8話 つないだ手を離さないで

* 1 *

朝、ベッドから起き上がって伸びをしていたら、ドアを開けたトクがとても驚いた表情をしていた。


「なに? 変な顔して」

「いえ、百合子様が1人で起きているのを見るのなんて、何年ぶりかと思いまして……。何かありましたか? また具合が悪いとか、医者でも呼びましょうか?」

「そんなに変かしら? 私だって、ちゃんとする時はするのよ! もう!」


 私はトクが持ってきた洗面器で顔を洗う。髪をとかしてもらい、いつも通り着物に身を包む。朝食を終え、お茶を淹れてくれているトクに向かって、私はこう口を開いた。


「……何時くらいになるかしら?」

「え? 何がですか?」

「だから、今日はあの人がくる日でしょう?」


 私がそう言ったのと同時に、来客を告げるベルが鳴った。いつも以上に来るのが早い。トクよりも先に玄関に向かい、ドアを開ける。そこには、満面の笑みを浮かべた彼が立っていた。


「おはよう、リリィ」

「おはようございます、ギル」


 送れてやって来たトクは「そういう事ですか」と呟く。


「……それはどういう意味かしら?」

「いいえ、仲睦まじいのはいい事ですからねぇ」

「もう! 変な顔しないでよ!」

「してませんよ〜」

「してる! ニヤニヤしてるじゃない!」


 私達のやり取りを、ギルは微笑ましく見つめていた。持ってきていた紙袋をトクに渡し後、私の自室に向かった。


 私とギルの思いが通じ合ってから、数週間が経っていた。私の風邪もすっかり良くなっていて、医者とトクからも自由に過ごしてもいいというお墨付きを得ている。


 風邪が治ってから始めて登校した日、京子さんから変な事を言われた。


「休んでいた間、ノートを送ってくれてどうもありがとう。とても助かったわ」

「いいえ、お安い御用ですよ。百合子さんにはいつもお世話になってますし……あれ?」

「……なんですか? 人の顔をまじまじ見て」

「いえ、百合子さん、なんだか雰囲気がいつもと違う気がして……ははぁ〜ん、そういう事ですか」


 京子さんはニヤリと笑う。その何かを見透かすような視線に、私の肩がぎくりと震えた。


「な、なんですか、変な顔をしてるじゃ……」

「だって、百合子さん、お休みされる前と雰囲気が違うんですもん。こりゃ、何か良いことがあったんだなって思いますよ。主に中尉様のことで」


 まだ何も言っていないのに、京子さんはすぐに彼絡みの事だと勘付いた。私が言葉をつまらせると、京子さんはニヤニヤと笑いながら、そっと私の肩に手を置いた。


「ま、まだ詮索はしないでおきますね。百合子さんがお話ししたくなったら、いつでもお付き合いしますから」

「あ、ありがとう……」

「でも、百合子さんもそんなに可愛らしいお顔をなさるんですね。まるで普通の女の子みたい」


 その言葉が、私は堪らなく嬉しかった。生まれて初めて手にすることができた【普通】を、私はかみしめながら彼の隣に立つことができる。


「本当によろしいのですか? 皇帝陛下が使っていた書斎に立ち入るなんて……」

「ええ、別に構いません。父が来ることもありませんし、本を見てみたいとギルも言っていたでしょう」


 授業が終わった後、私はギルを連れて父の書斎に来ていた。彼がこの国の歴史について書かれた、分かりやすい本はないかと尋ねてきたからだ。私の歴史の教科書を渡してもいいのだろうけれど、まだ授業で使うので手放すことはできない。書斎に行けば、何かよさそうな本が見つかるのではないかと思ったのだ。


「どうですか? 何かいいものはありましたか?」


 本棚から何冊か本を抜き出し、彼はパラパラとめくっていく。しかし、内容がまだ難しいものばかりだったらしい。


「この国の言葉を話すのはいいのですが、読むのはまで不得手でして……」


 そう言って、恥ずかしそうに頬を掻く。書くのはもっと苦手だと、ギルは付け加えた。


「こちらの本はいかがですか? 私が女学校に入学したころには読めていたので、そう難しくはないと思うのですが」


 私が背伸びをして本棚から一冊の歴史書を抜き出した時、彼は驚くほど近くに立っていた。見上げると、熱っぽい視線で私を見つめていることに気づく。


「あ、あの……」

「黙って」


 ギルは私の肩を抱き寄せ、顔を近づける。そのまま、私たちの唇はごく自然に触れあっていた。私は本を落とさないように胸にぎゅっと抱く。


 想いが通じ合って以来、彼はこうして、誰も見ていない隙に私に口づけをする。その度に、恥ずかしさや嬉しさが入り混じった気持ちが私を包み込む。彼の触れ合いは一度では終わらず、二度、三度も繰り返されることがある。いつかトクに見られてしまうんじゃないか……とちょっと不安になることもある。


 ――お父様とお母様も、こんな風に仲が良かったのかしら。


 最近、こんなことを考えることが増えてきた。

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