48 恐怖の島

 黒煙立ち上る目の前の島は、すべての生物が死に絶えたように静かであった。

 海を掻き分けるように進む上陸用舟艇や水陸両用装軌車(LVT)に乗ったアメリカ軍将兵たちは、緊張とともにごくりと唾を飲み込む。

 クェゼリン環礁最大の島、クェゼリン島。

 マーシャル諸島における日本軍最大の軍事的拠点となっているはずの島は、黒煙の下で沈黙を守り続けている。

 上陸前の攻撃準備は念入りに行われた。

 前日の空襲に加え、早朝からはオルデンドルフ少将率いる第五四・一任務部隊の戦艦三隻を中心に、クェゼリン環礁に浮かぶ各島へと入念な艦砲射撃が実施されている。戦艦や巡洋艦を中心に、およそ三万発もの砲弾が珊瑚礁の島々へと撃ち込まれ、その投弾量は一ヘクタールあたり二十五トンという膨大なものであった。

 その後一旦、艦砲射撃は中断され、ロケット弾を搭載した航空機によって、艦砲射撃では破壊しきれなかった地上施設への攻撃が加えられた。艦砲射撃を中断したのは、弾着による黒煙が航空攻撃の妨げになるからである。

 さらにアメリカ軍はこれら空襲と艦砲射撃に加え、ロケット砲搭載上陸支援艇(LCI)を初めて実戦投入し、島を鋼鉄の暴風吹き荒れる場所へと変えていた。

 アメリカ側のとある従軍記者は、「島内のジャップはすべて死んでいるだろうと思った」と、この時の様子を書き記している。

 それほどまでに、米軍の事前攻撃は凄まじいものであった。

 そうした上陸前の攻撃が済むと、米軍は環礁内に掃海艇を侵入させた。環礁内に上陸用舟艇のための航路標識、回頭点標識を設置するためである。

 しかし、猛烈な砲爆撃にも関わらず、クェゼリンの砲台は生き残っていた。環礁内に侵入した掃海艇と、その護衛の駆逐艦に対して砲撃が加えられ、アメリカ側は驚愕することになる。即座にメリーランド以下支援艦艇の艦砲射撃が再開されて、この砲台は沈黙させられた。

 しかし、この砲撃は米艦艇に一切の損害を与えられなかったものの、合衆国の各級司令官たちに一抹の不安を抱かせた。

 潜水艦の雷撃によって、護衛空母リスカム・ベイがムリニクス司令官やウィルトジー艦長を道連れに爆沈したのは、ほんの数時間前のことである。第五三・三任務部隊は、このために指揮系統の混乱や対潜警戒などで時間を浪費し、予定時刻通りの航空攻撃を行うことが出来ていなかった。

 そのため、事前の作戦計画よりも攻撃時刻は一時間以上、遅れることとなった。

 そこへ来て、クェゼリンからの砲撃である。

 この思わぬ反撃によって上陸予定時刻はさらに三〇分ほど遅れることとなった。

 そうした入念な準備攻撃の末、クェゼリン攻略部隊である陸軍第七師団、海兵第四師団の将兵を乗せた上陸用舟艇は島へと接近を続けていた。

 この時、米軍はクェゼリン島の西側からの上陸を目論んでいた。この地点は環礁の内側に位置しているため波が穏やかで、かつ地形的に日本軍からの十字砲火を受けにくい地点であった。

 先陣を切るのはチャールズ・コーレット陸軍少将率いる陸軍第七師団麾下の二個連隊であった。

 その他にも、クェゼリン環礁北部のルオット島、ナムル島にも上陸部隊が向かっていた。

 上陸用舟艇やLVTに乗り込む海兵隊や陸軍の将兵たちは、緊張しつつも後は廃墟を掃討するだけになるだろうと、島の様子を見てどこか楽観的な気分を抱いていた。あるいは、そう思い込むことで死の恐怖を押さえ込もうとしていたのかもしれない。

 一九四四年五月十一日一〇三〇時。

 上陸第一波を乗せた舟艇群が、攻撃発起線を越えてついに上陸作戦を開始する。

 その刹那のことであった。

 不意に、舟艇の側に水柱が立った。

 轟音とともに硝煙混じりの水が噴き上がり、舟艇を激しく揺らしていく。

 それが合図となったのだろうか、生物が死に絶えていたと思われていたクェゼリン島は火山の噴火の如き猛烈な射撃を開始した。

 島へと接近を続ける舟艇の合間に、何本もの水柱が立ち上る。不運な舟艇が直撃弾を受け、乗っていた兵員諸共に爆散していく。

 それでも、上陸部隊は前進を続けた。

 だが、ここで彼らは一つの障害にぶつかった。

 環礁内の浅瀬に上陸用舟艇が船底を乗り上げ、それ以上、前へ進めなくなったのである。まだ、海岸線まで一三五〇メートルもある地点であった。


「降りろ、早く降りるんだ!」


 舟艇の前扉が開かれ、指揮官の怒声とともに第七師団の将兵たちが次々と海に飛び込んでいく。

 砲撃の中で身動きの取れなくなった上陸用舟艇など、ただの的でしかない。

 だが、それで海に飛び込んだ将兵の安全が確保出来たわけではない。

 彼らは胸まで海に浸かり、小銃を高く掲げて海岸を目指さねばならなかった。

 そこに、海岸から機関銃の猛烈な射撃が加えられる。

 薙ぎ倒される者が続出し、浅瀬の海はたちまち赤色に染まっていった。さらに、味方の砲撃で珊瑚礁に空いた大穴に落ち込む者も多く、装備を背負ったままであるために浮き上がることが出来ずに溺死する兵士も続出した。


「くそっ、海軍の連中は何をやっていたんだ!」


 そうやって怨嗟の叫びを上げる兵士も、次の瞬間には機関銃によって上半身と下半身を切断された死体を海に浮かべることになる。

 日本軍からの機関銃射撃は、その一部が異様に威力が高く、また発射速度も速かった。

 実はこの時、日本軍守備隊の一部はドイツから輸入したグロスフスMG42機関銃を装備していた。クェゼリン環礁にはこの機関銃が八門(一個機関銃中隊相当)配備され、内、四門がクェゼリン島に据え付けられていたのである(残りは二門ずつ、ルオット島とナムル島に配備されていた)。欧州戦線では「ヒトラーの電動ノコギリ」と称されるこの機関銃は、一分間に一二〇〇発以上の発射速度を誇っていた。

 その上、航空部隊の後退に伴い、修理不能と判断されて放置されることになった損傷機から、守備隊は流用出来る装備をすべて取り外して、島の防備に充てていた。この中には、零戦や一式陸攻に装備されていた二〇ミリ機銃も含まれている。

 これら多数の機銃が、迫撃砲などとともに海岸を目指す米兵に撃ち込まれたのである。

 上陸用舟艇は海岸線から遙かに離れた位置で兵員を下ろさざるを得なくなっていたが、一方で水陸両用装軌車は珊瑚礁の浅瀬を越えて、海岸に接近しつつあった。しかし、装甲が薄いために二〇ミリ機銃に狙われるとひとたまりもなく蜂の巣にされ、内部に死体を詰め込んだまま浅瀬を漂流する車両が続出する。

 上陸第一波は海岸に辿り着く前から大混乱に陥り、舟艇群は日本軍の射撃から逃れようと船を右へ左へと激しく旋回させた。そうした回避行動が上陸部隊にさらなる混乱を引き起こし、海辺は死体から流れ出る血の赤と、舟艇群の引く航跡の白が入り乱れることとなる。


「降りろ降りろ!」


 それでも、開始されてしまった上陸作戦を止める者など誰もない。

 上陸用舟艇は次から次へと将兵を海へと吐き出し続ける。

 前扉が開かれた瞬間、舟艇の前部に乗っていた兵士数名が機銃によって薙ぎ倒される。後部に乗っていた兵士が海へと飛び込む頃には、そこはすでに味方の死体が無数に浮かぶ赤い海へと変っていた。

 それでも、第一波の一部は何とか海岸に取り付くことに成功した。

 だが、それだけであった。

 日本軍が海岸付近に築いた椰子の木の防壁に阻まれて、それ以上、内陸へ前進することが不可能となってしまったのである。

 防壁を乗り越えようとすれば即座に内陸部に潜んでいた日本兵の射撃を喰らい、ここでもまた米軍は死体を量産することになってしまった。

 彼らは防壁の影に隠れて、じっと蹲っているしかなかったのである。

 そうして米兵が隠れている場所に日本兵が手榴弾を投げ込んで、米軍の死傷者数は加速度的に上昇していった。






 揚陸指揮艦ロッキー・マウント艦上で、リットモンド・K・ターナー中将とホランド・M・スミス少将は、広げられた地図を前に険しい表情を浮かべていた。

 クェゼリン島への上陸第一波五〇〇〇人はその三分の一以上が死傷し、負傷者の後送などもあってすでに戦力としては頼れなくなりつつあった。

 ルオット島、ナムル島の戦況もかんばしくはない。

 それに加えて、クェゼリン環礁の東方、ウォッゼやマロエラップにも合衆国軍は同時に上陸作戦を開始していたが、どこの島の戦況もクェゼリン島と大差がなかった。


「上陸前の攻撃が不十分であったから、このような事態になっておるのだ!」


 苛立たしげに、スミス少将は拳を机に叩き付ける。


「我々は入念な事前攻撃を行った」一方のターナー中将も、憤然として言い返す。「そもそも、上陸部隊の運用方法に問題があるのではないか? 海岸線に辿り着けぬ上陸用舟艇に、機関銃に蜂の巣にされるLVT」


「提督は、我が海兵隊を愚弄するおつもりか!?」


 上陸支援艦隊の司令官であるターナーと、上陸部隊の指揮官であるスミス。

 二人は上陸作戦における指揮権限を巡って対立を繰り返しており、互いに我の強い性格がその対立に拍車を掛けていた。

 些細な切っ掛けで口論が始まることは珍しくもなく、今は上陸作戦が頓挫しかけているとなればなおさらであった。


「私は事実を指摘したまでだ。ガダルカナルで負け、今またジャップの迎撃の前に為す術なく海岸線で縮こまっているのが、貴殿ら海兵隊ではないか」


「そもそもガダルカナルの敗因は、海軍の不甲斐なさが原因であろうが! 海軍がジャップの艦隊に負け、補給路を断たれたが故に我ら海兵隊が本来の力を発揮出来なかっただけだ!」


「そもそも、せっかく奪取した飛行場を奪い返されたことが、海軍が苦境に立たされた原因なのだ」


「その前に上陸船団を壊滅させられ、空母も撃沈されたのは海軍であったろうが!」


 マーシャル各島で合衆国将兵が出血を強いられている間にも、二人の面子を賭けた口論は続いていく。


「そもそも、ハルゼー提督の機動部隊はどこにいるのだ!? あの艦隊には十隻近い空母と四隻の戦艦がいたはずだ。何故、上陸作戦を支援しない!?」


「ハルゼー提督はジャップの基地航空隊の撃滅と、連中の艦隊の迎撃に向かっている。それこそ、少将が言うように上陸船団が壊滅させられるのを防ぐために、な」


「その上陸部隊が、今まさに苦境に陥っているのだ。ジャップの基地航空隊を撃滅しようが、ジャップの艦隊を壊滅させようが、それで上陸作戦が失敗すれば本末転倒ではないか!? いったい、海軍は何を考えておられるのか!?」


「では、少将はこのままジャップの航空基地と艦隊を放置せよと言われるのか? それこそ、この上陸作戦は失敗に終わるであろうよ」


 売り言葉に買い言葉といった調子で続いていく口論を、幕僚たちは止めることも出来ずに互いに顔を見合わせるしかなかった。


  ◇◇◇


「存外、迎撃は上手くいっております」


 クェゼリン島の司令部で、第六根拠地隊司令官・秋山門造少将が第四艦隊司令長官・小林仁中将に報告していた。


「そうか、それは僥倖」小林中将は、ほっとしたように頷いた。「ルオット、ナムルの戦況はどうだ?」


「砲撃で電話線が切断されたため、詳しいことは判りませんが、まだ米軍の旗が掲げられていないところを見ると、何とか持ち堪えているようです」


「五日だ。五日は持たせるのだ」


 小林中将は厳とした口調で言った。


「それまで我々は米上陸船団をクェゼリンに釘付けにし、第二艦隊が奴らを粉砕するのを見届けるのだ」


 そのための、「捷一号作戦」であった。

 今、ここで自分たちが持ち堪えれば、大和や武蔵の主砲が島の周囲を遊弋する米艦隊を吹き飛ばしてくれる。

 守備隊の将兵は、それだけのために自分たちがここにいるのだと理解している。自分たちの奮戦に、そして死に意味があるのだと、理解している。

 だからこそ、一見、孤立しているようにしか見えないクェゼリン守備隊の士気は高かった。

 クェゼリンの守備隊は、第六根拠地隊麾下の海軍陸戦隊と陸軍の海上機動第一旅団第二大隊を中核として、クェゼリン島に約六〇〇〇名、ルオット・ナムル両島に併せて約二〇〇〇名が配置されていた。

 セメントなどの物資はマリアナに優先的に送られたため、常時、不足気味であったが、それでもクエェリンには入念な築城が行われていた。

 なけなしのセメントは地下司令部の建築に使われ、島の至る所に設置されたトーチカは椰子の丸太を組んでその上に砂を被せたものであった。この他、鉄板を組んで造った急造トーチカなども存在している。そして、トーチカ同士が地下壕で結ばれるなど、島内には強固な防御陣地が築かれていた。

 さらに海岸には上陸用舟艇の接近を妨害するための防塞が組まれている。

 各トーチカは射線が有機的に連携しており、死角がないよう計算され尽くした配置となっていた。

 そして、いざ米軍の攻撃が始まると、この椰子丸太のトーチカが意外な防御力を発揮した。覆いとして被せられた砂が、砲撃や爆撃の衝撃を吸収してしまったのである。戦後、数少ない守備隊の生存者は「掩体やタコツボに身を潜めていれば敵の砲爆撃は怖いものではなかった」と証言しているほどであった。

 このために、アメリカ側の印象と違い、激しい砲爆撃にも関わらずクェゼリンの守備隊はほとんど戦力を維持したまま、米軍の上陸部隊を迎撃することが出来たのである。






 後にアメリカ軍から「恐怖の島」と呼ばれることになるマーシャル攻防戦は、まだ始まったばかりであった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 今まさに熾烈な戦闘が繰り広げられているマーシャル諸島から北へ数千キロ。

 東京霞ヶ関の赤レンガ、軍令部では各地から舞い込む情報の精査と伝達に追われていた。ひっきりなしに電話が鳴り響き、情報を戦況図に描き込むための怒声が室内に響き渡る。


「マーシャルの航空隊の状況はどうか?」


「第一遊撃部隊と第二遊撃部隊の推定位置は?」


「各島の戦況はどうなっている?」


 作戦担当部署たる軍令部第一部では、宇垣纏第一部長が刻々と明らかになる戦況に鋭い目を向けていた。

 昭和十九年五月現在における第一部の主要幹部は、第一部長が宇垣纏中将、第一部長直属が藤井茂大佐、第一課長が山本親雄大佐、第一班長(作戦班長)が榎尾義男中佐、第二課長が山本親雄大佐(兼任)であった。


「しかし、米軍の兵力には凄まじいものを感じてしまいますな」


 宇垣と同じく、広げられた太平洋の地図を見ていた山本課長が言う。


「ソロモン・ニューギニア方面で攻勢をかけつつ、マーシャルにも大兵力を展開。さらにマーシャルでは東部のウォッゼ、マロエラップと西部のクェゼリンへの同時上陸作戦の敢行。これらの兵力が現状のマリアナを直撃していたと考えると、空恐ろしいものを覚えます」


「うむ、そうだな」


「問題は、第一、第二遊撃部隊の攻撃目標をどうするか、です」


 すると、同じように戦況の動きを見ていた藤井大佐が口を挟んだ。


「現在、敵上陸部隊はクェゼリンとマロエラップ、ウォッゼに分散しています。各個撃破を狙いたいところではありますが、両地点の距離的な問題から困難が予想されます」


 クェゼリンとウォッゼ、マロエラップはそれぞれマーシャル諸島を構成する環礁ではあるが、両地点の距離は二〇〇キロ以上離れている。航空機であれば巡航速度でも一時間程度の距離ではあるが、水上艦隊である第一、第二遊撃隊にとっては相当の距離である。

 米軍にとってもマーシャル東部と西部の同時攻略というのはそれなりの負担であろうが、それを実現出来てしまうだけの兵力が存在するからこそ、上陸作戦を敢行したのであろう。

 もともと、捷一号作戦の立案段階において、米軍がどこに上陸してくるのかを日本海軍は明確に予想することが出来ていなかった。これは防御する側の弱みともいうべきもので、マーシャル・ギルバート諸島には、攻略目標となり得る島々が無数に存在していたことがその原因であった。

 攻撃側は自由に攻略目標を選定出来る一方、防御側は常に受け身に回らざるを得ないのである。

 それでも、マーシャル・ギルバート諸島各地に展開する守備隊は、それぞれの島に入念な防御陣地を築いていた。

 マリアナの防備を優先させていた軍中央にしても、セメントなどの物資は潤沢に送ることは出来なかったが、その代わりにドイツから輸入した最新鋭の兵器を優先的にこれらの島々の守備隊に配備した。マリアナには、また改めてドイツから輸入するか、それをライセンス生産したものを配備すればよいと考えていたのである。

 これによって、マーシャル・ギルバート諸島は、十全とは言えないまでも相応の防備を以て米軍の上陸を迎え撃つことが出来たのである。

 ただし、問題は米軍がマーシャル東部と西部を同時に攻略しようとしているという現実であった。

 捷一号作戦立案段階において米軍の上陸地点を絞りきれなかった海軍であるが、それでも可能性の高い地点を選出することはしていた。

 マーシャル諸島であれば、軍事的中心地たるクェゼリン。

 ギルバート諸島であれば、政治的・軍事的中心地たるタラワ。

 それでも、作戦立案関係者の意見は一致していなかった。堅実な米軍ならばまずはギルバート諸島を攻略して前進基地を築いてからマーシャル攻略に取りかかるだろうと主張する者、マーシャルに来寇するにしてもマーシャル諸島の外郭地域たるウォッゼ、マロエラップを攻略してからクェゼリン攻略に取りかかるだろうと主張する者、様々であった。

 しかし現実には、米軍はクェゼリンとウォッゼ、マロエラップの同時攻略を目論んでいる。

 実はこの時、日本側の与り知らぬことではあるのだが、アメリカ側でも上陸地点の選定については意見が分かれていた。当初はマーシャル諸島を直接攻略することに反対していたニミッツ長官以下太平洋艦隊司令部であったが、マーシャル攻略がキング作戦部長の意向などもあって確定すると、司令部内でマーシャルのどの地点を攻略するかで意見が分かれたのである。

 ニミッツはクェゼリンとウォッゼ、マロエラップ両地点の同時攻略を主張し、再編なった海兵隊の実戦投入を強く主張していたホーランド・スミス少将がこれに同調した。一方、ガダルカナル攻防戦の経験もあるリッチモンド・ターナー中将は、まずウォッゼ、マロエラップを攻略してからクェゼリン攻略に取りかかるべきとの慎重な意見を出している。

 結局、この議論はそもそもマーシャル攻略が決定された経緯、つまり日本軍との戦闘で受けた損害を速やかに回復してマリアナ攻略に取りかかる、というキングの対日作戦構想にニミッツ案が合致することから、マーシャル攻略作戦にはニミッツ案が採用されたのである。ウォッゼ、マロエラップ攻略で損害を負っては、そもそもクェゼリン攻略そのものが危ぶまれると認識された故である。

 マーシャルに大兵力を投入することで一気呵成に攻略し、次のマリアナ攻略に備える。

 それが、アメリカ側の目論見であった。


「第一、第二遊撃部隊の攻撃目標をクェゼリンとウォッゼ、マロエラップで分けるのは?」


「駄目だ。それでは逆にこちらが各個撃破される恐れがある」


「第一遊撃部隊には大和と武蔵がいるのだ。そうむざむざとやられはせんだろう」


「守備隊は艦隊が米輸送船団を吹き飛ばしてくれると信じているから、従容として死が確実な任務に就いているのだ。ここで彼らの献身を裏切るわけにはいかん」


 部員たちの間で、議論が重ねられていく。

 宇垣も内心、迷っていた。当初の作戦計画通り、艦隊をクェゼリンに突入させるか。それともどちらかをウォッゼ、マロエラップに向かわせるか。

 感情論でいえば、守備隊の献身に報いるためにも後者をとりたい。しかし、それは各個撃破される危険性を孕むものだ。ここで艦隊が徒に損害を蒙っては、マリアナ決戦の際に戦力が不足する可能性が出てしまう。

 それに、もともと守備隊は壊滅することを前提として配置したのだ。今更、感情論に走って作戦計画を崩すのは如何なものか。


「目標の分散は許可しない」


 すると、第一部の作戦室に冷厳な声が響き渡った。


「第一、第二遊撃部隊は当初の作戦計画通り、クェゼリン突入を期して進撃を続けさせよ」


「末次閣下」


 現れたのは、今年の三月に現役復帰とともに軍令部総長に就任した末次信正大将であった。すでに齢六〇を過ぎて顔には老いが浮かんでいるが、未だ鋭い眼光を発する瞳は禿頭と併せて衰えぬ威厳を感じさせた。


「戦力の分散は、我々指揮官がもっとも忌むべきものである。米軍がマーシャル東部と西部の同時に上陸したのは、あるいは我らにそうした愚を犯させるためであるやもしれぬ」


 統帥権干犯問題やその後の加藤寛治内閣運動に見られるように、末次は政治的には問題のある行動を多々起こしている人物ではあったが、一方で戦術家としての能力には優れていた(もっとも、戦略家ではなかったところに、彼の軍人・政治家としての限界があったのだろうが)。

 少なくとも、山本五十六海相が末次に絶対に政治に関わらせないように目を光らせている現状においては、今のところ問題となる行動を起こしていない。そもそも、かつては政治家の道を蹴ってまで軍令部総長の椅子に座ることに憧れていた末次である。就任以来、総長としての職務を精力的にこなしていた。


「GF司令部には作戦は当初の計画通りに遂行するよう、伝達せよ。クェゼリンの敵を撃滅し、なお戦力に余力がある場合にのみ、ウォッゼ、マロエラップへ突入させるのだ」


「かしこまりました」


「念の為に、GF司令部にはウォッゼ、マロエラップ突入が行われた際の燃料消費を計算して油槽船を回すように、併せて指示するように」


 末次の指示を受け、部員の一人が日吉の連合艦隊司令部との直通電話を取った。


「それにしても、漸減戦を行うことを想定していた地域で、このような戦いを指揮することになろうとはな」


 戦況図に近寄った末次は、苦笑交じりにそう呟いた。

 そもそも、マーシャル諸島は日本海軍の対米作戦構想の根幹であった漸減邀撃作戦の内、敵艦隊の減殺を目的とする漸減戦を行うことを想定していた地域であった。しかし今、そのマーシャル諸島で行われている作戦は、艦隊決戦の前哨戦たる漸減戦ではなく、輸送船団を目標とした突入作戦である。

 道中、戦闘は想定しているものの、それは戦前に想定されていたような漸減邀撃作戦ではない。どころか、待ち構える側であったはずの日本艦隊が、逆に米艦隊の待ち受ける場所へと向かっている。

 戦況図に示されている彼我の兵力。

 そこには水上艦隊もあれば潜水艦部隊もあり、さらには航空部隊に、米軍に至っては空母機動部隊すら存在している。


「しかし、敵がマーシャルに上陸したとなれば、ギルバートの守備隊は完全に遊兵化することになるな」


 戦況図を見て、末次はそのことに気付いた。

 ギルバート諸島のタラワには、柴崎恵次少将率いる第三特別根拠地隊、佐世保第七特別陸戦隊が存在している。マキンにも兵員は配置されていたが、そのほとんどは航空基地要員であり、米重爆による空襲が頻発化していたためにすでに引揚げていた。

 つまり現状、ギルバートの守備隊はタラワに集結しているわけである。

 マーシャル諸島が陥落すれば、これら守備隊は完全に孤立し、補給もままならなくなる。四〇〇〇名以上の兵士が、捨て石とされるわけである。

 自分が軍令部総長に着任する前にすでにほとんど決定されていた作戦計画であるとはいえ、やはり海軍作戦の最高責任者として、何も思わないわけではない。

 そこでふと、末次は戦況図に描かれたある部隊に注目した。

 ポナペ島へ航空機機材などを輸送するための船団の護衛を担当している、第一水雷戦隊である。


「GF司令部に連絡し、一水戦によるタラワ守備隊の収容を検討させるのだ。今は米軍の目がマーシャルに釘付けになっている。この隙を突き、第一、第二遊撃部隊のクェゼリン突入に呼応して行動を開始出来るよう、準備を整えさせるのだ」


「しかし、それでもやはり一個水雷戦隊で敵勢力圏で孤立した部隊を救出させるのは、危険では?」


 宇垣がいつも通りの無表情のまま疑問を呈した。


「収容作戦の詳細については、現地の一水戦司令官の木村昌福少将に一任すればよい。併せて、ラバウルからの撤退も、陸軍との協議の上で行うべきだろう。敵上陸船団の撃滅という捷号作戦の目的がマーシャルで達成出来るのならば、他の地点で徒に戦力を消耗させる必要はあるまい」


「かしこまりました。直ちに検討に取りかかります」


 宇垣としても、末次の方針は妥当なものだろうと思っている。

 マリアナでの決戦を意図している以上、その他の地点で余計に戦力を消耗させる必要はない。すでに米軍が上陸しているクェゼリンやウォッゼ、マロエラップの犠牲は覚悟の上とはいえ、それ以外の守備隊に関しては出来る限り、撤退させる方針を採るべきだろう。

 問題は、それが実現可能な作戦であるのか、ということだ。

 未だ米軍の勢力圏下にないラバウルは、比較的簡単に行えるだろう。しかし、ギルバート諸島はどうであろうか?

 艦隊がクェゼリンに突入し、一時的にせよ、米艦隊をマーシャル周辺から退かせることが出来れば、可能ではあるかもしれない。

 一縷の希望に賭けて、検討する余地は確かにあるだろう。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 マーシャルの戦いは、何も陸上だけで行われているものではない。

 一九四四年五月十一日の黎明、ポナペ島の飛行場では何十もの発動機が回転し、周囲の大気を震わせていた。


「ソロモン組が護衛についてくれるとは、何とも心強いものだな」


 第七二二航空隊飛行長・三原元一少佐は暖気運転を続ける一式陸攻に向かう傍ら、第二五一空の笹井醇一少佐に語りかけていた。


「我々としても、陸攻隊の双璧と謳われる三原少佐とともに出撃出来ることは光栄ですよ」


「ははっ、檜貝の奴は陸爆乗りになっちまったから、今じゃあ俺一人だがな」


 三原元一少佐は、檜貝襄治少佐とともに「陸攻隊の双璧」としてその技量や指揮官としての能力を讃えられていた人物である。二人とも、ラバウルに配属されて以来、幾度となく出撃を繰り返し戦果を挙げてきた。

 とはいえ、今では彼の言うとおり、対をなす檜貝襄治少佐は陸爆隊、つまりは銀河隊指揮官としてマリアナ方面の航空隊の練成に努めているところであり、名が実体を表さなくなりつつある。


「まあ、その分、俺が陸攻隊の先頭に立たなければならんわけだが。そういう意味では、今回、与えられたあの爆弾は、昼間雷撃が最早成り立たなくなっていた陸攻隊にとって一つの僥倖だな」


「地中海で英戦艦を一撃で屠り去ったとかいう、独国の開発した誘導滑空爆弾ですか?」


「ああ」三原は頷いた。「内地の七二一空“神雷部隊”と我が七二二空“天雷部隊”は、そのために創設された部隊だからな」


「では、必ずや、陸攻隊を米機動部隊の上空まで送り届けて見せましょう」


「歴戦の猛者揃いの二五一空だ。大船に乗ったつもりでいさせてもらおう」


 互いにソロモンの空を飛び続けた二人の搭乗員は、笑みを交わし合ってそれぞれの愛機へと向かう。

 そうして、彼ら歴戦の搭乗員たちを乗せた機体は、暁の空へと飛び立っていったのだった。

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