* 2 *


 お兄様はバツが悪そうに頭を掻いているけれど、口元はニヤリと笑っている。全く悪びれた様子はない。こんな態度のお兄様にもう何を言っても無駄である。私は諦めて大きくため息をつくと、お兄様と多恵子お姉様は顔を見合わせて笑っていた。この二人の仲睦まじい姿は昔から見てきたけれど、こんな時ばかりは苛立ってしまう。


「どうして、私なのでしょうか」

「ん? 何がだ?」

「どうして私が異国、しかもかつての敵国の方と……。もしかして、私は政治利用されているのでしょうか?」


 陽本国とハノーヴ国は、戦争が終わってしばらく経った今でも国交を断絶していて、特別に認められた人しか彼の国に渡ることはできないでいる。一刻も早く国交を正常化したいと、両国の政治家たちがそう考えているというのは新聞で読んで知っていた。私はきっと、それに利用されているのだ。


 兄はわずかに頭を垂れ、少し考えている様子だった。


「表向きは、そうだな」

「表向き?」

「そうでも言わないと、政治家や侍従は納得しないからな。俺の本音は、全く違うところにある」


 お兄様はまっすぐ私を見つめるので、私の背筋は自然と伸びていく。


「ギルバート殿に初めて会ったとき――進駐軍に着任した時に挨拶に来たんだよ、わざわざ俺のとことまで――、ピンと来たんだよ。お前と絶対合うってな」

「あ、合う?」

「相性がいいだろうと思ったんだよ、俺と多恵子のようにきっと仲睦まじい夫婦になると思ったんだ」

「あら、いやですわ武仁様ったら。まだ結婚していないのに」

「あ、確かに! まだ夫婦ではなかったな!」

「そこ! 私をほったらかしにしないでください!」


 私のことをそっちのけで、また互いに顔を見合わせてニコニコと笑っている。


「ああ、悪い悪い。ついいつもの癖で」

「それで、どういう意味ですか? その相性が良いっていうのは」

「少し話をしただけで、彼の懐の深さや人としての暖かさっていうのがなんかこう……じわじわと伝わってきたんだ」


 お兄様は私を見て、にやりと笑う。


「俺は百合子の事が心配なんだよ、末っ子で生まれて甘やかされて、泣き虫で、寂しがり屋で。そんなお前の事でも、ギルバート殿なら温かく包み込んでくれるに違いないって思ったんだ。お前もそうは思わないか?」


 私は言葉に詰まる。お兄様が言っていることに、私は心当たりがある。カーター中尉殿に話を聞いてもらっているとき、私は彼に包まれているような気になってしまうのだ。


 お兄様は、私の様子を見て頬を緩ませた。その表情は、今までいたずらっ子のような笑みではなく、妹の事を心配する兄の顔だった。


「ま、時間をかけて仲良くなればいいさ。そうだ、百合子に聞きたいことがあったんだ」

「ん? 何でしょうか?」

「お前、女学校で友達が一人もいないって本当か?」


***


 お兄様に痛い所を突かれた。


 女学校の放課後、私は帰り支度を楽しそうに会話をしている同級生たちを見て、大きくため息をついた。誰が兄に漏らしたのだろう、トクか教育長か……もしかしたら中尉殿かもしれない。


 私だって、女学校に入った頃は簡単に友人ができると思っていた。だって、そういうのは自然にできるものだと多恵子お姉様もトクも言っていたから。


 でも、私は自分の立場と言うものをすっかりと忘れていた。私は【皇女】で、同級生は良家の息女と言っても【一般人】である。その隔たりは、どんな壁よりも高く、私たちが横並びになることはなかった。


 先生も同級生たちも、私の事は【宮様みやさま】とか【百合子様】という恭しい呼び方――私にとっては距離の感じる呼び方――をする。どうしてもそれが嫌だった私は、呼ばれるたびにこう言いかえしていた。


「他の方たちと同じように、普通に呼んでください。私は別に【百合子さん】と呼ばれて怒ったり、誰かに告げ口をしたりなどは致しませんから」


 それがいけなかったらしい。皆が口々に恐れ多いと言ってしまって、次第に距離が開いていき……気づけば最終学年なのに、友人と呼べるような相手は出来なかった。


 教室の中には、私のように迎えの車が来る生徒だけが残っている。しかし、私は彼女たちに話しかけられることはない。私ももう諦めてしまっていて、鞄の中からカーター中尉から教材として渡されている本を取りだし、読みながら迎えが来るのを待っていた。語学の良い勉強になると言って、彼はハノーヴ国のティーンエイジャーの中で流行している本をたまに貸してくれる。


 少し読み進めた時、廊下の外が騒がしくなっているのに気づいた。


「校門の前に、進駐軍の車が停まっているわ!」


 まるで叫びのような声に、私も耳を研ぎ澄ます。不安や恐怖のざわめきが広がっていくのを感じた。まだ、戦争が終わって間もない。進駐軍に対して恐ろしさを感じている生徒が多いのは、たとえ学校で話す相手がいない私でも知っていることだった。


「そんな、どうして?」

「学校に何かあったのかしら」

「そういえば、お父様の知り合いの会社に進駐軍が強制捜査しにきたって聞いたわ」

「……こわいわ」


 口々に、そんな言葉が聞こえてくる。私は、他の国の言葉で書かれているその本を閉じて鞄に仕舞った。彼女たちが感じている不安や恐怖は、教室を包み込んでいく。


「あ、見て! 車から誰か降りてくるわ!」


 その声に引き寄せられるように、みんな校門が見える方の窓へ向かった。


 そして、皆が感じていた不安はなぜか……感嘆に代わっていった。どうしたのだろうと少し不思議に思ったけれど、私はみんなに混ざることはできず、じっと自分の席に座ったままだった。

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