51 突入命令

 五月十一日夕刻、ポナペ島への航空機部品などの輸送を終えてトラック泊地に入港した第一水雷戦隊は、連合艦隊司令部からの新たな命令への対応に追われていた。


「GF司令部からポナペ島へ向かえと言われたら、今度はタラワへ行け、ですか。GF司令部もなかなか我々をこき使ってくれますな」


 旗艦・阿武隈の艦橋で、一水戦先任参謀の広瀬弘中佐がぼやいた。

 第一水雷戦隊は先ほど、連合艦隊司令部からギルバート諸島の守備隊の収容を命じられたのである。

 具体的には、第一、第二遊撃部隊のクェゼリン突入によって米艦隊の目がマーシャル諸島に釘付けになっている間隙を突いて、ギルバート諸島守備隊を救出せよというものであった。

 捷一号作戦が計画通り進むとすれば、大和以下のクェゼリン突入は十五日黎明。こちらも、それに合わせて作戦行動を行わねばならない。となれば、出撃準備の時間はそれほど残されていない。


「とはいえ、命令は命令だ。やれと言われれば、やらねばなるまい」


 優美な八の字髭が特徴の第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将が言う。


「各艦の給油は可及的速やかに行え。それと、ギルバート諸島周辺の海図も、第四艦隊司令部でも第六艦隊司令部でも第二海上護衛隊でも、どこでもいいから手に入れてくるんだ」


「第四艦隊司令部は、すでにクェゼリンに進出していますが?」


「あそこに6F旗艦の香取がいるだろう?」夕日に沈んでいくトラック環礁の一点を、木村は指差した。「急いで誰かを遣わせて、海図を貰ってこい」


「はっ、ただちに!」


 参謀の一人が、敬礼をして艦橋から駆け出していった。


「燃料と海図はそれでいいとして、問題は守備隊の収容方法です」


 広瀬先任参謀が、渋面を作って指摘する。


「タラワに拠る守備隊は、第三特別根拠地隊および佐世保第七特別陸戦隊の約四〇〇〇名。タラワは米重爆の航続圏内にありますので、この人数を速やかに収容出来なければ、米軍の爆撃によってミイラ取りがミイラになりかねません」


「まったく、軍令部もGF司令部も、命令を出せばそれで速やかに実行されると思っているのではあるまいな」


 思わぬ難題を押し付けられて、この八の字髭の提督も愚痴を零さざるをえなかった。


「撤収作戦は、迅速さを第一とする意味でも、一水戦のみで敢行する必要があるだろう」


 現在、ポナペ島への輸送を終えた第一水雷戦隊の兵力は、次の通りである。


第一水雷戦隊【軽巡】〈阿武隈〉

 第六駆逐隊【駆逐艦】〈雷〉〈電〉〈響〉

 第九駆逐隊【駆逐艦】〈朝雲〉〈山雲〉〈薄雲〉

 第二十一駆逐隊【駆逐艦】〈初春〉〈初霜〉〈若葉〉

輸送隊【特設運送船】〈山陽丸〉〈天城山丸〉〈興新丸〉


 三隻の輸送船はポナペ島への航空機部品・燃料などの輸送を行った船であり、帰路にはトラックから引き揚げる邦人を運ぶ予定になっていた。

 この他、トラック泊地には捷一号作戦に備えて物資・弾薬などの輸送を行った後、本土への帰還を待っている輸送船が複数存在していた。

 タラワ守備隊を収容するための輸送船には事欠かないが、問題は米艦隊の遊弋している海域に低速(最大速力十八ノットの高速優秀船も混じってはいるが、それでも第一水雷戦隊の各艦に比べて低速)の輸送船を引き連れていくのは、危険が大きすぎるだろう。

 それが、木村少将の判断であった。


「トラックに在泊している艦船から、内火艇やカッターを出来る限り徴発しろ。縄梯子もだ。各艦への積み込み作業には、手の空いているトラックの根拠地隊の連中にも手伝わせろ。今日は徹夜を覚悟しろ。明日、〇九〇〇時までにはトラックを出撃したい」


「宜候、ただちに取りかかります!」


 守備隊の収容にかかる時間を少しでも短縮するため、木村は各艦に搭載出来るだけの内火艇、カッターを乗せようとしたのである。最悪、守備隊を収容出来れば、帰路には荷物にしかならない内火艇やカッターは自沈させればよいと思っている。

 しばらくして第六艦隊旗艦・香取からギルバート諸島周辺の詳細な海図を受け取りにいった参謀が戻ってきた。香取の方でも連合艦隊司令部からの電文は傍受していたため、海図の受け取りは円滑に進んだらしい。

 早速、木村を始めとする一水戦司令部は阿武隈艦橋の海図台にギルバート諸島周辺の海図を広げ、タラワ環礁における守備隊の収容地点の検討に取りかかった。

 そして、内火艇やカッターの徴発のために向かわせた参謀が、途中で朗報を持って戻ってきた。


「司令、陸軍の残していった大発がかなりの数、存在するそうです!」


「何!?」


 思わず、木村は海図から顔を上げて驚きを露わにした。


「しかしいったい、何故大発がそんなに残っているのだ?」


 大発とは、大型発動艇のことであり、帝国軍の開発した上陸用舟艇である。陸軍だけでなく、海軍でも物資の輸送などのために用いていた。


「どうやら、クェゼリンの海上機動第一旅団が残していったもののようです」


 陸軍海上機動第一旅団は、島嶼作戦における逆上陸部隊として創設された部隊であった。そのため、大発や機動艇を装備した部隊固有の輸送隊が存在していたのである。

 しかし、絶対国防圏の外郭地域であるマーシャル・ギルバート諸島は、あくまでも持久戦を行うことを想定した地域であり、逆上陸作戦は行われないこととなった。

 結果として海上機動第一旅団輸送隊は、今後の作戦に備えるためとして温存されることとなり、装備していた大発、機動艇と共にトラックに残されることとなったのである。


「大発ならば、内火艇やカッターよりも人員の輸送能力が高い。すぐに譲ってもらえるよう、輸送隊の指揮官と交渉しよう」


 木村少将の決断は早かった。


「しかし、陸軍の連中、そう簡単に我々に装備を譲渡するでしょうか?」


 広瀬中佐が、懐疑的に首を傾げた。


「なぁに、その時は阿武隈の主砲でちょいとばかし脅かしてやればよい」


 顔に悪童のような笑みを浮かべて、木村は軽い口調で言い放った。艦橋に、かすかな笑いが広がる。


「交渉は私自らが出向こう。各艦の艦長に、大発を搭載するために甲板を空けておくように伝えるのだ。それと、出撃前に各艦長との打合せを行いたい。今夜二一〇〇時に阿武隈に集合するよう、信号を出しておけ」


 木村はその他一通りの指示を出し終わると、即座に海上機動第一旅団輸送隊指揮官に面会を申し込んだ。

 一水戦の戦力は軽巡一、駆逐艦九である。一個駆逐隊は警戒用に用いるとすれば、兵員輸送に使えるのは軽巡一、駆逐艦六となる。

 ガダルカナルを始めとするソロモン諸島からの撤収作戦に際しても、大発は用いられていた。その際の大発輸送方法を参考にすれば、阿武隈には二隻、駆逐艦には各一隻の大発を搭載することが出来るだろう。となれば、陸軍に譲渡してもらうべき大発は八隻となる。

 まあ、その八隻分の大発は後ほどGF司令部か軍令部にでも補填して貰えばいいだろう。木村はそう考えていた。

 もともと、現場部隊である自分たちに急な命令を振ってきたのは、内地の連中である。タラワ守備隊の救出という方針そのものには木村としても賛同するものの、守備隊撤収のために必要な舟艇の準備すら現場任せという態度には、いささかの無責任だとの思いもある。

 だから、自分たちの後始末くらい、赤レンガの連中に押し付けても罰は当たるまい。

 彼はそう思いつつ、陸軍側指揮官との面会に臨んだのでであった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 マーシャルの戦場は、合衆国軍上陸後最初の夜を迎えていた。

 だが、クェゼリン環礁沖合に遊弋する艦隊に、安眠の時は訪れなかった。


「レーダー室より報告! 北東にジャップの航空隊と思われる反応を探知! 距離、およそ八〇マイル(約一三〇キロ)!」


「対空戦闘用意!」


 第五四・一任務部隊旗艦の重巡ルイヴィルでは、司令官のジェシー・オルデンドルフ少将がすでに日の暮れた空を険しい視線で睨んでいた。


「これが第三艦隊を悩ませていたジャップの夜間空襲か……」


 ソロモン諸島での戦闘も含めて、合衆国海軍は幾度となくジャップ航空隊による夜間空襲に辛酸を舐めてきた。レーダーの性能がガダルカナル攻防戦初期に比べて大幅に向上したとはいえ、有効な夜間戦闘機を持たない合衆国艦隊にとって、自艦の対空火器だけが頼りであるという状況は依然として変わらない。

 オルデンドルフ少将率いる第五四・一任務部隊は、戦艦ウェストバージニアを始めとして戦艦三、重巡一、軽巡二、駆逐艦九という戦力である。

 珊瑚礁の合間に浮かぶ小島をクレーターに変えるには十分であったこれらの戦力は、しかしクェゼリン島とルオット・ナムル島に上陸した部隊を援護するため、環礁の南北に分散してしまっていた。つまり、輪形陣による各艦が連携しての濃密な対空砲火を撃ち上げることは出来ない状況だったのである。


「各艦は、輸送船との衝突にも十分注意せよ」


 さらに悪いことに、島の周囲には上陸部隊やそのための武器弾薬、物資を搭載した輸送船すら存在している。

 第五四・一任務部隊は、まったく空襲への対応が出来ない陣形のまま、夜間空襲を受けることになったのである。

 やがてジャップの編隊から先行していたらしい機体が、艦隊上空に吊光弾を投下した。まばゆいマグネシウム炎の光球が、立て続けに空に出現する。

 そして、間の悪いことは立て続けに発生した。


「し、司令官!」


 吊光弾の明かりに照らされたルイヴィル艦橋に、通信兵が切迫した声と共に飛び込んできた。


「地上で、ジャップの大規模な夜襲が敢行された模様です! 上陸部隊から、砲撃の支援要請が届いています!」


「無理だ」


 オルデンドルフは沈痛な表情で首を振った。


「ジャップ航空隊による空襲が間もなく始まる。地上への支援砲撃をしている余裕など、ない」


 ジャップによる空襲と、地上での夜襲。

 あまりにもタイミングが良すぎる。もしやジャップは、これを狙っていたのでは?

 オルデンドルフの背に冷たい汗が流れる中、彼の座乗するルイヴィルは対空射撃を開始していた。


  ◇◇◇


 実際のところ、エニウェトクに展開する航空隊による夜間空襲とクェゼリン守備隊による夜襲がほぼ同時に発生したのは、完全に意図的なものであった。

 守備隊と運命を共にする覚悟でクェゼリンに司令部を前進させた第四艦隊司令部が、第三艦隊司令部に夜襲敢行の時刻を知らせ、それに合わせて山口多聞中将が航空隊を発進させたのである。

 マーシャル諸島に展開する帝国海軍航空隊は、連日の出撃と米機動部隊による空襲で戦力を減じていたものの、この日の夜間空襲に一式陸攻二十一機、天山四機、そして爆装した月光十三機を投入することに成功していた(すべてエニウェトクより発進)。

 これらの機体が、五月十一日二三〇〇時を期してクェゼリン環礁沖に遊弋中の米艦隊に一斉に襲いかかったのである。

 そして同時に、地上ではクェゼリン守備隊による夜襲が敢行されていた。






 熾烈な砲弾と銃弾の雨を潜り抜けてクェゼリンへと辿り着いた上陸部隊の将兵にとって、クェゼリンの砂地も決して安全な場所ではなかった。

 海軍第六根拠地隊を始めとするクェゼリン守備隊は、上陸した米兵に対して迫撃砲の射撃や手榴弾の投擲を行い、米軍の内陸への進撃を阻止していたのである。そのため、夜になっても米上陸部隊は上陸地点であったクェゼリン島西側の海岸から前進出来ずにいた。彼らはただ、砲弾で出来た穴や自らが掘ったタコツボ陣地の中に蹲って、不安な夜を過ごさなくてはならなかったのである。

 だが、十一日から十二日のかけての夜を命あって過ごせた米兵は、ごく少数であった。

 日本軍守備隊は日暮れと共に新たな行動を開始し、上陸した米兵に逆襲を加えるべく島の西部へと集結しつつあったのである。

 そして、十一日二三〇〇時。

 クェゼリン島に拠る海軍第六根拠地隊第六十一警備隊および陸軍海上機動第一旅団第二大隊から抽出された挺身攻撃隊は、エニウェトクからの航空隊が吊光弾を投下するのを確認すると、自らも照明弾を打ち上げた。

 西海岸への夜襲には、空襲や艦砲射撃を生き残った七両の九五式軽戦車も加わっていた。

 一二〇馬力のエンジン音を響かせながら、七両の軽戦車は歩兵と共に米軍の上陸地点へと突入したのである。

 この時、アメリカ軍はM4中戦車の揚陸はおろか、野砲の揚陸さえ出来ていなかった。小銃を抱えた歩兵のみで、辛うじて海岸を占領していただけであった。

 開戦当初から連合軍戦車に性能を圧倒されていた九五式軽戦車であったが、この夜においては米軍に対して鋼鉄の怪物と化すことが出来たのである。三十七ミリ砲が撃ち込まれるたびに米兵は吹き飛ばされ、あるいは履帯に轢き殺された。


「突撃ぃ!」


 そして、軍刀を振りかざした将校の叫びと共に三八式歩兵銃に銃剣を装着した日本兵たちが米軍の上陸地点へと突入した。

 勇戦する九五式軽戦車に続くように、無数の日本兵が喊声を上げながら突撃する。彼らの額には、「尽忠報国」、「七生報国」、「非理法権天」などと書かれた鉢巻きが巻かれていた。

 たちまち、米軍の上陸部隊は混乱状態に陥ってしまった。

 沖合の艦隊に支援射撃を要請するも、艦隊は艦隊で対空戦闘に忙殺されて地上支援が不可能となっていた。米兵たちは、己が手に持つ小銃と少数の機関銃だけで日本軍の突撃を迎え撃たねばならなかったのである。

 照明弾の光に照らされたクェゼリン島西海岸で、熾烈な白兵戦が展開された。

 九五式軽戦車の突入によって半ば恐慌状態に陥っていた米兵に対して、日本軍は暴力的な統制を保ったまま海岸に突入した。

 先頭を駆ける日本兵が米兵の構えた小銃を三八式歩兵銃の銃身で弾き飛ばし、後続の兵が体勢を崩したその米兵の腹部に銃剣をねじ込む。タコツボに潜む米兵には容赦なく手榴弾を投げ込み、堪らずに後退しようとした敵兵の背中に銃弾を撃ち込んだ。

 至近距離での白兵戦となったため、日本兵も米兵も血生臭い戦闘を展開した。もはや銃撃戦などではなく、ただ持っている得物で相手を刺し殺したり、殴りつけたりする両軍の兵士たちが続出したのである。

 銃剣が血と脂でぬめり、スコップに血と脳漿がこびりつく。

 だが、誰もそのことを気にしていなかった。

 日本兵も米兵も、ただ目の前の敵兵を殺すことに夢中になっていたのである。

 だが、混乱を収拾出来ない米軍は徐々に海岸の一箇所へと押し込められていった。

 七両の九五式軽戦車は一両も撃破されることなく、主砲と機銃を乱射しつつ歩兵部隊と共に米上陸部隊を追い詰めていく。

 日付が十二日へと変わるころには、進退窮まって海へと飛び込んだ米兵を機関銃で掃討するだけとなっていた。

 アメリカ軍兵士たちは必死に沖合の輸送船団を目指すか、環礁内の無人の小島へと泳ぎ着こうとしたのである。夜の暗闇の中で大半の米兵が自らの位置を見失って漂流するか、力尽きて海中に沈んでいった。

 ごくわずかな兵士だけが、装備を失って環礁内の無人島に漂着することが出来ただけであった。

 沖合の輸送船団も夜間空襲を受けて混乱しており、彼らを救助する余裕などなかったのである。

 こうして、上陸作戦初日にクェゼリン島への上陸を果たした部隊は、その日の夜の内に橋頭堡を失って島から撃退されることとなった。






 五月十一日から十二日にかけての日本軍航空隊による夜間空襲、クェゼリン守備隊の逆襲によって、アメリカ軍の作戦計画は修正を余儀なくされた。

 エニウェトクからの空襲によって、オルデンドルフ少将率いる第五四・一任務部隊は戦艦テネシーが魚雷一本を受け、軽巡ローリーは炎上した陸攻に体当たりをされるという被害に見舞われた。さらに輸送船三隻も被雷し、内一隻は沈没を避けるためにクェゼリン環礁の浅瀬に擱座することを余儀なくされた。

 この結果、アメリカ軍はクェゼリン島、ルオット・ナムル島への強襲上陸を一旦中止。クェゼリン環礁内に浮かぶ無人の小島に重砲陣地を据え付け、その支援の下に改めて部隊を上陸させるという方針に転換したのである。

 そのため米軍は十二日を、無人島への重砲陣地構築のために浪費することとなってしまった。

 結局、アメリカ軍は十一日の成果をすべて無にしてしまったわけである。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 一九四四年五月十三日。

 ハルゼー提督率いる合衆国海軍第三艦隊は、東進する日本艦隊を捕捉することに成功していた。

 だが、索敵機がもたらした報告に、ハルゼーは眉を寄せた。


「おい、空母がいないぞ」


 通信室からもたらされた報告は、戦艦二、巡洋艦十隻、駆逐艦多数からなるジャップ艦隊を発見したというものであった。

 だが、空母発見の報告は未だもたらされていなかった。


「こいつらはジャップの前衛艦隊じゃないのか? 索敵機はこの連中の後方までちゃんと探ってきたのか?」


「後方まで確認したようですが、空母らしき艦影は発見出来なかった模様です」


 上官の疑問に、カーニー参謀長が答えた。


「ということは、こいつらは囮か?」


「可能性はあります。南方、ないしは北方からジャップ機動部隊が接近している可能性があります。特に北方は、南太平洋に展開する我が軍基地航空隊の索敵圏外でもありますし、そこに潜んでいる可能性も否定出来ません」


 実際、南太平洋に重爆部隊を展開させ、ガルバニック作戦でマーシャル近海に艦隊を遊弋させているアメリカ軍であったが、エニウェトク以北、つまりはウェーク島方面の海域は完全に索敵圏外となっていた。

 例えばジャップがトラックから囮となる水上艦隊を出撃させ、機動部隊は本土からマーシャルに向かって南下させれば、アメリカ側は潜水艦による哨戒網でしかジャップ機動部隊を捕捉出来ないことになる。


「しかし、暗号解読の結果、ジャップ機動部隊もトラック諸島に展開しているとハワイの戦闘情報班ハイポは言っておりましたが?」


 情報参謀が、カーニーの言葉に疑問を挟んだ。


「ジャップの偽電に騙された可能性もある。現に、索敵機はジャップの空母を一隻も発見出来ていないではないか」


 航空参謀が反論した。


「一旦、北方の索敵を行う。ジャップの水上部隊など、いつでも叩ける」


 日本の機動部隊との決戦を望んでいたハルゼーは、そう決断した。

 もとより、すでに第三艦隊の空母は五隻しか残されていない。囮と思われるジャップ水上部隊を相手に、貴重な航空戦力を振り向けるわけにはいかないのだ。


「アイ・サー。ただちに索敵計画を組み直します」


 カーニー参謀長はそう返答し、第三艦隊は北方に存在する可能性の高いジャップ機動部隊への対応を始めることになった。






 結論からいえば、ハルゼーも含めた第三艦隊司令部はありもしない日本海軍機動部隊の幻影を追いかけているだけであった。

 こうした錯誤が発生した原因は、大きく分けて二つ、存在していた。

 一つ目は、これまでの日米間の海戦が、基本的には空母決戦から始まっていたという戦訓である。ガダルカナルやインド洋で、何度となく水上艦艇同士の戦闘が行われたことがあるにせよ、それは両軍が空母決戦を行った結果、航空戦力を消耗してしまったために発生したことであった(インド洋での日本海軍第二艦隊の行動は、必ずしもそうとは言い切れない面があったが)。

 二つ目は、アメリカ側が日本海軍の暗号を解読出来ていたことが裏目に出てしまったことである。空母機動部隊である日本海軍第三艦隊がトラックに存在しているというハワイの戦闘情報班の解析結果は、半分正解で半分不正解であった。確かに、トラックには山口多聞中将以下第三艦隊司令部が進出し、母艦航空隊の一部もトラックに進出していた。第十一戦隊など第三艦隊所属艦艇もトラックに存在していた。しかし、翔鶴以下、肝心の空母は本土に留まっていたのである。

 このため、合衆国海軍第三艦隊司令部は“日本海軍空母部隊”という幻影に振り回されることとなったといえよう。

 結果として、ハルゼーら第三艦隊司令部はこの錯誤のために十三日午前中をジャップ機動部隊の捜索で浪費し、結局、一隻の空母も発見することが出来なかった。やむを得ず発見された水上部隊への空襲を決意し、攻撃隊が発艦したのは一四〇〇時過ぎのことであったという。


  ◇◇◇


『本艦より真方位一一〇度、距離一二〇キロに接近する大編隊を探知。ただちに迎撃に向かわれ度』


「了解、誘導感謝す」


 第六〇一航空隊戦闘機隊を率いる納富健次郎少佐は、約一年前のインド洋での空戦とのあまりの差異に、軽く苦笑を浮かべていた。

 一年前、零戦には実用的な無線電話など搭載されておらず、ましてや電探による誘導などほとんど考えられないことであった。

 それが今や、守るべき艦隊から無線電話で敵編隊の存在を告げられ、そして誘導までされている。

 彼自身乗る零戦五四型も、零戦の中で初めて千馬力を超える金星発動機を搭載した零戦の最新型であった。

 零戦は二一型から二段過給器付き発動機に換装し装弾数を増加させた三二型、そしてベルト給弾式機銃に換装し航続距離も再度伸した五二型へと発展を遂げ、最終的には一二八〇馬力の金星発動機を搭載した五四型へと至ったのである。

 最新鋭艦上戦闘機烈風の数が未だ十分に揃えられていない帝国海軍にとって、実質的にこの零戦五四型が主力艦上戦闘機であった。

 五四型の航続距離は三二型よりもさらに低下していたものの、ガダルカナル攻防戦最初期のようなラバウル―ガダルカナル間往復といった状況は生じないと判断され、海軍内部では特に問題視されていなかった。

 実際、航続距離が低下したといわれるが、それでも落下増槽を付ければ巡航速度で約二六〇〇キロの航続距離を誇るのだ。問題視されていないのは当然であった。

 武装は九九式二号二十ミリ機銃二門、三式十三ミリ機銃二門と烈風とほぼ同等の装備をしており、最大速度は烈風に及ばないものの、それでも時速五七二キロと零戦の中では最速である(それでも、米軍の主力戦闘機であるF6Fヘルキャットの時速約六〇〇キロには及ばないが)。

 今、大和以下第一遊撃部隊の上空には、零戦五四型で占められた直掩戦闘機隊が存在していた。

 翔鶴、瑞鶴、飛龍からなる第一航空戦隊所属の第六〇一航空隊戦闘機隊は、八十一機の零戦五四型を保有している。ここに、ポナペ島に展開していた第二八一航空隊の零戦隊が加わり、合計で一〇〇機以上の戦闘機が第一遊撃部隊の上空を守る任務に就いていたのである(当然、一度に一〇〇機が存在しているわけではなく、交代で上空直掩を担当している)。

 納富率いる四十八機の零戦隊は、大和からの誘導に従って高度六〇〇〇メートルを飛行していた。

 やがて、前方の空に黒い芥子粒のようなものが見えてくる。

 納富は素早く無線で命令を伝えた。


「グラマンは瑞鶴隊と翔鶴隊が相手をする。残りは降爆と雷撃機を仕留めろ。以上」


 彼は無線電話を切ると、落下増槽を捨てて機銃の安全装置を解き、機体を加速させた。

 納富自身も所属する瑞鶴戦闘機隊と翔鶴戦闘機隊が、それに続いてゆく。

 敵攻撃隊の護衛戦闘機も、こちらに気付いたのだろう。速度上げて、急速に接近してくる。相対速度は、すでに時速一〇〇〇キロを超えているに違いない。

 日米の編隊はあっという間に交差し、そして空戦が始まった。






 五月十三日、この日、第一遊撃部隊は二度にわたる空襲に見舞われた。

 第一次空襲は、一五三〇時ごろから始まった。この時、ハルゼーの放った攻撃隊の数は戦闘機も含めて六十八機(戦闘機二十九、爆撃機二十三、雷撃機十六)であった。

 第二次空襲は、すでに日が傾きつつあった一六一〇時ごろから開始された。来襲した敵機の数は、四十五機(戦闘機二十一、爆撃機十五、雷撃機九)。

 第二次空襲が開始された時点で納富隊長率いる零戦隊は機銃弾をほとんど消耗していたものの、ポナペ島から緊急発進した残りの戦闘機隊が駆け付け、納富隊と交代で第一遊撃部隊の上空支援に当たった。


「魚雷、艦尾に抜けました!」


「舵戻せ!」


「もどーせー!」


 そして、空襲が完全に終結したのは、空の彼方が茜色に染まりつつある一六四〇時ごろのことであった。

 大和防空指揮所に立っている森下信衛艦長は、緊張を解いて長く息をついた。

 硝煙の臭いが、徐々に後方に抜けていく。

 甲板上では、四式四十粍機銃から吐き出された薬莢を機銃員たちが海中へと投棄していた。大和は対空火器を大幅に増強するにあたり、ほとんどの機銃をボフォース四〇ミリ機銃を国産化した四式四十粍機銃に換装していた(武蔵など一部の艦艇も、同様の改装を受けている)。今回の空襲が四〇ミリ機銃の初陣となったが、森下の見る限り、二十五ミリ機銃よりも敵機に対して効果的な射撃を行えていたようである。

 やはり、口径が大きければそれだけ敵機に与える損傷が大きいからだろう。


「少なくとも、このふねは今日を無傷で切り抜けられたな」


 森下は満足そうに呟くと、胸ポケットから取り出した煙草をふかし始めた。帝国海軍最強の戦艦を守り抜いた達成感からか、その味はいつもより数段美味であった。






 一方、艦橋下部に存在する戦闘指揮所では、空襲による被害を集計し終えた小柳冨次参謀長が栗田健男中将に報告を行っていた。


「二派にわたる空襲による被害は、武蔵に爆弾二発、陸奥に爆弾一発が命中したのみです。陸奥は第一缶室の換気口付近に被弾したため、一時三軸運転を余儀なくされましたが、現在は復旧しています」


「戦闘機隊が奮戦してくれたおかげだな」


 栗田中将は安堵の息を漏らした。

 艦隊が落伍艦を出さずに済み、損害自体も最小限度に抑えられたことは、上空直掩に当たっていた零戦隊がいたからこそであった。

 また、来襲した敵機の数からして、米機動部隊はだいぶ戦力を低下させているようであった。基地航空隊がやってくれたのだろう。

 これならば、戦力を維持したままクェゼリンに突入することが出来そうであった。

 栗田は空襲で乱れた陣形の再編を命じると、第一遊撃部隊は再びクェゼリンへの進撃を開始したのであった。

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