* 5 *
「リリィ、この花の蕾は? 少しほころんでいるようにも見えますが」
「それは『ドッグウッド』、ハナミズキという花です」
「それではあちらは? 様々な色の花が咲いていて綺麗ですね」
「あれはボタンイチゲ、『アネモネ』です」
カーター中尉は庭を進んで、あれやこれやと指をさしていく。その仕草が子どもみたいで、私は彼にバレないように小さく笑っていた。
久しぶりに、楽しいと思ってしまった。こんなに楽しいのは、いつ以来だろうと考えながら私は花の名前を答えていく。
庭中を歩き回った彼は少し疲れたましたねと言って、藤棚の下にある涼台に腰を掛けた。カーター中尉殿は空いている隣にハンカチを広げて、私に向かって「どうぞ」と声をかけた。
「な、なりません。中尉殿のハンカチが汚れるではありませんか」
「貴女のそのきれいなお召し物が汚れる方が我慢ならないんですよ。ハンカチなんて洗えばすぐ綺麗になります」
それは私の着ている着物も同じなのに。言い返そうとしても、じっと見つめられると何も言い返せなくて私はそっとそのハンカチの上に腰を下ろした。
「リリィの、一番好きな花はなんですか?」
「え?」
とっさに顔をあげて彼を見ると、彼の瞳の中に少し暗い表情をした私の姿が写っていた。彼も、いつものような楽しそうな笑い方ではない。……まるで、私の事を心配でもするように、まっすぐに見つめている。視線を逸らすと、中尉殿は真正面を向いた。
「貴女の好きな物、あまり知らないなと思って。もう何度も会って話をしているのに」
「好きな、花ですか……」
私は藤棚を見上げた。まだ若い葉が太陽の光を浴び、そよ風になびいている。その姿を見て、私は母の事を思い出していた。
「藤、です」
「藤?」
「この木の花です。あとひと月もすれば花が咲きます。……母の名前の花です」
中尉殿は首を小さくかしげる
「ん? リリィの母君の名は【トウコ】様では?」
「藤の漢字の違う読み方が、【トウ】なんです」
「あぁ! この国の言葉の難しい所だ。同じ文字なのに何通りもの読み方がある!」
彼は苦笑を浮かべながら、私のように藤の木を見上げる。
「……母が存命の頃は、よくここに家族みんなで来たんです。私にとっては思い出の場所で、大切な花です」
私の視線の向こうには、家族一緒に、咲き誇る藤棚の下でお母様の誕生日祝いをしたときの思い出が見えていた。
「きっと美しい花が咲くのでしょうね」
彼がポツリと言った言葉に、私は頷くこともせず、顔を俯かせた。
「リリィの大切な花、いつか見てみたいです」
「中尉殿は、」
私はそこで言葉を区切る。彼は私の言葉が続くのをじっと待ってくれた。時間が風と共に流れていくのを感じながら、私はようやっと口を開いた。ずっと気になって仕方なかったことを聞くなら、今しかないと思ったのだ。
「どうして、私にここまで優しくしてくださるのですか?」
「優しく?」
「ええ。いつも贈り物をおくってくださったり、私のくだらない話に耳を傾けてくださったり。もしかして、進駐軍の元帥から、私には優しく接しろという命令でも下っているのですか? ……まさか、まだ未熟な皇女を籠絡してご自身の出世の材料にしようとしているとかっ!?」
「ま、待ってくださいリリィ。……もしかして、リリィは皇太子殿下から何も聞いていないんですか?」
カーター中尉殿は顎を擦りながら「いやまさか」とか「こんな大事な話、していないわけか」などとブツブツと呟いている。
「何の話でしょうか? お兄様が何かおっしゃってたんですか?」
私がそう尋ねると、中尉殿はギョッと驚いたように目を丸めた。そして困ったように少しだけ息を吐き、眉を下げる。
「私が貴女の【家庭教師】になる前に、皇太子殿下からちゃんとリリィに話を通しておくと言われたのに。まさか、自分の口で伝える羽目になるとは。……よく聞いてくださいね」
私は覚悟を決めるように喉を鳴らして、彼を見つめる。彼の瞳の中には緊張して強張った表情の私が映りこんでいるのに、中尉殿ときたら、うっすら頬を染めている。こんな時に、まるで緊張感のない表情だ。
中尉殿は何度か咳払いをしてから、わずかに私の方に体を向ける。私の手を取り、あたたかな両手でそれを包み込んだ。驚きのあまり、私はそれを振り払うことも出来ず、体は岩のように固まってしまった。
何を言われるか、ぎゅっと目とつぶって待ち構える。
しかし、彼の言葉は私の想像をはるかに飛び越えていったものだった。
「結婚するんですよ、私とリリィは」
「……はい?」
「貴女が女学校を卒業したら、すぐにでも婚約を発表するそうです。私が家庭教師として貴女の元に訪ねるようになったのは、皇太子殿下の発案です。リリィがハノーヴ国に渡っても言葉に困ることがないように。それに加えて……今のうちに、その、仲良くなるように、と」
「……はい?」
歯切れの悪くなった彼の言葉すら上手く理解することができず、私は首を傾げる。中尉殿はそんな私の手を、ぎゅっと強く握る。そして、今度はもっとわかりやすく、手短にこう言った。
「貴女は、私の妻になるんですよ」
私は思わぬ言葉に呆気を取られているのに、目の前にいる彼は、まるで肩の荷が下りたかのように目を細めてにっこりと笑ってみせた。
***
これは、のちに多くの人に語られることになる――私と彼の【馴れ初め】のお話である。
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