47 捷一号作戦発動

 空母バターンの火災は、収まるどころか時と共に拡大していった。

 彗星の投下した五〇〇キロ徹甲爆弾は彼女の機関部を破壊すると同時に、消火装置の電源も爆砕していたのである。これにより、被弾から三〇分後には火災は魚雷庫にまで延焼、搭載魚雷が誘爆し、バターンは完全に推進力を失うことになった。

 軽巡モービルや複数の駆逐艦が彼女を救うべく消火活動に従事していたが、午後に至ってもバターンの火災は一向に収まる気配を見せなかった。

 このため、自由な艦隊行動が出来なくなったリーブ少将の第三群は、この日の午後に行われた第五八任務部隊によるクェゼリン、ヤルート空襲に参加することが出来なかった。

 バターンの救援活動は、周辺で日本海軍潜水艦と思しき反応が見られたことから、さらに難航した。艦隊が対潜警戒のために、バターンの救援活動を一時中断しなければならなかったからである。

 結果として、この救援活動の中断がバターンの死命を決してしまった。

 五月十日一五二三時、ついに火災は弾薬庫と航空燃料庫へと到達、バターンは消火活動に当たっていたモービルらを巻き込んで大爆発を起こしたのである。

 戦艦ニュージャージーでバターン爆発の報告を受けたハルゼー大将は、怒りを押し殺した声で彼女の処分を命じたという。

 こうして合衆国海軍は、ガルバニック作戦における最初の喪失艦を出したのである。






 一方、マーシャルに展開していた日本海軍基地航空隊の損害は、航空戦初日にして甚大であった。

 艦攻部隊であった第五三一航空隊は、稼働可能な天山が八機に激減。艦爆部隊である第五五二航空隊の彗星も十三機と、その戦力を大幅に低下させていた。

 零戦隊のみは未だ一五〇機以上の兵力を維持していたが、彼らも早晩、壊滅するであろうことは想像に難くなかった。

 さらに索敵機は米機動部隊の後方に上陸部隊を乗せていると思われる大輸送船団を発見。このままではマーシャルの航空隊は上陸前の空襲やその後の艦砲射撃、地上戦に巻き込まれて全滅してしまう恐れすらあった。

 出来るだけ長くマーシャル諸島で米軍に抗戦し、時間稼ぎをしなければならない現状では、航空隊をマーシャルに留めておくことは出来なかった。

 十日夕刻、クェゼリンに進出していた第四艦隊司令部は、マーシャル方面の航空隊を再編のためにエニウェトク、ポナペ方面へと退避させる決断を下した。マロエラップなど各地に存在している航空基地の基地要員たちも、八〇二空の二式大艇などを利用して、急ぎエニウェトク、ポナペ方面へと引き揚げさせた。

 マーシャルを巡る攻防戦の第一日目は、このようにして夜を迎えることになったのである。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 五月十日、マーシャル北東に大輸送船団を発見したとの情報は、クェゼリンを経由してトラック泊地の大和へと届いていた。

 そしてそれは内地の大和田通信所も同じであった。

 確認のため数次にわたる航空偵察がなされたが、すべて同じ報告がなされたため、敵上陸船団の存在は確実と判明。

 十日夕刻、軍令部は「捷号作戦実施ノ方面ヲマーシャル・ギルバート方面トス」との命令電を発信、それを受けた連合艦隊は「捷一号作戦発動」の通信を発した。

 一七〇〇時、戦艦大和には各級指揮官と関係科長以上が呼集され、最後の作戦計画の打合せが行われた。

 ただし、この段階では米軍の攻略目標がマーシャルであることは確実視されていたが、どの島に上陸するかまでは判明していなかった。そのため、具体的な突入地点に関しては米軍上陸後にGF司令部から通達されることとされ、ひとまず最も上陸の可能性が高いクェゼリンへ、十五日黎明を期して突入するという方針がGF司令部から伝達されている。

 出撃は明朝〇八〇〇時。

 作戦目的は、敵上陸船団の撃滅。

 主要な作戦参加部隊は、次の通りであった。


  第一遊撃部隊 司令官:栗田健男中将(第二艦隊司令長官)

第一戦隊【戦艦】〈大和〉〈武蔵〉

第二戦隊【戦艦】〈長門〉〈陸奥〉

第四戦隊【重巡】〈高雄〉〈愛宕〉〈摩耶〉〈鳥海〉

第五戦隊【重巡】〈妙高〉〈羽黒〉

第二水雷戦隊【軽巡】〈矢矧〉【駆逐艦】〈島風〉

 第十五駆逐隊【駆逐艦】〈黒潮〉〈陽炎〉〈不知火〉〈霞〉

 第二十四駆逐隊【駆逐艦】〈海風〉〈江風〉〈涼風〉

 第三十一駆逐隊【駆逐艦】〈大波〉〈巻波〉〈長波〉〈清波〉


  第二遊撃部隊 司令官:西村祥治中将(第十一戦隊司令官)

第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉

第十一戦隊【戦艦】〈比叡〉〈霧島〉

第七戦隊【重巡】〈最上〉〈三隈〉〈鈴谷〉〈熊野〉

第四水雷戦隊【軽巡】〈神通〉

 第二駆逐隊【駆逐艦】〈村雨〉〈夕立〉〈五月雨〉〈春雨〉

 第二十七駆逐隊【駆逐艦】〈白露〉〈時雨〉〈夕暮〉〈有明〉

 第三十二駆逐隊【駆逐艦】〈涼波〉〈藤波〉〈早波〉〈浜波〉


  航空支援隊 指揮官:山口多聞中将(第三艦隊司令長官)

第六〇一航空隊(戦闘機隊のみ進出)

第六五三航空隊(戦闘機隊のみ進出)


  支援部隊 司令官:江戸兵太郎少将

第三十一戦隊【軽巡】〈球磨〉

 第四十三駆逐隊【駆逐艦】〈松〉〈竹〉〈梅〉〈桃〉

 第五十二駆逐隊【駆逐艦】〈桑〉〈桐〉〈杉〉〈槇〉

付属【空母】〈神鷹〉〈天鷹〉〈瑞鷹〉〈祥鷹〉


 この作戦において、第一機動艦隊の主力たる空母部隊は当初から参加させないことが決定されていた。

 来たるべきマリアナ決戦のため、空母部隊とその航空隊を温存するためである。ただし、戦闘機隊のみは水上艦隊の上空支援のためトラックに進出しており、現地の航空隊は敵艦隊への攻撃に専念するという方針となっていた。

 なお、第六〇一航空隊は第一航空戦隊の、第六五三航空隊は第三航空戦隊に配備されている航空隊である。

 隼鷹、飛鷹、龍鳳で構成されている第二航空戦隊は、所属の航空隊と共にインド洋に睨みを利かせる必要があることからリンガ泊地に留まっており、作戦には参加していない。

 また、支援部隊となっている第三十一戦隊は、対潜掃討戦を専門に行うために創設された連合艦隊司令部直属部隊であり、捷号作戦に当たっては油槽船の護衛と、所属航空隊による突入部隊の対潜警戒を行う。

 第八艦隊に関しては、発動されたのがマーシャル・ギルバート方面に対する捷一号作戦であったため、参加はしない。

 突入作戦に関する栗田長官の訓示が終わると、一同は冷酒とスルメで乾杯し、作戦の成功を祈った。


  ◇◇◇


 一同の乾杯が終わり解散となった後、栗田は長官室に西村、角田、山口ら主要な司令官を呼んだ。

 すでに可燃物が降ろされた長官室はがらんどうとしていた。


「内地を出る前に、一機艦の小沢長官からシャンパンを託されてな」


 そう言って、栗田は栓を抜いたシャンパンを一人一人の酒杯に注いで回った。


「改めて作戦の成功を祈り、乾杯」


「乾杯」


 集まった司令官たちが唱和し、互いに杯が打ち付けられる。


「いよいよ、大和型二隻が揃った第一戦隊の出撃ですな」


 乾杯が終わると、すぐに司令官たちの談笑が始まった。誰もが、これから死地に赴くとは思えないほどに朗らかな表情をしていた。


「さらには長門型も二隻が揃っている。この艦隊で米艦隊との戦いに挑めるとは、鉄砲屋冥利に尽きるというものです」


 第二戦隊司令官の角田覚治中将は、実に楽しげであった。

 開戦以来、航空戦隊を率いてきた彼であるが、出身は砲術科である。今回、ようやく本来の専門である戦艦二隻で構成される第二戦隊を率いて作戦に参加することが出来、喜びもひとしおであった。


「山口長官、あなたを差し置いて艦隊を率いることになってしまい、申し訳ありません」


 一方、第二遊撃部隊を率いる西村中将は山口中将に対して、すまなそうな顔を向けていた。


「いや、私は航空部隊の指揮をするのが性に合っていますので、お気になさらずに。むしろ、水上部隊指揮官としては西村中将の方が適任でしょう」


「そう言っていただけると助かります」


 今回、第三艦隊司令長官である山口は、航空部隊の指揮のみをとる。艦隊兵力は西村中将の下に第二遊撃部隊として組み直され、第一遊撃部隊に呼応してマーシャル突入を目指すことになっていた。


「必ずや、艦隊を無事に山口中将の下にお返しします」


「私も、西村中将の健闘を祈っております」


 そうして、二人は酒杯を打ち付け合った。


「それにしても、この面子でまた作戦に当たることになろうとは、因果なことだな」


 栗田はボトルの中に残るシャンパンを角田と西村に注いで回りつつ、そう言った。


「昨年の礼号作戦以来ですな」


 角田が懐かしそうに目を細めた。

 インド洋での通商破壊およびオーストラリア西岸の襲撃を目的とした礼号作戦は、主に栗田、西村、角田の三提督が中心となって艦隊を率いていた。作戦は大成功に終わり、連合軍潜水艦基地であるフリーマントルの壊滅と合わせて、その後のインド洋航路の安定化に貢献している。


「ええ、あれは愉快な作戦でしたな。連合軍の狼狽ぶりが目に浮かぶようでした」


 新たに注がれたシャンパンを口にしつつ、西村も笑みを浮かべる。


「今回の作戦も、我々の手で成功裏に終わらせたいものだ」


「ええ」


「必ずや」


 角田と西村は、栗田の言葉に決然と頷いた。


「では、互いの健闘を祈ろう」


 そう言って、三人は再度、酒杯を打ち付け合った。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 一九四四年五月十一日の月は明るかった。

 先日、望月を迎えたばかりの月は、未だ夜の世界を明るく彩ってくれている。


「前方に吊光弾を確認!」


 そして、不意に天に浮かぶ月の下に新たな光源が生まれる。


「ト連送、打て!」


 第七五五空指揮官・石原薫少佐の声が、一式陸攻の操縦席に鋭く響く。

 マーシャルを巡る航空戦は、第一日目の夜を迎えてもなお継続されていたのである。

 エニウェトクやクェゼリンへと後退していた陸攻隊が、再び米機動部隊への夜間空襲を敢行したのだった。

 指揮官からのト連送を受信した一式陸攻が、発動機の轟音を響かせて一斉に米艦隊の輪形陣へと襲いかかった。夜の空は、完全に日本のものとなっていた。

 しかし、有効な夜間戦闘機を装備していない米艦隊ではあったが、それでも陸攻隊の夜間空襲に悩まされていた一九四三年の頃とは装備の質が違っている。

 吊光弾が投下され、自分たちが完全にジャップに捕捉されたと判断した瞬間、猛烈な対空砲火を撃ち上げ始めたのである。それはまるで、空に浮かぶ月すら射落とそうとするかのような、凄まじいものであった。

 電波欺瞞紙搭載機が、敵の電探射撃の精度を少しでも低下させるべく、錫箔を夜空にまき散らしていく。月明かりに照らされたチャフが、光を反射して雪のように南洋の海面へと舞い降りていった。

 猛々しい対空砲火と雪のように舞う錫箔、そしてそれらを天より見下ろす丸い月。

 戦禍の激しさに嗤うように、自然は泰然としていた。


「目標は空母だけだ! それ以外は無視しろ!」


 だが、今まさにアメリカ艦隊の輪形陣へと斬り込もうとする陸攻隊搭乗員たちにとって、そうした感慨を抱く余裕はない。

 先日も同じように米艦隊への夜間空襲を行ったが、やはり彼らの対空砲火は視界が限られる夜であっても凄まじかった。

 陸攻隊はチャフを散布すると共に輪形陣全周から襲いかかることで、米艦艇の対空砲火を分散させて被害を極限しようとした。

 月明かりと吊光弾の光を頼りに、石原少佐率いる陸攻隊は低空で敵空母に向けて突撃する。

 風防が炸裂した敵砲弾の衝撃でビリビリと震え、そしてその黒煙は後方へと流れていく。不運な機体は炸裂した砲弾によって翼をもぎ取られ、海面に激突した。

 しかし、石原少佐の機体も含め、多数の一式陸攻が僚機の最期など無視するかのように輪形陣内部へと突撃を続ける。すでに機体は海面の上を滑るような高度で飛行していた。

 敵艦の対空砲火に撃墜されるくらいならば、危険を承知で高度を海面すれすれまで下げた方がいい。多くの搭乗員たちは、そう思っている。対空砲火に撃墜されるかどうかは運否天賦だが、海面に激突するかどうかは己の技量次第だ。

 少なくとも、この場にいる陸攻乗りたちは自分たちの練度を信じていた。だから、己の技量に機体の運命を託した。


「……」


 石坂少佐は慎重に機体を操りつつ、敵空母への雷撃針路を取る。

 海面に月明かりが反射し、その上に舷側から火を吐き続ける空母がいた。火箭が機体の後方へと伸びていく。

 今の彼らの目には、敵空母の周辺で対空砲火を撃ち上げる護衛艦艇の姿は目に入らない。ただ真っ直ぐに、一式陸攻を敵空母に突っ込ませていく。

 彼我の距離はどんどん縮まっていった。

 距離は二〇〇〇を切り、一五〇〇を切り、一〇〇〇を切る。

 舷側に激突する可能性を反射的に考えてしまう体を意思の力で押さえつけ、なおも操縦桿を固定して低空を突き進んでいく。


「用意―――」


 そして、彼我の距離は七〇〇メートルを切ろうとしていた。


「てっ!」


 胴体下に収められていた魚雷が海面へと躍り出、機体はあっという間に敵空母の飛行甲板を飛び越える。

 日本の空母と比べて、太く角張った飛行甲板を持つ大型空母であった。

 米艦隊の輪形陣を脱出しつつ、石原少佐は自らの率いる陸攻隊が相応の戦果を挙げることを願っていた。


  ◇◇◇


「くそっ! またしても夜行性の猿どもがっ!」


 戦艦ニュージャージーで報告を受けた第三艦隊司令長官ハルゼー大将は、怒りをぶちまけていた。

 夕刻、バターンの処分を命じ、その後沈没の報告を受けてから数時間しか経っていない。そこに、新たな損害の報告である。

 眠気など吹き飛ぶほどに、彼の頭は忌々しいジャップのことで溢れかえっていた。


「モントゴメリー少将からの報告によりますと、空母イントレピッドが魚雷二本、重巡ニューオーリンズが魚雷一本を受けました」


「足手まといはとっとと真珠湾に引き返させろ」


 カーニー参謀長の淡々とした報告を受けて、ハルゼーは怒気を込めた口調で命令した。


「アイ・サー。そのように」


 しかし、上官の怒りを目の当たりにしても、カーニーの表情にいささかの狼狽えもなかった。


「しかし、これで我が艦隊は一群に相当する空母戦力を戦列から失ったことになります」


 そして彼は、上官の不機嫌さを無視するかのように、その事実を突きつける。ハルゼーが思わず不快の唸り声を室内に響かせたが、それでもカーニーは動じなかった。

 アメリカ海軍第三艦隊は、マーシャル航空戦初日にして、軽空母バターン沈没、空母レキシントンⅡ、イントレピッド、軽空母ベローウッド損傷という損害を受けたのである、正規空母二隻、軽空母二隻という数字は、事実上、一群に相当する空母戦力が艦隊から消滅したことになる。

 未だ第三艦隊は正規空母四隻、軽空母五隻という戦力を保持してはいるが、ジャップの基地航空隊と艦隊を同時に相手にするにはいささか不安を覚えざるを得ない戦力となってしまっていた。

 しかし、それでもハルゼーの闘志は衰えなかった。


「空母四隻がいなくなったからといって、何だっていうんだ?」


 自らの参謀を、ギロリと睨み付ける。その瞳には、日本に対する苛烈な敵愾心が宿っていた。


「ジャップの大型空母は、搭載機数において我が軍のエセックス級に劣る。しかも、最大で三隻しかいないらしいじゃないか。その他有象無象の小型空母を集めたところで、十隻に届くことはないだろうよ。この程度の損害で、ガルバニック作戦は揺るぎはせん」


 力強く、ハルゼーは断言した。


「では、明日以降の作戦行動は如何いたしますか?」


「明日は上陸作戦の決行日だ。ターナーの艦隊が上陸支援に集中出来る状況を作り出すのが、俺たち第三艦隊の役割だろうが。マーシャルの航空基地はあらかたぶっ潰したが、まだエニウェトクやポナペが残っている」


「では?」


「判りきったことを聞くな。ジャップの艦隊がマーシャルに接近する前に残った航空基地を破壊し、しかる後にジャップの空母を全部沈めるんだ」


 睨み付けるような視線で、ハルゼーは己の参謀長を見た。


「サー。その方針の下、艦隊行動を策定いたします」


 カーニーは第三艦隊司令長官の方針に、異を唱えることはなかった。

 妥当な作戦方針だと思う。

 日本艦隊がマーシャルに接近する以前に彼らの基地航空隊を壊滅させられれば、第三艦隊がミッドウェーでの日本空母部隊のような目に遭うことは回避出来るだろう。

 こちらから積極的に日本海軍の根拠地のあるトラック方面に接近することに一抹の不安を覚えないでもないが、マーシャル近海に留まっていてもトラック方面からの空襲を断続的に受けることになるだろう。

 そうなれば、第三艦隊だけでなく、上陸部隊にまで被害が及んでしまう。マーシャル諸島を攻略するというガルバニック作戦の遂行に、支障が出かねない。

 その意味では、先手を打ってジャップの基地航空隊を壊滅させ、その上で日本艦隊との決戦に集中するというハルゼーの方針は正しい。

 敵部隊を各個撃破出来るのならば、それが最善なのだ。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 マーシャル諸島は、五月十一日の夜明けを迎えようとしていた。

 東の空が白み始め、夜の闇が徐々に払われていく。

 その下を、一隻の艦が白波を立てながら航行している。

 帝国海軍の潜水艦、伊一七五であった。

 彼女は今、マーシャル諸島の東方を東に向けて航行していた。本来であればハワイ沖での哨戒任務に就いているはずだったのだが、クェゼリンで補給中に米艦隊が真珠湾を出撃してしまい、代わりにマーシャル東方での哨戒任務を命ぜられたのであった。

 艦橋では、寺本巌潜水艦長(少佐)を筆頭に、何名かの乗員が見張りについていた。

 潜水艦乗員にとって、浮上航行中は恰好の息抜き時間であった。見張りの当番以外にも、乗員たちが交代で甲板に上がって新鮮な空気を吸いに来る。

 同時に、主機であるディーゼル機関を回して蓄電池を充電していた。日中は基本的に潜行して過ごさなければならない潜水艦にとって、夜間の浮上航行中に蓄電池を充電しておくことは重要であった。

 ただ、最近ではそうした潜水艦の充電方法にも変化が現れている。ドイツからの技術供与によって、内地で整備を受けた潜水艦から順次、「シュノーケル」なる装備を取り付けられているからであった。

 日本では「水中充電装置」と呼ばれるこの装備は、潜行中にも吸気・排煙を行える装置であり、潜水艦の被発見率を低下させるための装備として期待が寄せられていた。

 とはいえシュノーケルも万能ではなく、シュノーケルからの排気煙や航跡などによって発見されてしまうこともあるという。また、波が被ると排煙が艦内に逆流してしまうという問題点もあった。

 あくまでも補助的な充電用装備というのが、帝国海軍におけるシュノーケルの評価であった。

 艦内にディーゼルエンジンの音を響かせながら、伊一七五は夜明けの太平洋を航行していく。


「そろそろ朝だな……」


 腕時計を確認しつつ、寺本艦長は呟いた。そろそろ乗員たちに艦内に戻るように命じ、潜行を開始すべきだろう。

 そう思いつつ、彼は双眼鏡で周辺の海面を見回した。

 水平線から覗く光に波が照らされて、輝いている。空は黒から青へ、そして白へと変わろうとしていた。

 寺本は、高等商船学校出身の海軍予備士官上がりの海軍将校であった。彼は予備士官として招集された後、志願して海軍に残る道を選んだ。

 もし別の道を選んでいれば、今頃はどこかの船長として太平洋を横断する客船や商船を操っていたのかもしれない。穏やかな南の海を見つめながら、寺本はふと、そんなことを思った。

 だが、直後にそれを否定する。

 戦争が始まった以上、船ごと軍に徴用されて扱き使われるだけだろう。

 それに比べれば、海軍将校として潜水艦の指揮をとっている今の方がよほど充実した環境だろう。なにせ、予備士官上がりだというのに一艦を任される立場にまで出世したのである。

 もしかしたら、商船よりも自分はこちらの方が性に合っていたのかもしれない。

 そんな感慨に浸りながら、そろそろ潜行命令を出そうとした。

 部下の叫びが上がったのは、その時であった。


「逆探に感あり! 距離不明なるも、方位一五〇度から二〇〇度に電探の反応を認む!」


「両舷停止! 急速潜行!」


 寺本は反射的に命じていた。意識はすでに、臨戦態勢に切り替えている。

 艦外に出ていた乗員たちが、機敏な動作でハッチに消えていく。敵に発見された可能性がある以上、潜行は一分一秒を争う。

 寺本も、ほとんど落下するような勢いで艦橋のハッチから艦内へと戻る。

 電球に薄く照らされた艦内は、夜明けを迎えようとしている海上とは対照的であった。


「ハッチ良し!」


 哨戒長が全ハッチが閉じられたことを確認、報告する。


「ベント開け!」


 号令一下、メイン・バラストタンクへと海水が注入され、伊一七五は海中へと姿を消していく。


「面舵一杯。針路一八〇度」


 寺本は、逆探が捉えた南方へと艦の針路を向けた。彼はすでに、襲撃する肚を決めていた。そのことに、何の疑問も抱いていなかった。

 やはり自分は海軍軍人なのだな、と寺本は頭の片隅で納得と共にそう思った。






「……」


 アメリカ海軍のレーダー員は、PPIスコープの前で怪訝な表情を浮かべていた。


「どうした?」


「いえ、先ほど反応らしきものがあったのですが、すぐに消えてしまいました」


 レーダー員は目を凝らすが、やはりスコープには何も映っていなかった。


「恐らく、レーダーの誤作動か、波か何かに電波が反射してしまっただけだろう」


「そうかもしれません……」


 当直のレーダー員はどこか釈然としない思いを抱きながら、そうした内心を誤魔化すように手元にあるコーヒーを喉に流し込んだ。






「魚雷戦用意!」


 潜望鏡に映る艦影を認めて、寺本は興奮と共に命じた。


「喜べ、お前たち、空母がいるぞ!」


 司令塔に響き渡るように、彼は叫んだ。その言葉に、艦全体に静かな興奮が広がっていく。

 これまでも、帝国海軍の潜水艦は米空母を雷撃する機会を得ていた。その中の一隻に自分たちの乗艦が加わるという幸運に、彼らは感謝していた。

 動力を蓄電池に切り替えた伊一七五は、海中を六ノットで進んでいく。

 寺本は潜望鏡を覗きつつ、艦を絶好の射点へと導いていく。

 敵はこちらに気付いた様子もない。

 てっきり逆探が敵の電探波を捉えた以上、探知されていると思ったのだが、敵の電探員は随分と間抜けらしい。

 潜望鏡から見えるのは、空母を中心とする艦隊であった。

 目を凝らせば、何やら飛行甲板の上で作業が行われていた。恐らく、夜明けと共に攻撃隊を発進させるつもりなのだろう。

 寺本が潜望鏡から得られた情報を元に、九一式潜水艦方位盤に諸元が入力されていく。装置へと入力がすむと、照準角追従装置が自動的に魚雷を調定してくれるのだ。


「一番から四番、発射準備良し!」


 艦首に備えられた四門の発射管では、魚雷が飛び出す瞬間を待っている。


「……」


 潜望鏡に張り付いたままの寺本は、刻まれた十字に的艦が重なる瞬間をじっと待った。ここで、焦ってはいけない。


「……」


「……」


「……」


 艦内に興奮とは違った、焦れたような、そして張り詰めたような空気が流れる。


「用意―――」


 的艦が、十字に徐々に近付いてくる。


「てっ!」


 その瞬間、四本の魚雷が艦首から勢いよく、海中へと放たれた。






 アメリカ海軍第五四・三任務部隊の旗艦、護衛空母リスカム・ベイの艦内では、上陸支援のための攻撃隊の発進準備が行われていた。

 起床ラッパからすでに三〇分あまり。

 乗員たちは全員が配置についていた。

 格納庫内では整備員たちが艦載機に燃料や弾薬を補給し、そしてエレベーターで飛行甲板へと上げていく。

 残り五隻の護衛空母の艦上でも、同様な光景が見られていた。

 夜が完全に明ければ、攻撃隊はマーシャルに向けて飛び立てるだろう。あのような小島に潜んでいるジャップの守備隊など、空爆と艦砲射撃だけで全滅させられるに違いない。

 誰もが、そう思っていた。

 だが、次の瞬間、任務部隊は己が目を疑うような光景を見ることになる。


「ト、魚雷トーピード!」


 リスカム・ベイの見張り員が気付いた時には、もう遅かった。


「何ぃ!」


 任務部隊司令ヘンリー・M・ムリニクス少将以下、艦橋の者たちは驚愕の視線で白い雷跡を見つめることになった。

 魚雷はあまりにも、リスカム・ベイに近付きすぎていた。

 刹那、下から突き上げるような衝撃。

 リスカム・ベイの舷側に、高々と水柱が立ち上る。


「ダメージ・リポ……」


 だが、破局が訪れるのはウィルトジー艦長が叫ぶよりも早かった。

 次の瞬間、艦後部が弾け飛んだのだ。

 衝撃。轟音。爆炎。

 すさまじい大爆発は、リスカム・ベイに破滅的な結果をもたらした。

 紅蓮の炎が、艦全体を包み込む。

 船体が、人体が、航空機が、木の葉のように空中へと舞い上げられ、周辺の艦艇へと降り注いでいった。

 彼女の船体が海中に消え去るまでに、それほど時間はかからなかった。

 ムリニクス司令官やウィルトジー艦長以下、六四四名の乗員を道連れにして、リスカム・ベイはマーシャル沖の海底へと沈んでいったのであった。

 時に、一九四四年五月十一日〇五三三時のことであったという。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 リスカム・ベイ沈没から約二時間半後の〇八〇〇時。

 支援部隊による周辺海域の対潜警戒が行われる中で、大和以下四十四隻からなる第一、第二遊撃部隊はトラック泊地を出撃した。

 彼女たち数多の艨艟が目指すべきマーシャルの前には、未だアメリカ海軍機動部隊という、帝国海軍最大の敵が立ちはだかっていた。

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