* 2 *

 廊下から、コツコツという靴音が聞こえてくる。どうやら、噂をしている新任の教師が近づいてきているらしい。京子さんも含めて、皆大慌てで自分の席に戻っていく。緊張感が教室中を包み、引き戸が開いた瞬間、それは最高潮に達した。


「……あ」


 ひらりとなびく金色の髪、真っ赤なワンピース、すらりと高い鼻筋。その全てに、私は見覚えがあった。【彼女】も私を見て、自信たっぷりに口角をあげた。


「初めましテ、モニカ・スペンサーでス。父の仕事の都合でこの国に来ましたが、このハイスクールの校長先生にどうしてもとお願いされて皆さんの先生になることになりましタ。どうぞよろしくネ」


 目の前にいるのは、ギルが【モニカ】と、とても親し気に呼んでいたあの女性だった。堂々とした振る舞いと美しい見目に目を奪われている子が多いけれど、私は彼女をじっと睨んでいた。あの時、彼女がしていたのと同じように。


「そう言えば……このクラスには、進駐軍の中尉から直々にハノーヴ語を教わっている生徒がいるそうネ。誰かしら?」


 わざとらしいねっとりした言い方だ。私はむっと唇を曲げる。同級生が皆、私の方を見た。京子さんの方を見ると、ハラハラした様子で見つめている。ミス・スペンサーも、私を睨む様にじっと見ていた。私は深くため息をついてから、小さく手をあげて答える。


「私です」


 彼女はにんまりと口角をあげる。


「あなたの事は、さっき校長先生から話を聞いたワ。くれぐれも丁重に扱うようにってネ、皇女か何か知らないけど、私は皆平等に扱うカラ」


 そう言って、彼女は名簿を確認する。私の名前を確認しているみたいで、視線がピタリと一点で止まった。そして、小声で、素早くこうつぶやくのだ。


『……何て読むのよ、コレ』


 ハノーヴ語のつぶやきは素早すぎて、誰も聞き取ることができなかったみたいだ――私以外は。


『珊瑚樹宮 百合子と申します。呼びにくいのであれば、そのまま【百合子】と呼んでいただいても構いませんわ。ミス・スペンサー』


 私は口を開く、飛び出してきたのはハノーヴ語だった。ミス・スペンサーはぎょっと驚き、目を丸めた。


 教室の中も、一瞬だけ驚きのあまりどよめいた。クラスメイトはみんなハラハラして、私とミス・スペンサーを交互に見つめている。たとえ私たちが何を話しているか分からなくても、この一触即発の雰囲気だけは伝わったのかもしれない。ミス・スペンサーはギリギリと歯ぎしりをしていた。


『想像していた以上に、話すことができるのね。【ユリコ】は』

『えぇ。家庭教師の腕がいいですから。こうやって、あなたと話すのに困らないくらいには』


 言い返すと、さらにギリギリと歯ぎしりの音が大きくなっていく。彼女の怒りと、私に対する負の感情が強くなっていくのが分かった。それはクラスメイトも同じらしく、彼女たちの不安や恐怖心が体中にびりびりと刺さってくる。私は大きく息を吐き、こう続ける。


『私の事はもうよろしいのでは? 早く授業を始めていただけないかしら? ね、先生?』


 そう促すと、ミス・スペンサーはフンッと鼻を鳴らして、持ってきていた教科書をパラパラと開き始めた。でも、教室中に広がる違和感はずっと残り続けていた。


「百合子さん! すごい!」


 授業が終わり、ミス・スペンサーが足を踏み鳴らして教室を出ていった直後、京子さんがばたばたと騒々しく近寄ってきた。

 教室の雰囲気も、さっきまでのトゲトゲしたものとは打って変わって、皆安堵し、胸を撫でおろしている。


「でも、百合子さんがあんなにぺらぺらお話できるなんて……私、スカッとしちゃった」


 溜飲が下がったのか、京子さんの頬は少し赤くなっていて、とても晴れ晴れとしていた。


「私もです! さすがは皇女殿下ですわ」


 先ほどまで私とミス・スペンサーのやりとりをハラハラと認めていた隣の席の子も、珍しく私に声をかけてくる。それを皮切りに、私のことを取り囲むように、クラスメイトがじわじわと集まり始めていた。


「私なんか、ざまぁ見ろって思っちゃった!」

「あら、言葉遣いが悪いわよ。でも、私もすっきりしましたわ。だってあの方、失礼なんですもの」


 口々に褒められるのが恥ずかしくなって、私は席を立って教室を飛び出した。私の後を追ったのは京子さんだけだった。


「ねぇ、百合子さん。もしかして、あの先生が将校さまの【元婚約者】という人なの?」


 京子さんは誰にも聞かれないような小声でそっと私に尋ねるので、私は小さく頷いた。京子さんは「やっぱり」と深く息を吐いた。


「私も、あの無礼な態度にはとても腹が立ちました。……そりゃ、何を言っているか分からなかったけれど、あの人の様子を見ていたら、百合子さんにどんなひどい事を言っていたのか分かります! 皆と同じように学校に通っているとはいえ、百合子さんはこの国の皇女様です。それを、一方的な私情であんな風につるし上げようとするなんて! 私、学校に苦情を入れるようにお父様にお願いしますわ!」

「ううん、大丈夫よ。そこまでしなくても」

「でも! やられっぱなしなのを見ているわけには……」

「これは、私と彼と、彼女の問題ですから。……ちゃんと話をして、決着を付けてきます」


 京子さんを見つめて笑みを作ると、京子さんもぎこちなく笑ってくれる。感情を昂らせるくらい私に親身になってくれたという事実が嬉しくて、じんわりと胸にしみてくる。


「それに、京子さん、とてもいいことを教えてくれたわ」

「え? わ、私がですか?」

「そう。『まずは敵の事を良く知らないと』って。彼女の事を知るために、まずは情報収集しないと。だから、私、帰りに進駐軍本部に行ってきます」

「それって、もしかして……」

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