* 2 *

「お久しぶりです! お元気でしたか?」


 私がそう呼びかけながら近づくと、桜子お姉様はちょっとだけ怒っているようにも見えた。


「遅いわよ、百合子! どうして一番近いところに住んでいるあなたが遅刻なの!」

「そう怒るんじゃありません、桜子。百合子には百合子なりの事情があるんですから。さ、百合子、そちらの方を私たちに紹介してくださる?」


 怒っている桜子お姉様から助け船を出すように、蘭子お姉様がそっと声をかけてくれる。私の隣で、彼が背筋を伸ばした。


「はい。こちら、進駐軍のギルバート・カーター中尉です。普段は、私にハノーヴ語を教えてくださっています」

「……あなたがそうなのですね。百合子がいつもお世話になっております。私は長姉の蘭子と申します」

「私は桜子です。百合子はわがままで大変ではありませんか?」

「い、いいえ。そんなことはありませんよ。とても真面目で飲み込みも早くて、教える事なんて何もないくらいです」


 ギルに褒められて鼻が高くなる私を見て、蘭子お姉様は顔を綻ばせた。お姉様も、なんだか緊張していたみたいだった。


「皆様、お茶のご用意ができましたよ」

「そんな所にいないで、こっちでゆっくり話せばいいだろう。時間はたくさんあるんだから」


 藤棚の下では、多恵子お姉様がお茶の準備をしていた。お兄様ときたら、すっかりくつろいでいる。私たちは垂れ下がった藤の葉を掻き分けて、涼台に座る。涼台にはござが敷かれていて、着物が汚れる心配はなかった。


ギルは姉たちに挟まれるように座る様に促されていた。少し困惑しながらも、彼はお姉様方の間に腰を掛けた。少し……いや、大分緊張している様子で彼が少し小さく見える。私が少し噴き出すように笑うと、顔をあげたギルと目が合った。助けを求めているようにも見えなくはない。


「なんだ、ギルバート殿はいつも通りじゃないか」

 

 湯呑を片手に、お兄様と多恵子お姉様が近づいてきた。私は多恵子お姉様から湯呑を受け取り、一口飲んだ。


「そうでしょうか? 緊張しているようにも見えますが」

「ま、詮索好きの姉様方に囲まれたら誰だって緊張するだろ。俺だって、先ほど多恵子との事を根掘り葉掘り聞かれて冷汗をかいたぞ。……って、そういう話ではなくて」


 お兄様は私の腕を掴み、藤棚の外に連れていく。多恵子お姉様も、ニコニコと笑いながらついてきた。


「様子が変と言っていただろう? お前は。でもいつもと変わらないように見えるという話だよ」

「殿下はギルバート様のことをからかってやるなんておっしゃっていて、それはそれは楽しみにしていらっしゃったんですよ」

「もう! お兄様ってばすぐそうやって面白がることしか考えていないんだから。それに、何をからかうって言うんですか! 私は真剣に悩んでいるのに……」


 お兄様と多恵子お姉様は驚いた様子で顔を見合わせる。そして、多恵子お姉様が噴き出したと思ったら、お兄様が大きな声で笑い始めた。


「まさかとは思うが、お前はまだ気づいていないのか?」

「何だって言うんですか? 心当たりがあるなら教えてくださいって前も言って……」


 私の言葉にかぶさるように、お兄様はとんでもない事を言ってのけた。


「あの人はお前に惚れたんだよ」

「……え?」


 思いがけない言葉に、思わず口があんぐりと大きく開いてしまう。お兄様は呆れかえる様に大きなため息をついていた。


「普通に考えたらわかるだろう? いっぱしの男が、特定の女の前でだけ様子が変になるなんて。そういうのは十中八九色恋沙汰だと相場が決まっているんだ」

「で、で、でも、そうと決まったわけでは……!」

「ギルバート様、今は普通でも百合子様と一緒にいる時は様子が違うんですよね? 殿方と言うのはそういうものですよ。……皇太子殿下も、こう見えて二人きりの時は甘えん坊なんですよ」

「お前だってそうだろう、多恵子」

「もう! お二人が仲睦まじいのはよく分かりましたから! でも、急にそんな事を言われても困ります。か、彼が私に、ほ、惚れただなんて……」

「まあなんにせよ、惚れた腫れたは早い方がいい。お前だって、ギルバート殿に望まれて嫁いだ方が安心だろう。少なくとも、政略的な結婚ではなくなる」


 私は言葉を詰まらせる。兄は自信たっぷりに笑っていた。


「ねぇー、武仁に百合子、あと多恵子さん! 何こそこそ話をしてるのよ!」


 桜子お姉様が私たちを呼ぶ声が聞こえた。お姉様の影から間を縫うように、ギルがこちらを見ていることに気づいた。目が合ったけれど、とっさに伏せてしまった。お兄様が変な事を言うから、妙に意識してしまう。


「わかった、そっちに行くよ!」


 お兄様は藤棚の下に戻っていく。私は何だか歩くのがぎこちなくなってしまって、多恵子お姉様に背中を押してもらわないと前に進むことができなかった。


「百合子はいつ中尉様に嫁ぐのかしら? 私たちも色々用意をしないと……」


 私の心臓がドキッと大きく跳ねた。蘭子お姉様は頬に手を当て、そんな事を言いながら首を傾げている。その横で桜子お姉様も何度も頷いていた。


「あぁ、そのことですか。百合子が女学校を卒業した来年の春に、正式に婚約を発表する予定になっています。ただ、そこからが大変で……百合子にはあちらの国の仕来りや礼儀を叩きこまないと。正式に結婚するのは、まあその翌年以降かなという感じですね」

「あの、私、それ初めて聞いたのですが……」

 

 ギルを見ると「私もです」とぎこちなく笑いながら頷いた。


「俺だって色々考えているんだ。何よりも、ハノーヴ国との国交正常化、そこまで至らなくても、まず両国の親交を深めていく必要がある。この問題は、一朝一夕では進まないだろう? その時間を使って百合子をどこに出しても恥ずかしくないくらい立派なレディに成長させる必要があるんだよ」

「でも、今でも十分なくらいですよ」


 ギルがそっと口を開く。皆一斉に彼を見た。

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