2話 皇女様、学校へ行く

* 1 *

「ちょっとお兄様! 私、何の話も聞いてなかったのですが!」


 女学校から帰る途中、迎えに来た車の運転手に無理を言って私は兄が暮らす香梅宮邸こうばいのみやていを訪れていた。兄は皇太子になってから、ここで暮らしている。


 制服であるセーラー服のスカートの裾が乱れるのも気にせず、香梅宮邸にずかずかと入り込み、兄の書斎のドアを開けながら私はそう大きな声で叫んでいた。しかし、返ってきた言葉が思いがけない人の物だった。


「あら、百合子様。ごきげんよう」

「た、た、多恵子たえこお姉様……!?」


 書斎にいたのは、お兄様ではなく、多恵子お姉様だった。私の背筋が一気に伸びていく。


「お久しぶりだけど、とても元気そうで何よりだわ」


 ソファに座る彼女はクスクスと笑いながら、持っていた本をテーブルに置く。


 多恵子お姉様は、まだ公には発表していないけれど……兄・武仁たけひとの婚約者にあたる方である。国立大に勤務する学者の一人娘で、私のお父様と多恵子お姉様の御父上が友人同士である。彼女は幼いころからよく、珊瑚樹宮邸に御父上に連れられて遊びに来ていた。兄とはその頃からの幼馴染で、そこから関係がどんどん進んでいって、今に至る。

 

 本当は元皇族の中にいる年頃の近い娘が兄の結婚相手になるはずだったらしいけれど、お兄様が「多恵子と結婚できないなら、一生結婚なんてしない」とワガママを言ったことが功を奏したのか、それとも周りの従者がその頑なな態度に折れたのか……多恵子お姉様は【婚約者】として認められて、今でもよく香梅宮邸に遊びに来ている。


「お、お久しゅうございます、多恵子お姉様」

「そう硬くならないで大丈夫ですわ。皇太子殿下にご用事なのよね? それが、まだお戻りにならないの。お話があるなら、ぜひ私とお喋りでもしながら待ちましょう。あ、それと……」


 多恵子お姉様の目が、まるで猛禽類の目のように鋭くなる。


「大きな足音を踏み鳴らして、ノックもなしにドアを開けるなんて……女学校に通う生徒としてとても恥ずべき行為ですわ、以後、お気をつけてくださいね」

「も、申し訳ございません!」


 とても優しく丁寧に、けれど憤りをにじませる多恵子お姉様の言葉に体が凍った。


 多恵子お姉様は、私の女学校の先輩でもある。在学中は、二年生の時から風紀委員を務め、私が入学した時には生徒会長として華々しいご活躍をされていた。しかし、その分誰よりも規律や規範に対する意識が高く……生活指導はどの教員たちよりも厳しかった。


そしてそれは、今も全く変わらない。少しでも風紀の乱れを感じるとビシッと指摘してくる。私にとっては、トクよりも恐ろしい存在でもある。


 私は彼女に促され、真正面のソファに座る。その時も、スカートがあまり皺にならないようにゆっくり丁寧に座らないと、また注意が飛んでくるのでとても気を付けた。


「それで、皇太子殿下に何のお話ですの? あ、もしかして、ギルバート様の事ですか?」


 驚きのあまり、私の目が丸くなる。


「お姉様、どうして彼の事をご存じなのですか?」

「殿下が良くお話なさっているから。この前、進駐軍の皆さんとお花見をしたそうですよ」

「そうそう! 中尉殿も、お兄様と花見をするとお話ししていました。……そうじゃなくて! 私と、か、か、彼が、け、け、け、結婚するって話があるって聞いて……!」

「あら、百合子様も同意なさったと聞いていたけれど?」

「まさか! 私がそれを知ったのはついこの間です!」


 私が憮然と頬を膨らませると、多恵子お姉様はクスクスと笑う。


「それならば、きっと皇太子殿下が百合子様にお話しするのを忘れてしまったのでしょうね」

「私もそうだと思います……お兄様の様子が目に浮かびます」


 兄は忘れっぽいところがある。それを私以上に良く知っている多恵子お姉様はくすくすと笑うだけだった。


 私がお兄様の事を責め立てても、きっと「すまない、すまない」と大きな口を開けて笑うだけに違いない。私が大きく肩を落としてため息をつくと、多恵子お姉様は微笑ましそうにしている。この人は、兄のそういうおっちょこちょいなところが好きらしい。……どこがいいのか、さっぱり分からないけれど。


 兄の話が出た途端、書斎の外が騒がしくなった。多恵子お姉様は嬉しそうに頬を染め、立ち上がる。お姉様に後れを取らぬよう、私も立ち上がってドアが開くのを待つ。すると間もなく、ゆっくりと音をたてぬように扉が開いた。それと同時に、私と多恵子お姉様は頭を下げた。ようやっと、待ちに待った兄が帰ってきたのだ。


「なんだ百合子、来ていたのか」

「お久しゅうございます、お兄様」

「堅苦しい挨拶はやめてくれ、兄妹なんだから。多恵子も、いちいちそんな風に出迎えられると疲れてしまうよ。もっと楽にして良いといつも言っているだろう」

「はい、武仁様」


 お兄様は多恵子お姉様の隣に腰を掛ける。それを見てから、私も多恵子お姉様も席に着いた。それを見た兄は気だるそうなため息をつく。


「百合子の顔を見るのは久しぶりだな、同じ皇居内に暮らしているというのに……こちらに越してからは全く会わん。最近じゃ、お前よりギルバート殿によく会うぞ。そうだ、今度ギルバート殿をキジ狩りに誘おうと思うんだが、お前も来ないか?」

「百合子様はそのギルバート様の事でお話があるそうですよ、武仁様」

「話? 何だ、喧嘩でもしたか? ダメだぞ、お前たちには仲良くしてもらわないと……」

「お兄様!」


 兄ののん気な言葉を遮る様に、私は大きな声を出す。お兄様はきょとんとした顔をしていて、それを見ているとさらに腹が立ってきた。わなわなと震えていると、多恵子お姉様が助け舟を出してくれた。


「武仁様、百合子様にお話ししてなかったみたいですよ。百合子様とギルバート様の結婚のこと」

「え? まさか? 俺は言ったはずだぞ」

「いいえ! 私は中尉殿から聞いて初めて知りました」

「そうか。それはすまなかった。いやぁ、わるいわるい」

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