* 4 *


「リリィは雷が苦手だったのですね。雷がおさまるまで、こうしていましょうか」


 くすり、と笑うような吐息が耳をくすぐった。それが恥ずかしくて離れたいのに、彼はそうはさせてくれない。彼はそのままゆっくりと腰を下ろすので、私も自然に座り込む形になる。私の体は、彼の脚の間にすっぽりと納まった。


「……わ、悪いですか? 雷なんかが怖くて、子どもっぽいって幻滅しましたか!?」

「いいえ。これで、また貴女の事を知ることができた。嬉しいんですよ、私は」


 中尉殿は、まるで子供をあやすみたいに私の背中を撫でる。悔しいけれど、雷への恐怖はあっという間にどこかに飛んで行ってしまっていた。私が落ち着いてきたのに気づいたのか、彼はとても小さな声で話し始めた。


「……恨んでいないと言えば、嘘になります」


よく耳をすまさないと、聞き漏らしてしまいそうなくらい、か細い声だった。


「……え?」

「先ほど、リリィが聞いたでしょう? 私があなたに近づいたのは、復讐のためなのかって」


 私は彼に抱きしめられながら頷いた。この状態では、中尉殿が今どんな表情をしているのかは見えない。それが、今の私には好都合だった。彼の顔を見ると、もうそこに答えが書いてあるような気がして……それを先に知るのは怖くて仕方がなかった。


「ただ、私が恨んでいるのはこの国と言うよりも、あの戦争そのものです。あれさえなければ、私の友人たちも、この国の人たちも死ぬことはなかった。……しかし、今は過去の事を思い出す時間があるならば、これから先の未来をどう良くしていくかを考えて行った方がよっぽど有益だと、私はそう考えています」


 中尉殿は大きく息を吐いて話を続ける。


「皇太子殿下に聞いたそうですね、私たちの結婚が政治的に利用されているのかと」


 私の体は一瞬強張る、それを直に感じ取った彼はさらに強く私の事を抱きしめた。まるで、呼吸ができなくなるくらい、強く。でも、不思議とそれを苦しいとは思うことはなく、彼が近づいてくるほど心地よさを感じるようになっていた。私は彼の服をぎゅっと掴む。


「ハッキリ言ってしまえば、私の国でも貴女の事を国交正常化の材料として、利用してやろうと考えている者はいます。むしろ、その考えを持つ者の方が多いくらいです」

「……そうでしょうね。それくらい、いくら世間知らずの私だって少し考えればわかることですから」


 そして、この国にも同じことを考えている人は山ほどいるに違いない。


「あの戦争が終わってからも、ハノーヴ国内には陽本国への反発感情を抱く国民はまだまだ多い。世論の反対が強くて、まだ和平交渉を進めることも出来ないままなんです。そこで、陽本国皇帝の娘を、戦争の英雄と呼ばれた……貴族でもないただの平民上がりの将校に嫁がせるという【ストーリー】を国民に読み聞かせることで、陽本国への親しみを感じさせて、反発を抑えていく。上層部は、そういった筋書きを書いています。でも、私は違う」


 ふっと彼の腕の力が緩む。私がおずおずと顔をあげると、中尉殿の顔が目の前にあった。背けることも出来ず、私は彼の目を覗き込む。その瞳に私の姿が映りこんだとき、彼はいつも通りの柔らかい笑顔を私に見せた。


(……あれ?)


 彼の様子はいつもと変わらない。だけど、私の体にちょっとした変化が起きた。心臓がドンドン早くなっていって、体中が熱くなっていく。さっきまで感じていた彼についての不安がとっくになくなっていたことに気づき、その代わりに心の中がほんのり温かくなっていた。


「私は、貴女の事を一人の女性として幸せにしたいと思っているんですよ」

「幸せに、ですか?」

「えぇ。貴女がこれから先、何一つ不安を感じないように、ずっと一緒に楽しく、幸せに暮らしていけるように。リリィはまだこの結婚について不満かもしれませんが、私に任せてはもらえないでしょうか。リリィを不幸にすることだけは、絶対にしませんから」


 中尉殿は私の左手を取り、薬指にそっと触れた。


「リリィの指輪のサイズはどれくらいかな?」

「あ、あぁ……あなたの国では、男性から結婚相手の女性に指輪を贈る習慣があるそうですね」

「えぇ、よくご存じで。いつか必ず、リリィが気に入るものを用意いたしますから」


 ニコリとほほ笑む彼を見ていると、私の頬も緩んでいくのを感じていた。二人きりの時間が過ぎていくのが惜しくて、私は彼にそっと擦り寄る。


「リリィ、寒いんですか?」


 私の甘えたくなった気持ちを、彼はそう勘違いしてくれたらしい。私はうんともすんとも言わないでいると、彼はまた柔らかく包み込んでくれる。


「雨、やみませんね」

「……そうですね」


 彼のつぶやきに、私もそっと返事をする。洞窟の外ではしとしとと雨が降り続いている。草木が濡れて、葉っぱの青い匂いが立ち込めてきた。


「もう少しこうしていましょうか」

「……そうですね」


 私は中尉殿から見えないように、欠伸をかみしめる。しかし、彼にはバレバレだったようだ。


「リリィ、眠たいんでしょう? 寝てもいいですよ」

「で、でもこんな所で眠ったら、はしたないと多恵子お姉様に叱られてしまいます!」

「私しか見てないですよ。朝早くてつらかったでしょう、いつもあなたはお寝坊さんだから」


 中尉殿は、私の背中を優しく撫でる。まるで子どもを寝かしつけるみたいだ。それにつられるように、私の瞼は少しずつ重たくなっていく。この時間を楽しみたいのに、どうしてもそれには逆らいきれなかった。


「……おやすみ、リリィ」


 その言葉と一緒に、おでこに柔らかいものが触れた。次の瞬間、私は眠りに落ちていた。


***


「おい、百合子。いつまで寝てるんだ」

「ふぇ……、お兄様?」

「全く、どこに行ったかと思えば……こんなところで二人で眠りこけて」


 お兄様に肩を揺さぶられた私は、寝ぼけ眼を擦る。こんなところって……確か、お兄様に無理やりキジ狩りに連れていかれて、森の中を歩いていた時に雨が降って来て、それで……。


「お前も隅に置けないなぁ。こんなにギルバート殿にぴったりくっついて」

「っ!?」


 ボンッと体中が沸騰する。私はとっさに、ぴったりとくっついたままだった中尉殿から離れた。


「え、えっと、これには事情があって!」


 ニヤニヤと笑うお兄様の傍で、富永殿が乱暴に中尉殿の肩を叩いている。それでも、中尉殿は中々目を覚まそうとしなかった。


「そろそろ帰るぞ。全く、狩りは失敗続きで、さらに雨が降るなんて……今日は災難だった」


 お兄様はすっかりくたびれた様子で、やれやれと言わんばかりに肩をすくめている。そんな兄に向かって「そうでもなかったですよ」と声をかけたのは、ようやっと目を覚ました中尉殿だった。


「ようやっと皇女殿下と二人きりで過ごす時間を頂けたので」

「あぁ、最近忙しくて珊瑚樹宮邸に行けなかったと話していたな。ま、ギルバート殿が満足したならばそれでいいのか。な、百合子。お前だって二人で話したかっただろう?」

「し、知りません!」

「お前はすぐそうやって意地を張る。可愛げがない女は飽きられるぞ、少しくらい素直になったらどうだ。折角二人で楽しい時間を過ごしたんだろ?」

「しかしながら皇太子殿下、このように長時間、百合子様とこの男を二人きりにしてしまうのはいかがなものかと」


 富永殿の声はぞっとするほど冷たい。きっと、彼の中で戦争はまだ終わっていなくて……中尉殿の国の事が憎くて仕方がないのだという事が分かる。私がしゅんと肩を落とすと、兄はうすら笑いを浮かべながら、こう口を開いた。


「そうだなぁ。……ギルバート殿、俺の妹を傷物にしてはいないだろうな? まだ正式な婚約もまだなんだから、下手な真似をされたら困るぞ」

「ちょっと! お兄様、なんてことをおっしゃるんですか!」


 変な笑みを浮かべている兄と急に慌てだす私、その交互を見ながら中尉殿はきょとんとしていた。少し間を置いてからお兄様の言った言葉の意味が分かったのか、彼は「あぁ」と呟く。


「大丈夫ですよ、皇太子殿下。私は彼女の事を、これから先もずっと大事にしていきたいと思っているんですから」


 今度は途端に恥ずかしくなってくる。さきほどから様々な感情が駆け巡って、体がおかしくなりそうだ。とっさに中尉殿から離れようとすると、足元にあった小さな石に躓いてしまう。態勢を崩しそうになった時、とっさに私の事を支えてくれたのは……やっぱり、中尉殿だった。


「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして。皇女殿下にお怪我でもされたら、私も困りますから」


 中尉殿が腕を差し出す。私がそこに腕を回すと、彼は私の歩幅に合わせるようにとてもゆっくり歩きだした。


 他の人の手前、彼は私の事を【皇女殿下】と呼んだ。いつもの優しくて甘い、あの呼び方じゃない。初めの頃は嫌で仕方なかったのに、今はなぜだか、堅苦しい呼び方の方が少し嫌になっている自分がいた。

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