* 2 *


「彼の事を思い出すと、胸が痛くなったり、まるで風邪を引いたみたいに体が熱くなったり……私、変になってしまったんです!」

「ねえ、アンタそれって……」

「……なんか、真剣に心配して損したみたいね」

「え?」


 お姉様方はなんだかあきれ返っていた。その表情に、私は驚いてしまう。


「ど、どうしてそんな顔をされるんですか! 私は真剣に悩んでいるのに」

「だって、ねぇ……」


 蘭子お姉様は困ったように桜子お姉様を見た。桜子お姉様は大きなため息をついて、やれやれといったように首を振る。


「百合子、アンタが全く気付いていないようだから私が教えてあげる。……アンタ、あの中尉様の事を好きになってるのよ」

「……はい?」

「だから、恋をしている訳! 百合子が、あの方に!」

「驚いたわぁ。政略結婚とばかり思っていたけれど、百合子も案外そんな一面があったなんて」

「ま、嫌いな相手に嫁ぐよりはマシじゃないかしら?」

「そうね。結婚してから相手の事を知るよりは、先に好きになっていたほうがいいわね。私も少し安心できました」

「私も。急に相談したいことがあると言われた時は何事かと驚いたけれど……私たちにただの惚気話を聞かせたいだけみたいね」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 私が大きな声を出すと、二人は不思議そうな顔で私を見つめた。


「ど、どうしてそんな話になるんですか?! わ、私がギルの事、好きだななんて……!」

「あら、中尉様の事、そんな風に呼んでいるの? とても仲睦まじい様子で結構ね」

「蘭子お姉様、上げ足をとって来ないでください!」


 頬を膨らませて怒っているのに、二人はどこ吹く風、ニコニコと嬉しそうに笑っている。私がプイッと横を向いた時、桜子お姉様はついに声をあげて笑った。


「もう! ひどいです!」

「ごめんって。いや、ついに百合子もそんな事で悩む年頃になるんだなって」

「そうね、感慨深いわ。あの小さかった百合子が……そう言えば、あの時、中尉様に百合子の幼かった時の事をよく聞いてきたわね」

「その節は、碌でもない話ばかりしてくれたみたいですね」


 蘭子お姉様も桜子お姉様も、私の顔を見てほほ笑んでいる。その表情はいつもなら安心できるのに、今日は何だか憎らしい。


「でもあの方、楽しそうに聞いていらしたのよ」

「そうそう。柔らかい表情で耳を傾けていて。私もあの時、この人なら百合子を任せても大丈夫そうだと思ったし」

「私も。とても穏やかな方で、百合子にはぴったりと思いました。武仁も、たまには役に立つものです」


 そんな話を聞いているうちに、何だか恥ずかしくなってきた。彼の表情が、ありありと思い浮かぶ。でも、それを向けている相手が私にじゃなくてお姉様たちであるのが、何だか悔しい。蘭子お姉様の咳き込む音を聞きながら、私は心の中で次々と芽生える感情に向き合おうとしていた。


***


「……ゴホッ」

「あら、百合子さん、風邪でも召されまして? 授業中も咳こんでいたみたいですし……今日はもう帰りましょうか?」

「ん~……なんだか喉の調子が悪いみたい。でも心配しなくても大丈夫、ありがとう」


 ギルからは全く音沙汰がないままだった。私は京子さんに語学を教えながら、小さくため息をつく。私の心がここにあらずであるのは京子さんにはお見通しで、彼女は鉛筆を置いて「あの将校様のことでも考えているのですか?」とにっこり笑いながら私に聞いた。


「どうしてすぐにばれちゃうのかしら」

「だって、顔に書いてありますもの。『早くお会いしたい』って。その気持ち、私も良く分かります」


 京子さんも、婚約者を思い出したようで、ほぅと息を吐いた。今日は勉強に身が入らない日みたいだ。


「あなたたち、何をしているノ?」

「……うげ、スペンサー先生」


 うっとりと夢を見ているような表情だった京子さんは、思わぬ人物の登場により一気に現実に引き戻されていた。ミス・スペンサーが語学の授業を担当するとき、京子さんはおいてけぼりになってしまうらしい。無理もない、この人はとても早口で授業を進めていく。ハノーヴ語に慣れている私だって、時折聞き漏らすこともあるくらい。授業が終わったら私は京子さんに授業の内容を一から説明することとなった。授業について行けてないクラスメイトは他にもいるみたいなのに、ミス・スペンサーはその手を緩めることはない。


 京子さんはミス・スペンサーに対してすっかり苦手意識を植え付けられてしまったみたいで、彼女を見る京子さんの顔はとても渋いものを食べたようだ。


「何ヨ、その顔ハ」


 さすがにミス・スペンサーも気づいたらしく、ムッとしたように尋ねる。京子さんは「なにも!」と言いながらぷいっと横を向いた。


「そういえバ、京子。あなた、卒業したらハノーヴに渡ると聞いたけれど、本当なノ?」

「ど、どうして先生がそれを知ってるんですか?」

「他の先生から聞いたのヨ。京子は語学がてんでダメだから、よく教えてあげてっテ……ま、私の授業についてこられないようじゃ、あっちに渡ってもダメでしょうネ」

「……そうならないように、私が色々教えているんです」


 私が口を挟むと、ミス・スペンサーは不服そうに口を曲げた。


「……ふんっ! あなたたち、問題は言葉だけじゃないわヨ。テーブルマナーや社交界の礼儀も学ばないト。恥かくのはあなた達ヨ」


 大げさに胸を張るミス・スペンサーの言葉を聞いて、京子さんは、今度は憂鬱そうなため息をつく。


「私は今、マナーの先生に教えていただいているけれど、やっぱり国が変わると難しいわよね。百合子さんは?」

「私は卒業してからですって。お兄様が、専門の家庭教師を手配してくれるみたい」

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