* 2 *
ギルが帰って少し時間を置いてから、お兄様が珊瑚樹宮邸にやってきた。彼がもう帰ったことを知ると、がっくりと肩を落とす。
「せっかくいいものを持ってきたのに。まあ、また違う機会にするか」
そう話すお兄様の傍らには、黒色のカバンがある。何が入っているのかたずねると、お兄様はにんまりと笑った。
「見ろ、カメラだ!」
「カメラ? 買ったのですか?」
「いや、富永がくれたんだよ。奴は上官から貰ったらしいんだが、使う機会がないと言っていてな。それなら俺にくれと言ったらくれた。結構上質なものらしいぞ」
そのカメラを四方八方から眺めるお兄様の目は、まるで幼い少年のように輝いている。そんなに嬉しかったのか、と私はそれを口には出さず、ただお兄様の様子を眺めていた。
「それで、カメラを持ってきて、中尉殿にご用事とはなんだったのですか?」
「ああ、写真の練習に付き合ってもらいたくてな、お前たち二人に」
「わ、私もですか?」
お兄様は深く頷く。
「多恵子お姉様と練習したらいいじゃないですか。どうして私たちが」
「多恵子を写すときはもっと上手くなってからと決めているんだ」
お兄様はなぜか胸を張る。要は、まだ写真を撮るのはへたくそだという事じゃない、私が小さな声でそう言うとお兄様は「うるさいな」とちょっとむくれた。
「来週、また来るんだろう?」
「ええ。その予定ですが」
「わかった。来週はもっと早く来るようにする。……そう言えば、トクから聞いたぞ。随分仲睦まじい様子らしいな」
私の顔はポンッと突然沸騰したみたいに熱くなっていく。お兄様は満足そうに何度も頷いて、どこか嬉しそうだ。
「二人の写真を撮ってやろう。いい記念になる」
「何の記念ですか! もう! そうやってからかってばかりなんだから」
「まあ、兄としては安心したよ」
急に落ち着き払った声で、お兄様はそう言った。
「仲がいいのが一番いい事だからな。このまま、お前たちのように両国の関係が良くなればいいのだが」
「国交正常化のお話は、どうなっているのですか?」
恐る恐る尋ねると、お兄様はふっと小さな笑みを浮かべた。
「富永から聞いた話だが、徐々にいい方向に話が進んでいるという事だ。お前たちが結婚するときは、自由に行き来できるようになっているといいな。その時は、みんなでハノーヴ国にいるお前たちの元に遊びに行くかな。多恵子や姉様方と一緒に」
その言葉に、私は笑みを浮かべながら頷いた。
翌週、お兄様はギルと共にやってきた。
「随分早く来たのですね、お兄様……」
「だって、また帰ってしまったら困るだろう?」
お兄様は首からカメラをぶら下げる。とてもやる気でみなぎっているのがすぐに分かった。
「皇太子殿下がお持ちのそれは、とてもいいカメラですね」
「お! ギルバート殿はカメラに詳しいのか?」
「何度か触ったことがあるくらいですが、そのカメラを作ったメーカーの名前くらいは知っています。上質なものを作ることで有名なので」
カメラを褒めてもらったお兄様はご満悦な様子だ。カメラの性能よりも、使う人の腕が問題なのでは? と思ったけれど私は口を噤んだ。せっかく上機嫌なのに、水を差すのはやめておいたほうがいいだろう。
「さて、さっそく撮影に入ろう。どこがいいかな、庭にでも出ようか」
「そうですね。ここの庭はいつ来ても美しいですし、被写体にはぴったりかと」
「ほら、行くぞ百合子!」
「はーい」
この間延びした返事、多恵子お姉様に聞かれたら怒られてしまうな。そんな事を考えながら、私は二人の背中を追った。
お兄様が選んだのは、コスモスが咲き始めた花壇だった。
「ほら、二人とも並んで」
お兄様がそう指示を出す。私たちはコスモスの花壇を背に、お兄様と向き合うように立った。
お兄様は、
「ほら、もっと近寄って」
とか、
「何か百合子の顔が固いんだよな。もっと笑えよ」
と無茶な事ばかり言う。
「慣れていないんだから仕方ないじゃないですか。そ、それに、近寄りすぎたら、誰になんと言われるか……」
「他の人に見せるわけじゃないんだからいいだろう? 離れていると枠に上手く収まらないんだよ」
そんな言い争いをしている私たちを、ギルはクスクスと笑っている。
「ほら、皇太子殿下の言うとおりにしましょう」
ギルがそう言って、私の腰のあたりに腕を回して引き寄せた。私たちの距離がぐっと近くなる。
「お! いいな、しばらくそんな感じでいてくれ!」
お兄様は何度もシャッターを切っていく。私は恥ずかしさでいっぱいになって、早く終わらないかだけを考えてしまっていた。だって、こんなに近くにいることすらまだ慣れていないのに、お兄様に見られるなんて……! お兄様は時折、「ほら、百合子、顔が固いぞ!」なんて言っていたけれど、それどころじゃない。
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