* 5 *


 彼は運ばれてきた紅茶を一口飲む。私もまだわずかに震える手でティーカップを持ち、そっと紅茶を飲んだ。彼が持ってきてくれる茶葉の方がいい香りがするような気がした。


***


 日が暮れ始めた頃、私たちは喫茶店を後にした。仕事を終えた人々が増え、街の中の喧騒が徐々に大きくなっていく。ここでは異国人である彼が歩いていても恐れられることはなかった。進駐軍の職員も闊歩しているから、慣れてしまった人の方が多いのだろう。いつか、この国中で、異国人が歩いていても誰も恐怖を覚えるようなことがなくなればいい。私は赤い夕陽を見ながら、そんな事が考えていた。


「楽しかったですか? リリィは」

「……思っていたよりも。でも、今度からはどこに行くか先に教えてください。あと、学校に迎えに来るのは禁止です」

「おや? 『今度』を期待してもいいんですね」


 墓穴を掘った。私はプイッと横を向いて「勝手になさってください」と呟く。彼はそんな私を見て、声をあげて笑った。


「どうぞ、皇女殿下。この時間帯は人が多い、はぐれたら危ないですからね」


 彼は腕を差し出す。私は当然のようにそれに腕を回す。通り過ぎていく誰かがちらりと、不思議そうに私を見た。傍から見たら奇妙な光景だろう、異国人と、陽本国の少女の組み合わせ。それでも、彼の横顔を見上げる私にとっては自然な光景になっていた。


「リリィが展示品を気に入ってくださったみたいだと、女王陛下にすぐにお伝えしなければ。喜びますよ」

「思ったのだけど、中尉殿は……」

「『中尉殿』ではなくて、『ギル』ですよ。リリィ、気を付けて」

「……ギルは、は女王陛下にそう簡単にお会いできたり、連絡を取れる立場なのですか?」

「戦後の叙勲と、進駐軍の任官の時にお会いしたきりですよ。親しくしている大使館職員が今度国に戻るそうなので、その時伝えていただきます」

「ハノーヴ国の繊細な技術に感銘を受けました、とお伝えしてください。あと、いつかお会いできる日を楽しみにしております、とも」

「わかりました。とても喜びますよ、女王陛下も」


 そんな話をしながら、車を停めていた美術館の駐車場に向かう。彼……ギルが車の鍵を探すと言って、私から腕を離していく。ポケットの中に入れたはずなのに、と少し戸惑っている。私はその様子を、少し離れて見守っていた。


(……鍵、見つからなかったらもう少しこうしていられるのに)


 そんな事を考えながら。


 私の頬を掠めるように、夕昏時の温い風が吹き込んでくる。その中に、ふわっと花のような甘い香りが混じっていることに気づいた。どこかに花でも咲いているのかしら、そう思いながら私は振り返る。


 しかし、そこにあったのは花畑ではなく……こちらを睨む、異国の女性の姿だけだった。真っ赤なワンピースに身を包み、風が吹くたびに裾がはためいている。見ただけで仕立てのいい洋服であるのが分かった。きっと良家のご息女に違いない。そんな彼女が、こんな極東の国にいるなんて不思議で仕方ない。


「……」


 私が彼女の事を見つめていると、彼女の視線は鋭くなる。まるで綺麗に研いだ包丁のようだ。怖くなった私は、ギルの元に近寄る。


「リリィ? どうかしました?」

「あ、あの方がこちらを……」


 まだ鍵を探しているギルも、私が見ている方へ顔をあげる。そして、今まで見たことないくらい、まるで顎が外れてしまいそうになるくらい大きく口を開けた。


「モ、モニカ?! どうしてこんなところに……!」

「彼女と知り合いなのですか?」

「えぇ、以前世話になった外交官の娘で……」


 驚き慌てふためく彼の元に、女性はツカツカと早足で歩み寄ってくる。そしてハンドバッグを持った手を大きく振りかざして……。


『サイッテーー!』


 すさまじい勢いで、ギルの横っ面に叩きつけていく。ギルは体勢を崩しながらも、とっさに私の腕を掴み、彼女から見えないように背後に隠した。


『この私を置いてこんな辺鄙な国に……! それに、何よそのちんちくりん! 子どもじゃない、ギルはこんなガキが好きだったの!?』

『あまり失礼なことは言うんじゃない、この方はこの国の皇女殿下であらせられる! お前こそ、どうしてここに?!』


 二人が会話に使っている言語は、ハノーヴ語だった。あまりに早口すぎて上手く聞き取ることができなかったけれど、【ちんちくりん】とか【ガキ】とか、罵られていることだけは分かった。


『ああ、その娘がそうなのね。お父様がこちらに赴任すると聞いて、付いてきたのよ。この私を置いていった元婚約者の顔を見たくなってね。……そんなガキが好きなんて知らなかったわ、だからこんなに美しい私を捨てていったのね』

『だから、その話は断ったはずだ』

「あの、今『婚約者』って言いましたか?」


 殴られたギルの頬は赤くなっているのに、それ以外はサッと青ざめていくのが分かった。


「ふーん、そうですか。あんな綺麗な人とお付き合いしていたのですね、ギルは」

「いえ、違います! 誤解ですリリィ、モニカの勘違いです」


 慌てる様子のギルを見て、モニカと呼ばれる女性は鼻でせせら笑った。


「勘違い、ネェ……」


 飛び出してきた言語はこちらの国の物だった。


「お前、いつの間に……」

「そんなの、今のギルバートには関係ないワ。いい、そこのちびっコ!」


 彼女は私に向かって真っすぐ指をさした。


「皇女サマだろうが何だろうが、私……あなたに負けるつもりはないかラ!」

「えっと、あの……どういう事でしょうか?」

「ギルは、絶対に絶対に、あんたになんか渡さないんだかラ!」

 

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