7話 想いよ、届け

* 1 *

「百合子様、そんなしかめっ面ばかりしているとそのかわいらしいお顔が台無しですよ」

「……だって」

「中尉殿がお見えにならないから、寂しいのはわかりますけれど。しゃんと背筋を伸ばして、淑女らしくお過ごしくださいませ」


 トクが私の肩を持って背筋をぐっと直していく。私はまっすぐになった背筋のまま、外を眺めた。お母様の命日の集い以降、彼はとても忙しくなってしまったらしく、あれ以来、こちらには来ていない。お兄様のところにも連絡はないみたいだった。


 寂しい思いはさせないと言っていたのは彼自身だったのに、私は心の中でそう悪態をつく。私が全く動く気配を見せないので、トクはさらに語気を強める。


「暇なら、お勉強なさったらいかがですか? 桜子様から、ハノーヴ国のしきたりに関する本が送られてきたではありませんか。折角ですから、目を通してみるのはどうでしょうか?」

「……うん」

「もう、シャキッとなさってください。このところずっと上の空ではありませんか、百合子様らしくない」

「……うーん」


 トクはやれやれとため息をついて「気分転換に、お茶を淹れてまいりますね」と私の部屋から出ていった。仕方なく、私は机に向かい、桜子お姉様から贈られてきた、他国の礼儀作法について書かれている本をめくる。あれこれと難しそうなことばかり並んでいて、なんだかげんなりしてきた。こういうことは、ギルから直接教わればいい。私は本を閉じて、大きく息を吐いた。


 ギルの事を考えると、最近、どうも調子がおかしい。胸がざわついて痛くなり、くすぐったくなって……体中が熱くなっていく。手のひらには、あの日感じ取ったギルの胸の鼓動がありありと蘇る。恥ずかしくなって開いた手を閉じるけれど、それは中々消えない。


 そして私は、あの時、私の胸に宿った新しい感情を思い出す。それに、私はまだ名前を付けることができずにいた。京子さんに聞いてみようと思ったけれど、それを中々うまく言葉にすることが出来なさそうだったから、私は口を噤んだままにしていた。


 もっとこう……成熟した大人で、酸いも甘いも見極めた、私が信頼できる人はいないものか。お兄様に話をしても、あの人は面白がるだけだし……。


「百合子様、お紅茶を淹れてまいりましたよ。」

「トク! あのね……いや、違うわね」


 トクに相談しても、解決するとは到底思えなかった。


「人の顔を見て、勝手にがっかりしないでくださいませ!」


 トクが紅茶をカップに注ぎ入れる。ギルの贈り物である紅茶からは豊かな花の匂いが立ち上っている。カップに触れようとした瞬間、私の頭の中に、二人の人物が急に浮かんできた。


「……そうだ! ねえ、トク、お願いがあるの」

「私ができる範囲の事でございましたら、どうぞ」

「お姉様方に連絡を取って欲しいの!」

「蘭子様と桜子様ですか?」


 トクは不思議そうに首を傾げる。


「できるだけ早いうちがいいわ、そうね……明日の放課後、会いたいって私が言っているって伝えて頂戴」

「それは、あまりに急過ぎやしないでしょうか? お姉様たちのご予定もありますし」

「お願い! 緊急事態なの!」


***


「それで、私たちのワガママな妹よ。忙しい私たちの時間をさいてまで相談したい悩み事とは何なのかしら?」


 翌日、女学校の帰りに桜子お姉様のご自宅に向かった。桜子お姉様の嫁いだ先は、銀行などを経営する大財閥。旦那様はその後継ぎにあたる方だ。私が暮らす珊瑚樹宮邸よりも広い洋風のお屋敷に住んでいらっしゃる。たまに訪ねる機会はあるけれど、その度に客間がどこにあるのか分からなくなる。メイドに案内されてたどり着いた時、桜子お姉様だけではなく、すでに蘭子お姉様も着いていた。


「ご機嫌うるわしゅう、お姉様方」

「あら、女学校からそのまま来たのね。いつも思うのだけど、その制服可愛いわぁ。私も着たかったくらい」

「蘭子お姉様ときたら、のんきな事ばかりおっしゃって……」

「だって、桜子もそう思わない。……ゴホッ」


 蘭子お姉様が軽く咳をする。


「あら? 蘭子お姉様、風邪でも召されたの?」


 桜子お姉様は蘭子お姉様の背中を擦る。幸いなことに、その咳はすぐにおさまった様子だ。


「うーん、軽い風邪を引いたみたい。昨日湯冷めしてしまったから、それが原因かしら。気にしないで大丈夫よ。……それで、百合子。私たちに相談したいことって何なの?」


 いざ口を開こうとすると、緊張してしまう。私は喉を鳴らして意を決した。


「あの……カーター中尉殿のことなんです」


 私の言葉に、姉たちは前のめりになった。こんなに興味を持たれるなんて思わなくって、私は思わずしり込みしてしまう。


「この前お会いした方ね。とても感じの良い方でしたわ」

「武仁が百合子と異国の方を結婚させると言い出した時は驚いたけれど、ま、あの人なら特に異論はないわね。話をしてみたらいい人だったし」


 あの短い間で、お姉様方は随分と彼の事を気に入ったみたいだ。私の緊張がわずかに解れたような気がした。客間には慣れ親しんだ緑茶と羊羹が運ばれてくる、この立派な洋風のお屋敷にはそれがちょっぴり似合っていないような気がした。


「それで? あの中尉様がどうしたの?」

「……中尉殿と言うよりは、私が変なんです?」

「百合子が? どうしたの、どこか具合でも悪いの?」


 風邪を引いている自分を棚に上げて、蘭子お姉様が私を心配するように慌てて隣に座った。そして、優しく私の手を包み込む。


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