* 2 *


 多恵子お姉様はさっそくお茶を淹れる準備を始める。私はふと顔をあげると、富永殿が顔をしかめているのに気づいた。そして、その視線の先は……カーター中尉殿に向けられている。どうしてそんな不快そうな目で彼を見つめるのか、私はどうしても気になって仕方がなかった。


「富永殿、お茶はいかがですか?」


 私がそっと近づいて、多恵子お姉様が淹れたばかりの湯呑を差し出すと、彼は驚いて目を丸め、慌てて立ち上がった。


「皇女殿下、私の事はお気遣いなく」

「いえ、なんだか疲れている様子でしたから。いつもワガママな兄の事を見てくれていますし、ささやかでもお礼になればと」

「……かたじけのう存じます」


 彼は湯呑を受け取り、少しだけ口に含む。私と話しているのに、視線は全く私の方に向かない。彼はトクのお弁当を囲むお兄様たち……いや、カーター中尉殿ばかり見つめていた。


「中尉殿が、どうかしたんですか? 何かありましたか?」


 私は恐る恐る尋ねると、湯呑に口を付けていた富永殿はパッと顔をあげた。


「……ああ、皇女殿下はあの男とご結婚なさるのでしたよね」

「お兄様はそうおっしゃってますけど……」


 私がそう言いよどむと、彼は私を睨むように視線を向けた。


「やめておいた方がいいかもしれませんね。あのような野蛮な男は、皇女殿下にはふさわしくありません」

「野蛮、ですか?」


 いつもの彼の様子からはとてもかけ離れた言葉だった。私が聞き返すと、富永殿は口角をいやらしくあげる。まるで彼は話したくて仕方がないと言った様子だった。私は彼の側により、耳を傾ける。


「あの男のことを、私たちが戦時中に何て呼んでいたか殿下はご存知ですか?」

「い、いいえ。戦時中のお話はあまり聞きませんので」

「大事な事ですから、皇女殿下も知っておいた方がいいでしょう。あの男は、私たちは……悪魔と呼んでいました。冷酷非道の、悪魔そのものであると」

「悪魔……?」


 私は富永殿が吐き捨てた言葉を繰り返すと、富永殿は深く頷いた。


「貴族の出でもない、ろくな後ろ盾もないあの男が、なぜあの若さで中尉になれたんだと思います? アレが戦時中に、並々ならぬ戦果を挙げたからですよ。自由自在に戦闘機を操り、視界に入った機体は全て落としていく。たとえそれが敗北を悟り、戦意喪失して逃げ帰ろうとしている者であっても。ヤツの標的にされたら、あっという間に撃ち落とされる。あの男とあいまみえたパイロットのほとんどは帰ってきませんでした。敵国の飛行機は、問答無用に撃ち落としていく。私は、ヤツに落とされかけた者の一人で、命からがら戻ってくることが出来ましたが……執拗に迫ってくる奴の表情が見えた時、死を実感したのを今でもよく覚えています。本当に恐ろしかった」


 富永殿の声のトーンがドンドン沈んでいき、目がうつろになっていく。私はこれ以上話を聞くのが怖くなってきたけれど、その場に縫い付けられたように動くことが出来なくなっていた。


「奴が落としたわが軍の戦闘機の数は数百に上るとも言われています。あまりにも多すぎて、途中で数えることができなくなった、とも。……あの男に心を許すのは禁物ですよ、百合子様」


 戦時中の恐怖が乗り移ったのか、富永殿の瞳は暗く、怯えているようにも見えた。


「百合子様を利用して、今度こそこの国の転覆を狙っているのかもしれません。奴も、どうせこの国を恨む者の一人です」

「でも……っ!」


 あの人はそんな事、絶対にしないですよ……そう伝えたかったけれど、私は彼の事を、どれだけ知っているだろう。

 戦時中に何をしていたのかも、その時受けた心の傷も、私は何も知らない。彼は、大事なことを私には話してくれない。


 もしかしたら、富永殿が話す通り、この国へ復讐するために私を利用しているのかもしれない。彼の腹のうちは、彼にしか分からないのだから。


(やっぱり、私は彼に利用されてるのかな)


 そう考えると、体中が冷たくなっていった。ぎゅっと両手で体を包む様に抱きしめても、ちっとも暖かくならない。


「おい、百合子、富永。朝飯にしよう! トクの作ってくれた弁当があるぞ!」


 兄のはしゃいだ声が、遠くから聞こえてきた。富永殿は「殿下、参りましょう」といつもと同じ声で私を促した。私はどこか上の空になりながら、お兄様たちの輪に近づいた。


 お兄様たちは、少しだけ休憩をしたと思ったらすぐに立ち上がった。


「あら、また行くんですか?」


 多恵子お姉様は再びお茶を淹れる用意をしている。


「あぁ! このまま終わることはできないからな! 期待していてくれ、多恵子」

「ふふ、わかりました。百合子様、お茶菓子を持ってきましたの。お二人を待っている間、いっしょにいかがかしら?」

「あ、あー……」


 私は口ごもりながらも「せっかくだし、少しだけこのあたりを散策したい」と答えた。


「まさか、お一人で出歩くつもりですか?」

 

 私の言葉に、突っかかってきたのは中尉殿だった。その声音は少し焦っているようにも聞こえる。


「危ないですよ。それならば、私も一緒に……」

「いーの! 一人で歩きたいの!」

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