* 4 *


 書物の中に【友人】という単語が出てきたとき、彼はそう呟いた。


「……中尉殿までそんな事をおっしゃるのですね」

「友人がいるというのは、とても良い事ですよ。例え離れていたとしても、いざという時は心の支えになる」


 中尉殿は遠くを見ながら、そう呟いた。百合の香りがまだ残っている部屋が、少しだけ静寂に包まれる。彼もその香りに気づいたのか、こんなことを言い始めた。


「私たちの国の言葉では、あの花は【リリィ】と呼ぶんです」

「……それは存じております。女学校の授業で教わりましたから」

「そうでしたか。あの花がこちらの言葉で何て言うのかは知らなかったな、不勉強で申し訳ない」


 中尉殿は私の顔を見つめながら、どこか恥ずかしそうに笑っている。そのまなざしがこそばゆくて、私はぷいと顔を反らした。


「……リリィ」


 彼は、ぽつりとあの花の名前を呟く。私の横顔を見つめる視線がチクチクと痛くなるくらい刺さってくる。


「リリィ? リリィ、リーリィー」

「さ、さっきから何ですか!? 同じ言葉ばかり繰り返して……」

「あぁ、やっとこっちを向いた」


 中尉殿は柔らかな笑みを浮かべる。私は初めその言葉の意味がピンと来なかったけれど……呆気にとられながら彼の笑っている姿を見ている内に、ようやっと腑に落ちた。


「もしかして、それは私の事を呼んでいるつもりですか?!」


 恐る恐るそう尋ねると、彼は深く頷いた。


「もちろん」


 そして、さらに笑みを深くさせる。私はわなわなと震えながら言い返す。怒りやら恥ずかしさやらで、顔だけじゃなく体中が熱くなるのを感じていた。

 

「へ、変な呼び方はおやめになってください!」

「やめませんよ、だって私と貴女の仲じゃありませんか」

「仲と言っても、中尉殿は家庭教師、私はあなたの生徒というだけでは……!?」


 彼はクスクスと笑うのをやめない。まるで慌てふためく私の様子を見て楽しんでいるみたいだ。趣味が悪い。私が憮然と唇を曲げると、ようやっと「申し訳ない」と、表情は一切変えず口先だけで誤っていた。


「リリィ、お願いがあるのですが」


 その変な呼び方をやめてくださったなら聞いてあげます、そう言いたかったのに……中尉殿のまっすぐな視線が私を射抜いた瞬間口を開くこともできなくなって、私は「どうぞ」と小さく頷いてしまっていた。


「花の名前、この国での呼び方を教えてくださいませんか?」

「……花、ですか?」

「せっかくならば、そういう言葉も覚えて行こうと思いまして。それに、ここの庭はいつも様々な花が咲き誇っていてとても美しい。折角ですから、この国の言葉でその名を知りたいのです」


 彼が窓の向こうを見つめるので、私も自然とそちらを向いてしまう。珊瑚樹宮邸の庭は、病弱だった母が床に伏せたままでも外の景色を楽しめるように、季節が変わるたびに様々な花が咲き誇る。父自慢の庭だった。


「天気もいいですし、私と一緒に散歩でもいかがですか?」


 カーター中尉殿は立ち上がり、私に向かって手を差し伸べた。


「でも、授業の続きが……」

「今日は特別授業でも致しましょう。貴女が先生、私が教え子というのは、とても新鮮で楽しいと思うのですが」


 私は少しためらったけれど、彼の指先に触れるように手を重ねた。


 中尉殿は、いつだって私に優しい。私に贈り物ばかりくださるのも、きっとひとりぼっちでこの屋敷にいる私の事を慮っての事だろう。彼の優しさを感じる時は、それだけじゃない。


 例えば、部屋を出るとき。今みたいに、彼はドアを開けて先に私を通す。小さくお辞儀をすると、やっぱりここでもにっこりと笑みを浮かべる。


 それ以外にも、椅子に座ろうとするときはその椅子を引いてくれたり。何事も女性を優先する、それを彼の国では【レディーファースト】と呼ぶらしい。女性に対してここまで優しくするなんて、偉そうにしている男性とその男性の後ろに下がって大人しくしている女性が多いこの国には、絶対馴染まない文化に違いない。私も、彼にそうされるたびに慣れなくて背中がむずむずとする。


 台所で控えていたトクに外に行くことを伝えて(トクったら、朝はあんなにプリプリと怒っていたのに、今ときたら満面の笑みで私たちを送り出した)、私たちは庭に向かう。着物の裾が乱れないようにそっと歩く私に、カーター中尉は自然と歩みを合わせてくれていた。ふと彼を見上げると、薄い色をしている髪に陽の光が透けていて、少しだけ光っているようにも見えた。


「……何かついてますか?」


 私が見つめていることに気づいてしまったらしい。私が頭を横に振ると、また小さく笑みを浮かべる。いつもニコニコしていて、悩み事なんてない人なのだろうと私は羨ましく思った。


「リリィ、あの木の花は?」


 彼が指さす先に、薄桃色の、咲き始めたばかりの小さな花がある。


「あれは桜です。中尉殿の国だと、『チェリーブロッサム』でしょうか?」

「ああ、あれが。皇太子殿下に、【サクラ】が満開になったらみんなで【花見】をしましょうと誘われたんですよ。この国の人は、サクラの花の下で花見をするのがお好きだと聞きました」

「そうみたいですね」


 そんなもの、ここ数年したことない。お兄様も、この人を誘うよりも前に私に声をかけてくださってもいいのに。私が小さく息を漏らしている内に、彼は桜の木の下にある花壇に目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。

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