* 4 *

「そりゃそうよ、だって百合子が生まれるときですもん!」

「百合子が生まれた時、相当な難産でね……お父様ってば、心配のあまり血圧が上がってしまったのか急に倒れたのよね。あの時は大変だったわ」

「産婆さんに怒られていたな。余計な手間を増やすのはやめてくれって。あんな風にしょんぼりと肩を落とすお父様は初めて見たぞ」


 お兄様やお姉様方が楽しそうに話をしている。ふとギルを見上げると、彼はとても興味深そうにその話を聞いていた。


「……お父様、生まれたばかりの百合子を抱きながらお母様に謝っていたわね。ふがいない所を見せて申し訳ないって」


 蘭子お姉様の言葉に、お兄様も桜子お姉様も噴き出して笑っていた。


「あの時ばかりは、お母様の方が偉く見えたわね。確かに頼りなさげだったけれど、お母様、とても嬉しそうだったな」

「お母様、話していたぞ。あんなに慌てた姿のお父様、見たことがないって」


 私の知らない、お父様とお母様の話が続々と飛び出してくる。


 蘭子お姉様が産まれた時、お父様がいっぱいオモチャを買ってしまいお母様に怒られたこと。たくさんあるオモチャのせいで、桜子お姉様もお兄様も新しいオモチャはあまり買ってもらえなかったこと。


 姉弟みんなを高い高いしたあと、突然お母様を持ち上げようとしたお父様がぎっくり腰になってしまったこと。


 お母様がみんなにお菓子を作って振舞おうとするたびに、みんなが反対したこと。私は知らなかったけれど、お母様は不器用でいつも失敗したり怪我をしてしまうらしい。お父様が一番心配していた、と。


そんな私の知らない出来事を聞いているうちに、私の心がじんわりと温かくなっていくのが分かった。目を閉じると、その時の光景が頭に思い浮かぶ。お母様にもお父様にも、会うことが出来なくても……いつも傍にいてくれている。私は、そんな気がしていた。


 みんな話すのに夢中になって、藤棚の下が暑くなっていく。涼しい空気を吸いたくなった私はそこから抜け出して、少し行った先にある高台に向かった。

 

 瑞々しい風が吹き抜けていく。深呼吸をすると、いろんな花の香りが胸いっぱいに満ちていった。


「一人でどこに行ったのかと思いましたよ、リリィ」


 その呼びかけに振り返ると、ギルが少し焦ったような表情をして追いかけてきていた。


「少し熱くなってしまったから、気分転換です」

「ならば、一言何か残していってもらわないと」

「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ」


 私が微笑みかけると、ようやっと彼の体全体から力が抜けていったような気がした。


「そういえば、どんな話をされていたんですか?」


 彼にそう尋ねると、ギルは「え?」と首を傾げる。


「だから、付いて早々お姉様方に捕まっていたでしょう? どんな話をしてたのかなって……きっとろくでもないことを吹き込まれたのだと思いますけど」

「ろくでもないことって……お姉さん方には、あなたの小さかったころのお話を聞かせていただいたんですよ」

「ほら、やっぱり。私にとっては、十分ろくでもないことです」


 私がぷいと顔を背けると、ギルは声を出して笑った。


「とても興味深かったですよ。雷の晩には必ずと言っていいほど蘭子さんの寝室にやって来て一緒に寝たとか、女学校に通うようになったはいいけれど友達が出来なくて帰ってくるたびに泣いていたとか……」

「もう! やめてください、恥ずかしい!」

「……お母様が亡くなったばかりの頃、死という概念が分からなくて、毎晩『お母様に会いたい』と言って泣いてお姉様たちを困らせてしまっていた、とか」


 恥ずかしさのあまり顔を隠すように両手で覆う。耳元には、ギルがかすかに笑う声が聞こえてきた。


「寂しかったですか?」

「……え?」

「お父様が皇帝に、お兄様が皇太子になりそれぞれあの家を離れて行って……お姉様方も結婚してしまい、まだ幼い貴女は一人きりになってしまった。あの広い珊瑚樹宮邸に。当時の貴女の事を思うと、胸がつぶれるような痛みを覚えます」


 ギルは、自らの胸に手を当てる。私はそっと、湿った風に乗せるように呟いた。


「寂しくなかったと言えば、嘘になります。私はお母様が亡くなった後、立て続けに家族が離れて行ってしまって。当たり前に家族と共に暮らす女学校の同級生たちが羨ましくて仕方がない時もありました。……でも、ある時からそんな事を感じることもなくなっていったんですよ」


 ギルが首を傾げた。そのどこか不安そうな目を見つめながら、私は微笑んだ。


「だって、あなたがいてくれたじゃないですか。私がどんなに悪態をついても、懲りることなく傍にいてくれた。ギルがいろんな話をしてくれたり、私の話を聞いてくれたりしているうちに、そんなもの、どこかにいってしまいました。……私が今寂しいと思わないのは、ギルのおかげなんですよ」


 彼の澄んだ瞳が、滲んだように見えた。私は途端に恥ずかしくなって、顔をそむけた。でも、横顔には彼の視線を感じる。


「……だから、私はもう大丈夫です。それに、もう幼かったころとは違いますしね、誰かさんと結婚を考える年になったんですから」


 小さく笑うと、深いため息が聞こえた。とっさに顔をあげると、目元を赤く染めたギルと目が合う。


「……貴方という人は、本当に」

 

 彼が小さく、そう囁くのが聞こえた。どういう事だろうと口を開こうとした瞬間、彼が私の左手を取って、自身の胸に押し当てた。


 まるで時計の秒針のような、忙しない心臓の音が伝わってくる。手を引こうとしても、彼の力が強すぎて離れられそうにない。見上げると、熱っぽい目で私を見つめているギルと目が合った。

 

 そんな目で見つめられてしまうと、私の胸もまるで痛むくらい疼く。けれど、そこから視線を逸らすことが出来なくなってしまっていた。


 ギルが、一歩近づく。ふっと手の力が抜けたと思ったら、その腕は、今度は私の背中に回る。


 そっと、まるで体温を分けるかのように……気づいた時には私は彼に包み込まれていた。つむじのあたりに、彼の吐息が触れる。それがくすぐったいのに、どこかで心地よさを感じていた。

 

 近くから聞こえる、彼の心臓の音。でも、私のそれは彼よりも早く脈打っていた。ぎゅっと、彼の腕に力がこもる。私は、幾度か彼に抱きしめられた時の事を思い出す。けれど、これは以前までの抱擁とは少し違うような気がした。彼の体温を感じ取るたびに、私の中で、今までなかった何かが生まれていくような……。

 

「これから先もずっと、私は貴女に寂しい思いはさせません」


 もう少しで、私の中に生まれた【何か】に名前を付けることができそうだったのに、ギルの体が離れていった。名残惜しくなった私がそっと左手を伸ばすと、彼は両手で私の手を包み込む。


「……信じますよ、私。あなたの言葉は、すべて」

「もちろん、信じてください。私は絶対にリリィに嘘はつきませんから……ここで、誓わせてください」


 花の香りがする風が私たち包んだ。まるで、外から遠ざかるように、私は彼と二人きりの世界に足を踏み入れていく。


「貴女の事は、絶対に幸せにします。これから先、寂しくなんてさせません。……だから、この私め一緒になっていただけないでしょうか?」

「……ギル?」

「昂るこの気持ちを、もう押さえつけることはできません。どうか、私と結婚すると……その口からお聞かせください」


 私は彼を見つめながら、口を開く。その瞬間、遠くから私たちを呼ぶお兄様の声が聞こえた。私とギル、二人の肩がびくりと震えた。


「おーい! ……何やっているんだ、二人でって――悪い、邪魔した」

「あの、いえ! これはそういう事では……!」

「こっちはもうお開きにしようという話をしていただけなんだ。ま、こちらの事は気にせず二人で続きをしていてくれ」

「いえ、お気遣いただかなくても問題ございません、殿下」


 私が驚きのあまり彼の見つめると、ギルは軽快に片目を閉じた。


「こういう大事な話は、正真正銘二人きりのときに、ね」


 ギルは私に向かって手を差し伸べる。私はその手をぎゅっと握って、深く頷いた。

 

 その日が来るのは楽しみだけれど……私の中にはそれと一緒に、不安が渦巻いていく。


 あの名前を付けることができなかった感情は、今では私の頭いっぱいに広がっている。ギルの事を考えると、ふわふわと宙に浮いたような気持になる。手が触れ合っていることが恥ずかしいのに、それを離したくはない。


(……もしかして、私、変になってしまったのかしら)


 ぶんぶんと頭を振ると、ギルもお兄様も心配したのか私の顔を覗き込んできた。私は「大丈夫です」と胸を張って、今日の出来事を頭に刻み込む様に振り返っていた。

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