。これ以上無理をさせては申し訳ない。私は丸くなっていた背筋を伸ばして、守衛に近づいていく。そこにいるのは、以前進駐軍本部を訪ねた時にいた人たちとは違う。


『よろしいかしら?』


 私は2人の守衛に声をかけた。彼らは顔を見合わせる。


『ギルバート・カーター中尉に会いにきたのだけど、通していただけるかしら?』

『なんだ、このお嬢ちゃん。お前、知ってるか?』

『いいや? お嬢ちゃん、ここは遊び場じゃないんだ、早く帰んな』

『わ、私は彼の……!』

『俺たちだって忙しいんだ』


 とりつくしまもなく追い返される。私が肩を落としながら戻ると、京子さんはそっと肩に手を添えてくれる。


『そういえば、お前聞いたか? カーター中尉のこと』


 飛び込んできたその会話に、私は振り返って耳を澄ます。


『ん? 知らないけど、どうしたんだ?』

『本国に戻るらしいぞ。なんでも、今度は外務省付きになるらしい』

『ほー。すごいな、さすが英雄様だ』


 守衛の2人が話している言葉を聞いて、私は体中が冷たくなっていく事に気づいた。震えが止まらなくて、力が入らない。私はその場でへたり込んでしまい、気づいた時には珊瑚樹宮邸に帰ってきていた。トクが言うには、京子さんがここまで付き添ってくれたらしい。今、我が家の運転手が京子さんを自宅まで送ってくれているとトクは話していた。


「こうなったら、武仁様に聞いてみましょう」


 トクは真偽を確かめようと何度か進駐軍の本部に電話をしてギルに取り次いでもらおうとしてくれたけれど、不在だと言われて連絡がつかないままだった。ボロボロと涙を流す私の肩を支えて、優しくそう声をかける。


「武仁様ならきっと何か知っているはずですから、ね?」


 まるで子どもみたいに泣きじゃくる私の姿に、トクも動揺しているみたいで少しだけ声が震えている。私が頷く姿を見て、トクはまた電話まで走っていった。


 国に帰るなんてそんな大事なこと、どうして私に教えてくれなかったのだろう? 結局、私の存在なんて彼にとっては塵と同じなのかもしれない。風が吹けば、彼の気分が変わればすぐどこかに飛んでいってしまう小さな塵。


 トクはすぐに戻っていた。お兄様とはすぐに電話がつながったらしく、すぐに調べてくれるらしい。その言葉通り、数時間後にはお兄様は富永殿を連れてやってきた。


「富永に色々調べてもらったが……どうやらその外交官の娘が話していたことは事実らしい」

「……そんな……」


 くらりと目の前が歪む。トクが肩を支えてくれなければ、きっと私は倒れ込んでいたに違いない。お兄様はとても難しい顔をしていた。


「しかし、まだ詳細については何もわからないんだ。いつ帰って、いつ戻ってくるのか。これから富永に詳しく調べてもらうが、百合子も本人から直接聞く機会があれば……」


 私の代わりにトクが答える。


「……ここ数日の間、こちらにはお見えにならないんです」

「そうか……しかし、俺が直接進駐軍に行くわけにはいかないからな。どんな噂をたてられるか」


 お兄様はさらに難しい顔をして眉をしかめる。私は大きく息を吐いて、震えながら声を振り絞る。


「彼は、ギルは、私のことなんてもうどうでもよくなってしまったのでしょうか……?」

「それだけは絶対に違う!」


 お兄様は声を張り上げる。顔を上げると、お兄様は自信ありげに胸を張っていた。


「ギルバート殿がお前を捨てて国に帰るなんてことは、絶対にない。彼がそんな不誠実な男じゃないことは、お前が良くわかっているだろう」

「でも、私たちに何も言わないでこんな事になるなんて……」

「きっと何か考えがあるのだろう。百合子、お前が一番信じなければいけないのは誰だ?」


 真っ直ぐ私を見つめるお兄様の瞳は、いつも以上に優しかった。


「ギル、です」

「そうだ。いいな、この事は俺と富永に任せるんだ。何か分かったらすぐに知らせに来る。あと、その前にギルバート殿がこちらに来たらすぐに連絡をくれ」

「かしこまりました。武仁様、どうぞよろしくお願いいたします」


 お兄様に向かって深々とトクが頭を下げていた。こんな彼女の姿は、私は初めて見た。


「可愛い妹のためだからな」


 そう言って笑顔であとにしたお兄様は、数日後、渋い顔をしてまたやって来た。いい知らせではないことは、その表情を見ただけですぐにわかった。この数日の間に私も覚悟を決めていたつもりだったけれど、胸には強い痛みを感じていた。


「百合子も知っている通り、ハノーヴではまだ我が国に対する反発が強い。しかし、両政府とも国交を開けたい。まずは世論を変えていくためにギルバート殿を国に戻すらしい。彼は先の戦争では【国の英雄】と称えられ、国民からの信頼も篤いからな。そして、この国の内情についても詳しい。だからこそ、両国にとっても重要人物なんだ」


 そう言って、お兄様は少しだけ黙った。私の様子を窺い、言葉を選んでいるようにも見える。


「それに、ギルバート殿も国に戻ることを了承しているらしい」

「……いつ、お帰りになるのですか?」

「正確な日付は分からないが……すぐにでも帰国する、と。富永が調べてくれたところによると、そうらしい」

「そう、ですか……」


 頬に涙が伝うのがわかった。それは冷たくて、いく筋も流れていく。トクがハンカチを取り出して拭ってくれるけれど、それでは追いつかないくらい。次第に嗚咽も漏れ、感情が溢れ出してく。


「あいたい、です」


 帰る前に、せめてもう一度だけでも。けれど、彼は来てはくれない。本当は、帰るというのも人づてではなく彼の口から直接聞きたかった。


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