* 4 *


「少し、休憩しませんか? リリィ」


 彼は話をはぐらかすようにそう促す。その優しさに寄り掛かるように、私は頷いた。


 中尉殿と共に向かったのは、美術館の近くにある喫茶店だった。近くに大使館があるのか、他の客は異国の方ばかりだった。


「リリィ、緊張しすぎですよ」

「だ、だって……」


 私たちは目立たないよう、店の奥まったところにある席に着いた。観葉植物が、ハノーヴ人と女学校の制服を着た陽本人の少女という変わった組み合わせの私たちの姿を隠してくれる。しかし、私の体はまるで石みたいに固まってしまっている。


「こういうところに来るのは生まれて初めてですので。……あの、私どうしたらいいのでしょうか!?」

「落ち着いてください。メニューをどうぞ、この中から頼みたい物を選ぶんです」


 中尉殿は私にメニューと書かれた二つ折りの紙を差し出す。そこにはハノーヴ語で、色々な飲み物の名前が書かれていた。普段ならばスラスラ読めるのに、緊張した今はミミズが踊ったような文字に見える。私は深呼吸をして、じっと食い入るようにそれを見つめた。ふと顔をあげると、ニコリとまるで小さな子どもを見つめるように微笑んでいる中尉殿を目が合う。


「どうしてじろじろ見るんですか?」

「いいえ、特に意味は。私が見ていたいだけです」

「もうっ! 変な事はおっしゃらないでください」


 私は頬を膨らませながら、もう一度メニューを見る。少しだけ緊張がほぐれたのか、先ほどよりも文字が読めるようになっていた。


「紅茶をいただけますか?」

「はい、承知いたしました」


 彼は片手をあげて給仕を呼ぶ。彼も同じように紅茶にしたようだ、手慣れた様子で注文していく。


「ずいぶんと慣れていらっしゃるんですね、こういうところに」

「まあ、それなりに来ていますからね。リリィは紅茶だけでよろしかったですか? 他にも軽食やデザートもあったのですが」

「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」


 少しずつ、私はいつもの調子を取り戻していく。ふと改めて店内を眺めると、そこら中で異国の言葉が使われている。……まるで、異国に来てしまったみたいだった。


「私、やっていけるのかしら」


 ふと感じた不安が、喉から溢れ出してしまった。とっさに口元を手で隠すけれど、中尉殿の耳には届いてしまったみたいだ。驚いた様子で目を大きく丸めている。


「やっぱり不安ですか?」


 彼の声音はとても優しかった。それに嘘をつくことも出来ず、私は小さく頷く。


「行ったところもない国ですから、やはり未知な部分も多いです。それに、ハノーヴ国にとって私の国は……」

「大丈夫ですよ、リリィ」


 彼は手を伸ばして、私の手を取った。そして、大きな手のひらで包み込む。


「不安な事があれば、私に打ち明けてください。分からないことがあれば、私に聞いて下さい……リリィの婚約者であるのと同時に、私は貴女の家庭教師ですからね。今の私の使命は、貴女に色んな事を教えてあげることですから」

「……ありがとうございます、カーター中尉殿。それを聞いて安心しました」


 私がぎこちなく微笑むと、彼は何か疑問に思った事でもあるのか唸りながら首を傾げる。


「何かございましたか?」

「いえ。いい加減、その『カーター中尉殿』という堅苦しい呼び方はやめませんか?」

「……はい?」

「ほら、多恵子さんだって、皇太子殿下と二人きりの時は親し気に名前で呼んでいるじゃないですか」

「わ、私もあなたの事を名前で呼べと言うことですか?!」


 私の声が喫茶店の中に響き渡る。周囲の注目を浴びてしまい、恥ずかしくなって椅子に座ったまま小さくなる。中尉殿はそんな私を見て、これまた大きな声で笑っていた。


「笑いすぎです!」

「リリィが焦りすぎなんですよ。どうってことないじゃないですか、名前で呼ぶだけですよ? リリィだってお友達の事は普通に呼んでいるでしょう? キョウコさんでしたっけ?」

「それは、彼女は友人ですけれど、あなたは……」


 私が口ごもると、彼は微笑みながらまっすぐ私を見つめた。


「【婚約者】だから、少し違う?」

「……そう、です」


 いざ彼の事を名前で呼ぶ自分の事を想像すると、恥ずかしくて顔から火が出る思いだ。そんな私の事も露知らず、彼は諦めていないようだった。


「私の親しい人たちは、私の事を『ギル』って呼ぶんです。名前がギルバートだから、それを縮めた呼び方です」

「……そうですか」

「リリィもそう呼んでくださいませんか? ほら、私の後に続いて、『ギル』って」


 爛々と輝く瞳で見つめられると、私に拒むことはできなかった。緊張のあまり震える唇で、私は同じ言葉を繰り返す。


「……ギル」

「ちゃんと呼べましたね、いい子だ」


 彼の大きな手のひらが、私の頭をそっと撫でる。みるみる赤くなっていく私を見て、彼は小さく笑った。


「……そうやって、子ども扱いなさらないでください」

「そうですね。貴女は立派なレディだ」

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