* 3 *
私はついて来ようとする中尉殿を振り切って、そのまま歩き出していた。けれど、山道と言うのは想像していた以上に歩きづらい。お兄様には【動きやすい格好で】とは言われていたけれど、いつも通りの和装と草履で来てしまった。木の枝が草履の隙間に入り込み、何度も踏んづけてしまった。足袋越しに鋭い枝が刺さる。その度に、私は小さく「いたっ」と呟いていた。
黙々と歩き続けている内に、ふっとある不安が私の胸によぎった。
「帰り道、あっちでいいのよね……?」
私の独り言に返事をしてくれるのは、葉っぱがざわめく音と小鳥のさえずりだけ。私は振り返るけれど、ここまで来ていたはずの足跡は残っていなかった。確かまっすぐ歩いていたはずだから、このまま再びまっすぐ歩いていけば帰れるはずだけど……。
「……もし、このまま遭難してしまったら、どうしましょう」
不安を言葉にしてしまうと、途端に背筋がぞっと冷たくなった。
もし遭難なんてしてしまったら、絶対に新聞に書かれてしまう。それも、面白おかしく、大衆が盛り上がる様に。そうなったら、女学校でどんな風に噂されるか。
それに、この国には、私たち皇帝一家に対していい感情を抱く人間ばかりではない。だから、私の素行が悪ければ、お父様やお兄様への非難へと繋がってしまうかもしれない。考えただけでぞっとしてしまう。それだけは絶対に避けなければいけない。私は少し迷ったけれど、回れ右をして、そのまま今まで歩いてきた道を再び歩き始めた。
あれだけ良かったはずの天気は、少しずつ陰り始めている。山の天気は変わりやすいと聞いたことはあるけれど、空には今にも雨が降り出しそうなくらいの曇天が立ち込めてきた。私は足早に、先に進む。この道が正解か分からないまま。
不安で胸がいっぱいになったとき、遠くで眩い閃光が光った。次の瞬間、化け物の泣き声のような大きな音が鳴り響く。
「ひぃあぁあっ!」
私の変な叫び声も、その音にかき消された。どうやらここから近いところに雷が落ちたらしい。空はどんどん暗くなっていく。本格的に雨が降り出す前に、早く戻らないと……私は少し早足で先を進む。
しかし、ポツポツと雨が降り出してきた。それは次第に勢いを増していく、
「あー、もう!」
どうして私ばっかりこんな目に遭うのだろう。頭が濡れないように手で守りながら先を進んでいた時、枝が折れる音が聞こえた。私がハッとそちらを振り向く。もし猛獣だったらどうしよう、そんな恐怖が頭の中を駆け巡る。でも、現れたのは――。
「こんな所にいたんですか、リリィ! 探したんですよ!」
「中尉殿?!」
「雨が強くなってきたな……あちらに洞窟があるんです。一旦、そこで雨宿りしましょう、歩けますか?」
中尉殿は私に向かって手を差し出す。私はそこから目を反らした。彼は何か勘付いたのか、その手を引っ込めて「こっちです」と歩き出した。私はその背中を追いながら、少し目を伏せて続く。
彼の話していた洞窟はすぐ近くにあり、これ以上濡れずに済んだ。彼は私にハンカチを差し出す。
「使ってください。随分濡れているみたいだから」
「大丈夫です。私の事はお気遣いなく、中尉殿がお使いください」
「私が大丈夫ではないんです。リリィが風邪を引いたら、私の責任にもなりますからね。私は丈夫ですから、気にしないでください」
無理やり押し付けられるハンカチを受け取り、私は濡れてしまった手を軽く拭く。帰ったらトクに洗ってもらおうと、私は胸元にそれを仕舞う。
「雨が降りそうだからと思って戻ったんですが、多恵子さんからリリィがまだ戻っていないと聞いて探しに来たんです。本当、焦りましたよ」
「……そんな、焦ることの程ではないとは思いますけど」
「いいえ、何かあったら私が困ります。だってあなたは私の婚約者でもあるのだから」
ほがらかに笑う彼を見ていると、もやもやとしたものが胸に広がっていく。
私は、ふと思った。最近彼と話すことができなかった私にとって、これはいい機会なのでは? と。彼に聞きたいことはたくさんある。私は勇気を振り絞って、彼に向かって口を開いた。
「中尉殿。お伺いしたいことがあります」
「ん? なんですか、急に改まって」
私は大きく深呼吸をしてから、彼の瞳を見つめる。それはいつもどおり、柔らかく暖かい色をしている。……こんな彼が『悪魔』なんて呼ばれていたなんて、私には到底信じることはできなかった。
「中尉殿が私に近づいたのは、この国に復讐するためなのでしょうか?」
「……は?」
中尉殿はぽかんと口を開ける。
「だって、中尉殿のご友人は……っ!」
あの戦争の時、私たちの国が殺したのでしょう? そう続けようとしたとき、近くで大きな雷鳴が轟いた。
「きゃぁあっ!」
私がとっさに耳を押さえてしゃがみこもうとすると、それよりも先に強い力で体ごと引き寄せられた。
気づいた時には、私は中尉殿の胸の中にいた。
(え、え……えぇっ!)
言葉にならない叫びが頭の中を駆け巡る。中尉殿は、柔らかく私を抱きしめている。彼の呼吸が耳元をかすめるたびに、その距離の近さに戸惑ってしまう。
離れようと身を捩ったら、彼の腕の力がほんのわずかに強くなる。私はその場から離れることも出来ず、ただ彼にされるがままになっていた。
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