* 2 *


***


「ねえ、京子さん。聞きたいことがあるの、いいかしら?」

「えぇ、百合子さんが私に聞きたい事なんて珍しいですね!」


 京子さんは私が貸していたハノーヴ語の絵本から顔をあげる。中尉殿が迎えに来るまで、私はいつも通り京子さんに語学を教えていた。基本的な文法を叩きこんだ頃から、私は京子さんに絵本を貸すようにしていた(これも、中尉殿から私への贈り物だったりする)。簡単な文法で書かれた優しい物語は京子さんに合っていたようで、最近は見違えるほど【読むこと】については上達していた。……会話はまだまだ苦手な様子だけれど。


「京子さんは……婚約者の方と、デ、デートってしたりするのかしら?」

「デートですか? しますよ?」


 何を当たり前の事を言っているだろう、と京子さんは首をきょとんと傾げる。


「どうしたんですか? 急にそんなことを聞くなんて……まさか、百合子さん! あの方と!?」


 私が昨日の事を京子さんに話すと、京子さんは耳をつんざくような甲高い声をあげた。私がげんなりとしているのをよそに、京子さんは楽しそうな歓声を上げていた。


「それで、デートってどんなことをしてるんですか? 後学のためにお聞きしたくて」


 京子さんは婚約者の事を思い出したのか、顔を赤らめてうっとりと話し始める。


「そんなに変わったことはしてないですよぉ。二人で映画を見たり、喫茶店でおしゃべりしたり、百貨店に買い物をしたり。この前は洋服を作っていただきました。彼に生地から選んでいただいて……」

「そんな感じなのですね。……私は異性の方と出かけるのは初めてなので、どうしたらいいのか全く分からなくて」


 そもそも、街を出歩くなんてことはめったにしない。それが少し怖かったりもする。


「いつも通りの姿で、お互いが楽しんでいるならばそれでいいんですよ。百合子さんは肩に力が入り過ぎです!」


 京子さんはふんわりとほほ笑む。その笑みに背中を押され、ほんの少しだけ自身がつく。


「お二人はどこに行くのですか?」

「それが、わからないんです。あの人は連れていきたいところがあるとはおっしゃってましたけれど」


 二人で「どこに行くのだろう」と首を傾げていると、どこからか黄色い叫び声が聞こえてきた。以前にも聞いたことのある歓声だった。私と京子さんは顔を見合わせてから、二人で窓に向かった。


「あら、いつもの軍服姿もいいですけど、今日は一段とすてきですね」


 窓の向こうを見つめながらあんぐりと口を開いている私の横で、京子さんはそんなのんきな事を呟いていた。


 校門のあたりにいるのは、間違いなく中尉殿だった。


しかし、その出で立ちはいつもと全く違う。いつもはきっちりと着こなしている軍服ではなく、真っ白なシャツと淡い青色のジーンズ姿。車も、進駐軍の真っ黒なものではなくて、深い緑色の小さな車。彼は私が見ていることに気づいたのか、軽く手をあげてほほ笑んだ。周りからは、漏れるようなため息と小さな歓声のようなものが聞こえてくる。


 どこか華やいでいる彼の表情とは裏腹に、どんどん顔色が悪くなっていく私。その背中には冷汗ばかりが流れていた。頭の中には【ある不安】が駆け巡っていく。


「ね、京子さん! 私こんな格好だけど大丈夫かしら」


 私は制服のスカートをつまんで広げる。この学校の制服は濃い紺色のセーラー服。それを清楚だと言ってほめたたえる人は多いけれど、まるで映画の世界から飛び出してきたような彼の横に並ぶには、あまりにも地味すぎるし、悪目立ちするに違いない。


「だ、大丈夫です! ……たぶん」


 京子さんの返事も、なんだか自信がないようだった。窓の向こうでは、いつまで経っても降りてこない私を不思議に思ったのか、中尉殿が首を傾げているのが見えた。


「やっぱり一度帰って着替えてきます。……迎えの車を呼ばなきゃ」


 肩を落とし、私は電話を借りるために職員室に向かおうとする。しかし、京子さんが私の腕を強く掴んだ。


「でも、待ってらっしゃいますよ! 着替えている時間なんてもったいないですよ! ほら、行きましょう!」

「ま、待って! 心の準備が!」


 私のカバンを持った京子さんに無理やり背中を押されて、私は玄関まで無理やり連れていかれる。たどり着いた時、彼も丁度玄関にやってきたところだった。


「良かった。中々降りていらっしゃらないから、どうしたのかと思いました」

「えっと、あの……」


 戸惑っている私を見て、後ろにいる京子さんが噴き出すように笑いだした。


「ねえ! 何で笑うのよ!」

「だって、百合子さんが何だか可愛らしくて。皇女様と言えど、女の子らしいところがあると言うか……あ、私がこんな所にいたらお邪魔ですね。それでは、ごきげんよう。明日、感想を聞かせてくださいね」


 持っていたカバンを私に押し付けて、彼女は早足で玄関を出て行ってしまった。取り残された私はカバンの取っ手を握ってぎゅっと俯く。どうしようか考えあぐねていると、大きな手が視界に入ってきた。


「行きましょうか、リリィ」


 私の手から、彼がカバンを奪うように取ってしまう。顔をあげると、いつもみたいに……いや、いつも以上に輝いて見える彼と目が合った。


「あの、一度帰していただけないでしょうか?」

「ん? どうしてですか?」

「やはり、この格好で外を出歩くのはやっぱり変かと……」


 紺色のセーラー服に、同じく紺色のスカート。胸元のリボンだけが真っ白だけど、彼の隣に立つとやっぱり変だ。せめて、それなりの格好に着替えたい。


「なんだ、そんな事ですか」


 彼の手が、私の強張った肩に回り、そのまま私の体を引き寄せて隣に立つ。びくりと背筋を震わせると、中尉殿は噴き出すように笑った。


「とても緊張していらっしゃいますね、リリィ」

「笑わないでください!」

「とてもお似合いですよ、その制服。自信を持って」

「でも……」

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