46 ガルバニック作戦
一九四四年五月段階において、ハワイ近海に展開していた日本海軍の潜水艦は、伊一九、伊一六九、伊一七四の三隻であった。また、これら潜水艦の他、伊一七五もハワイ近海での哨戒活動に参加していたが、現在はクェゼリンにて補給中であった。
ハワイ沖に展開する三隻の潜水艦の内、伊一九には零式小型水上機一機が搭載されており、四月二十七日、この機体を用いて真珠湾内の夜間偵察を行った。その際、零式小型水上機は湾内に戦艦五、空母十、輸送艦多数を確認している。
その情報は、定時連絡によってクェゼリンの第六潜水艦基地に伝えられ、そこからさらにトラックの大和や内地の連合艦隊司令部に伝達された。
さらに五月一日、今度は伊一六九が真珠湾を出港する大規模な艦隊を確認した。これを受けて伊一九に座乗する第二潜水隊司令・岩上英壽大佐は、再度の真珠湾偵察の実施を決定。同日夜、伊一九の搭載機が真珠湾内を確認したところ、戦艦や空母の大部分が姿を消していることが判明。
この情報を受けた連合艦隊司令部は、マーシャル・ギルバート方面へ米機動部隊来襲の可能性大として当該地域に警報を発すると共に、内地にあった第十二航空艦隊麾下の第二十四航空戦隊にトラック方面への進出を命じた。
命令を受けた北東方面艦隊司令部は空路で航空隊を送り出すと共に、基地要員や資材の輸送のために第五艦隊所属の第一水雷戦隊を護衛に付けることを決定。第一水雷戦隊は司令官・木村昌福少将指揮の下、トラックへと進出することとなった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一九四四年五月九日。
朝日を受けながら南下を続ける艨艟の群れは、まさしく堂々たる大艦隊であった。
戦艦ニュージャージーに座乗する第三艦隊司令長官ウィリアム・F・ハルゼー大将は、艦橋から見渡せる光景に、満足そうな笑みを浮かべていた。
彼の視界には、もう一隻のアイオワ級戦艦のアイオワ、それに二隻のエセックス級空母に三隻のインディペンデンス級空母が映っている。
真珠湾攻撃の直後は空母がエンタープライズ一隻だけの艦隊を指揮していたハルゼーであるので、自国の海軍が如何に強大になったかということが如実に実感出来た。それに、彼の指揮する艦隊は視界外にも、もう二群、存在するのである。
これに勝る艦隊は、ジャップですら持ち得ないだろう。残りの枢軸国など、論外である。
まさしく、合衆国の偉大なる工業力の
今、彼の率いる五隻の空母の飛行甲板には航空機がずらりと並べられており、暖気運転の轟音で大気を震わせていた。
「長官、各任務群とも、発艦準備を完了したとのことです」
傍らに控えるロバート・カーニー参謀長が報告する。
「いよいよか」
ハルゼーは長官席から立ち上がり、睥睨するように前方を見据えた。そこには、これから打ち倒すべきジャップの海軍が待っているのだ。
「全空母に下令。これよりガルバニック作戦の第一段階を発令する。さあ、クルー共、猿狩りの時間だぁ!」
ハルゼーの獰猛な叫びと共に、アメリカ合衆国によるマーシャル攻略作戦“ガルバニック作戦”は、ついに実行の段階へと移されたのである。
◇◇◇
五月九日午前、それまで米軍の大型機による空襲に晒されていたギルバート諸島タラワ、マキンに、米艦載機が大挙して来襲した。二つの環礁ではそれぞれ三〇〇機以上の敵機を確認し、タラワ環礁ベティオ島に司令部を置く第三特別根拠地隊は直ちにこの情報を第四艦隊司令部へと送った。
この日の午後にはギルバート諸島西方のナウル島も空襲を受け、飛行場にあった零戦隊が迎撃のために上がったものの、数の差に圧倒されてしまった。
一方、マーシャル・ギルバート方面に展開していた帝国海軍の航空部隊は、第二十二航空戦隊であった。その兵力は、次の通りである。
第二十二航空戦隊(司令部:クェゼリン)
第二五二航空隊(艦戦×六〇機)……マロエラップ、タラワ、ナウル、ウェーク
第七五五航空隊(陸攻×六〇機)……ブラウン、マロエラップ、ルオット、タラワ、ウェーク
第五五二航空隊(艦爆×四十八機)……ミレ
第八〇二航空隊(水上戦闘機×二十四機+飛行艇×十六機)……イミエジ、ルオット、マキン
さらに第四艦隊所属の水偵部隊である第九〇二、第九五二航空隊もまた、マーシャル・ギルバート方面に配置されていた。
このうち、ギルバート方面に配備されていた航空機と基地要員は、米重爆による空襲が激化していたことからマーシャル方面へとすでに引き揚げていた。そのため、ギルバート空襲による帝国海軍航空隊の被害は少なかった。
一方で、米軍の空襲によってタラワ、マキンの環礁に築かれた防御陣地のいくつかは被害を受けている。
こうした米艦載機の来襲について、日本側はすでに警戒していたため、驚く者は少なかった。
すでに第二十二航空戦隊では周辺海域での索敵に努めており、同日中にはタラワ南西、ナウル島南方にそれぞれ米機動部隊の一群を発見している。
これを受け、まず航続距離の問題から第七五五航空隊の一式陸攻四十三機が薄暮攻撃を期してルオットを出撃した。
この時、日本側が攻撃を行ったのはモントゴメリー少将率いる第二群であり、軽巡バーミンガムが魚雷一本を受けて後退する損害を受けている。陸攻隊は電波欺瞞紙(チャフ)の効果もあったのか、未帰還は九機であった。
一方、トラックの第四艦隊司令部では、米軍のギルバート来襲を受けてトラックの第二十五航空戦隊のマーシャル進出を命じると共に、内地から増援として送られてきた第二十四航空戦隊にも、マーシャル進出を命じた。
これら航空戦隊の兵力は以下の通りである。
第二十四航空戦隊
第二八一航空隊(艦戦×九十六機)
第五三一航空隊(艦攻×四十八機)
第二十五航空戦隊
第一五三航空隊(偵察機×十六機)
第二〇二航空隊(艦戦×七十四機+局地戦闘機×二十四機+偵察機×十六機)
第七五三航空隊(陸攻×六〇機)
第二十四航空戦隊には本来であれば陸攻隊である第七五二航空隊も所属していたのであるが、部隊の再編などの理由で引き抜かれていた。
これら二個航空戦隊と、現地に展開している第二十二航空戦隊の兵力を合わせれば、零戦二三〇機、月光二十四機、彗星四十八機、天山四十八機、一式陸攻一二〇機、二式陸偵十六機、彩雲十六機、二式飛行艇十六機、二式水上戦闘機二十四機などとなる。合計で五四二機と相応に強力な航空部隊ではあったものの、それでも米艦隊の半分以下の航空兵力しか持っていないのである(そして、これらの数はあくまで定数であった)。
また、これ以外にはポナペ島に最新鋭の烈風などを装備する第六十三航空戦隊が存在していたものの、この航空戦隊は連合艦隊司令部直属であったこと、そして九日段階では米艦隊の目的が明確ではなかったことから、マーシャル進出は見送られている。
この他、米軍の来襲を受けて小林仁中将を始めとする第四艦隊司令部は司令部を空路、トラックからクェゼリンへと前進させ、そこで作戦全般の指揮を執ることとなった。彼らもまた、草鹿任一中将のように、マーシャル・ギルバートに拠る守備隊と運命を共にする覚悟なのだ。
こうして、トラックに残されたのは、第二、第三艦隊を中心とする海上兵力のみという状況になった。
◇◇◇
だが、トラックの艦隊も、安寧を貪っているわけでは決してなかった。
「捷一号作戦警戒」は未だ発令されたままであり、栗田、山口両艦隊司令長官は各地からもたらされる通信に耳をそばだてていた。また、各艦では物資の積み込みや燃料の搭載を済ませ、いつでも出撃出来るよう、準備が整えられていた。
「GF司令部からはまだ何もないか?」
戦艦大和の戦闘情報室に詰める栗田中将は、そう尋ねた。
現在、CICは各種通信から得られる情報を海図に描き込むため、電話を受ける通信兵や指示を出す通信兵の声が方々から飛び交っていた。
「はい。いいえ、まだ何もありません」参謀長の小柳冨次少将が答える。「また、米軍の空母は発見しましたが、上陸船団の確認は取れていません」
「うむ」
栗田は腕を組んで思案する姿勢になった。
現状、米空母の来襲が単なる通り魔的攻撃であるのか、本格的な上陸作戦のための事前攻撃であるのかの判断が付いていないのだ。
そのため艦隊を出撃させたところで、敵艦隊を取り逃がす恐れが高かった。
トラックからマーシャルまでは、戦前の日本郵船の設定した航路によると七日かかる。もちろん、貨客船と海軍艦艇とでは速力が違うので、捷一号作戦策定段階の想定では三日から四日ということになっている。ただし、対潜警戒のための之字運動や空襲を受けた際の回避行動などを勘案すれば、素直に三、四日で到達出来るとは限らない。
それすらマーシャル諸島の政治的中心地ヤルートまでへの時間なので、そのさらに先にいるであろう米艦隊を捕捉するのは、ほとんど絶望的といってよい。
捷一号作戦の発動が敵上陸後と定められているのは、こうした理由があったのである。
一時、決戦海域と想定されるマーシャル・ギルバートに近いブラウン環礁(エニウェトク環礁)に艦隊を進出させ、そこで待機させる案もあったのであるが、逆にマーシャルに近すぎるため(それでも四〇〇キロ以上あるが)、米機動部隊による空襲を受ける危険があるとされたために廃案になっている。
ただし、今でも第二、第三艦隊の参謀や戦隊司令官の中には、ブラウン環礁へ進出すべきではないかという意見が出ていた。この環礁からならば、マーシャル諸島の各島嶼に十二時間以内に辿り着ける。ギルバート諸島に対しても、一日程度あれば米軍の上陸地点に突入出来るだろう。
とはいえ、そのような至近距離にいる艦隊を米軍が見逃すはずもないであろうから、やはりブラウン環礁に艦隊を進出させるのは危険が大きいといえよう。
「恐らく、米軍がギルバート諸島への上陸を試みるにしても、マーシャルの我が軍基地航空隊を撃滅してからということになるでしょう。そうでなければ、上陸部隊が常にマーシャルからの空襲を受け続けることになります」
「受け身が前提の作戦方針は、中々にもどかしいものだな」
栗田の顔は渋いものであった。
と、その時、戦闘情報室の電話の内の一つが鳴った。
「―――七五五空の電文を傍受しました!」通信兵が、室内の喧噪に負けないように大声を出す。「タラワ南西の敵機動部隊の一群に空襲を敢行し、空母一撃沈、空母二、戦艦一撃破とのことです!」
「……」
「……」
その報告に、栗田と小柳は揃って顔を見合わせた。
「四〇機程度の陸攻で、それほどの戦果が挙がるものなのか?」
「少し古い研究になりますが、航空本部の試算では、空母一隻を撃沈するのに陸攻三十六機が必要とされています」
「と、なれば“い号作戦”の初期と同じ現象が起こっていると考えるべきか」
昭和十八年初頭に行われた南太平洋全域での通商破壊作戦“い号作戦”では、航空隊は薄暮・夜間攻撃が主となったため戦果の誤認が相次いでいたという事例がある。
「山口長官はどう思う?」
栗田はそこで、自分と同じくCICの様子を見守っていた山口多聞第三艦隊司令長官に声を掛けた。
「恐らく、栗田長官の思われた通りかと。この戦果は、いささか盛りすぎでしょう」
自らも航空部隊の指揮官であるだけに、山口の声には部下の挙げた戦果を否定することへの苦渋が滲んでいた。
「かく言う私も、ミッドウェーで敵空母三隻を撃沈したという報告を鵜呑みにしてしまった人間です。通信傍受や偵察の結果では、実際のところ飛龍は空母二隻を撃破したのみで、伊一六八が辛うじて損傷空母の一隻を撃沈したというのがあの海戦の真相だったようです」
「となると、米空母を一隻撃破出来ていれば御の字、といったところか」
「楽観的に考えて、ですな」山口は言う。「ソロモン方面での戦訓を見ると、ミッドウェーの時と比べ、米軍の対空砲火の威力は格段に上がっていると思われます。こちらの陸攻も機上電探装備とはいえ、どこまで戦果を挙げられたものか」
第三艦隊司令長官は首を振った。
「とりあえず、最新の情報を整理して会議を開こう」栗田は感傷を断ち切るような硬い声で言った。「参謀長、両艦隊の戦隊司令官たちはすでに集まっているな」
「はい」
「よかろう。では、明日以降の情勢判断も含めて、急ぎ検討するとしよう」
「はっ!」
◇◇◇
翌五月十日。
日本側の多くの者たちの予想に違わず、この日、マーシャル諸島の各地はアメリカの空母から発進した航空機による激しい空襲に見舞われることになった。
まず、マーシャル諸島東部に位置するウォッゼ、マロエラップ、ミレがそれぞれ二〇〇機以上の米艦載機の襲撃を受け、守備隊や防御陣地に少なからぬ損害を出した。
だが、一方の日本側も未明から索敵機を縦横に放ち、米機動部隊の捕捉に努めていた。
日本軍航空隊の索敵網に掛かったのは、ジョゼフ・J・クラーク少将率いる第一群と、ジョン・W・リーブス少将率いる第三群であった。
すでに第二十四、第二十五航空戦隊は、前日の夕刻までにマーシャル諸島への展開を終えていた。
第二十四航空戦隊麾下の零戦隊、天山隊はマロエラップよりクラークの第一群を、第二十二航空戦隊の零戦隊と彗星隊はミレとマロエラップの各基地よりリーブス少将の第三群へと襲いかかった。
なお、陸攻隊による昼間攻撃は徒に損害を増やすだけであると判断されたため、各陸攻隊は一時、月光隊、飛行艇部隊などと共にクェゼリン、エニウェトクへと下がっていた。
結果、後に「マーシャル沖航空戦」と名付けられる激しい海空戦がこの日から始められることになったのである。
対空射撃の喧噪は、これまで合衆国軍人の誰もが体験したこともないほど凄まじいものであった。
戦艦や空母、巡洋艦に装備された五インチ両用砲や四〇ミリ機銃が火箭を空へと伸ばしている。
甲板上には空薬莢がガラガラと転がり、空にはどす黒い煙の花が咲く。そして時折、火を噴いて墜ちていくジャップの機体。
「……」
戦艦ニュージャージーの艦橋で、ハルゼーはその厳つい顔を空へと向けていた。部下からはCICに入るよう勧められていたが、それを退けている。
合衆国海軍による最初の一大反攻作戦である以上、将兵の士気向上のためにも艦隊司令長官は艦橋で陣頭指揮を執るべきだと考えていたのだ。
といっても、防空戦闘となれば艦隊司令長官に出る幕はない。艦橋にいようが、CICにいようが、結局は同じなのだ。それならば、艦橋で実際の戦闘を見ていたいというのがハルゼーの本音であった。
この戦闘の指揮を執っているのは空母戦隊旗艦であるヨークタウンⅡのFDO(戦闘機指揮管制士官)であり、実際に戦うのはF6Fヘルキャットに乗る搭乗員、そして各艦の砲員、機銃員たちである。
司令長官である自分は、ただどっしりと構えている姿勢を部下たちに見せておけばいい。
「少し間が悪かったかもしれませんな」
ハルゼーの傍らに控えるカーニー参謀長が、空に険しい視線を向けながら言った。
「すでに我々はマーシャルに向けて攻撃隊を発進させてしまいました。そうでなければ、攻撃隊の護衛に付けた戦闘機も含めて、この任務群が保有する全戦闘機でジャップを迎撃出来たのでしょうが」
「過ぎたことをとやかく言っても仕方がない」
だが、ハルゼーはカーニーの発言を気にも留めていなかった。
「それに、俺たちはマーシャルにあるジャップの拠点をすべてぶっ潰さなきゃならん。迎撃に徹するなど、論外だ」
彼らがそのような会話を交わしている間にも、防空戦闘は続いていた。
この時、第五十八任務部隊第一群は防空のために八〇機近いF6Fを投入していた。それらがすべて、FDOの統制の下に迫り来る日本の攻撃隊を迎え撃ったのである。
一方、マロエラップを発進した攻撃隊は、二式陸偵三機、零戦六十一機、天山四十三機の計一〇七機からなる大編隊だった。島の広さに制限されるとはいえ、それでも空母よりも余裕のある滑走路であったため、一度に大量の攻撃隊を発進させることが可能となったのである。
そして日本側は、インド洋などでの戦訓から攻撃隊を小出しにするよりも、とにかく集中させられるだけ集中させるという方針を取っていた。その意味では、マロエラップの艦攻隊だけでなく、ミレの艦爆隊もここに加えるべきだったのだが、指揮系統の問題や合同訓練を行ったことがないなどの理由からそうはならなかった。
マロエラップ攻撃隊は、FDOの誘導を受けたF6Fにより、米艦隊より一〇〇キロ手前で迎撃を受けることになった。
これに対し、日本側は二式陸偵が攻撃隊に先行して搭載していたチャフを散布。三機全機が撃墜されるのと引き換えに、米戦闘機隊に若干の混乱をもたらした。
とはいえ、すでに何度も使っている手であったため、アメリカ側のFDOもチャフの散布は織り込み済みであり、米戦闘機隊の混乱は短時間で収まってしまった。
そして、零戦隊とF6F隊による空戦が開始された。
この時期になると日本側もドイツからの技術供与によって零戦に搭載されていた機上無線も実用に堪え得る程度にまでは改善していたものの、それでもF6Fとの機体性能の差は厳然として存在していた。なおこの時、零戦隊には五二型と五四型が混在している。
アメリカ側の搭乗員が実戦経験に乏しかったことに助けられ、零戦隊は相応に奮戦していたのであるが、最終的には機体性能と数の差に押し込まれ、護衛すべき天山隊は米艦隊の輪形陣内部に辿り着く前に三分の一以上が撃墜されてしまった。
さらに輪形陣外縁部を突破する際に一〇機あまりが対空砲火によって撃墜され、空母へと取り付くことが出来たのはわずかに十一機だけであった。
攻撃隊長・大串秀雄少佐もこの内の一人であり、彼の小隊は空母レキシントンⅡへの雷撃を行うべく、超低空で彼女へと接近していた。
残る機体は第二中隊長・松崎三男大尉に導かれて軽空母ベローウッドを目標に定め、襲撃運動を取っている。
「ガッデム!
天山に狙われたレキシントンⅡの機銃員は、思わず罵声を上げた。
彼女の放つ対空砲火が、すべて敵機の後方で炸裂しているのである。
天山の最高速度は時速四八一キロメートル。九七艦攻の時速三七八キロメートルに対して、一〇〇キロ以上も優速であった。
炸裂する対空砲火の黒煙の塊を背景に、弾片の落下によって小さく水柱の立つ海面を、天山は滑るようにしてレキシントンⅡへと接近を続ける。
「墜ちろ! ジャップ!」
機銃員たちは血走った目と共にボーフォース四〇ミリ機銃やエリコン二〇ミリ機銃を撃ち続けた。だが、敵機は機銃の俯角よりさらに低い位置、プロペラが海面を叩きそうな高度でレキシントンⅡに迫り来る。
両用砲の砲声、機銃の発砲音、空薬莢がスポソンを転がる金属音、対空砲火の炸裂する轟音、それらすべてを無視するように、天山は飛行を続けていた。
「いったいどこを狙っておるのだ! しっかり狙わんか!」
機銃群の指揮官も、焦燥と苛立ちの混じった怒声を部下に浴びせている。
敵機の後方で炸裂する両用砲弾の黒煙が虚しい。
襲撃運動に入った敵機は、その高速であっという間に距離を詰めてしまった。
彼我の距離は七〇〇メートル。
その瞬間、機銃員の何名かは敵機の胴体下に括り付けられていた魚雷が投下されるのを見た。
「
レキシントンⅡ艦長も、敵機の魚雷投下を見越してすでに指示を下していた。基準排水量二万七〇〇〇トンの巨体が、ゆっくりと艦首を右に振っていく。
だが、その動きは高速の敵機に比べてあまりに緩慢であった。
不気味な航跡を描いて、雷跡がレキシントンⅡへと迫る。
「ジーザス!」
誰かの叫びと、レキシントンⅡに衝撃が走ったのは、同時であった。
魚雷投下の瞬間、大串少佐は機体に衝撃が走るのを感じた。
「……!」
左の主翼が、火を噴いていた。だが、一瞬の驚きはあるにせよ、焦りはない。
周囲では、空間そのものを歪めるような米艦隊の対空砲火が飛び交っている。
マロエラップへの帰還は、絶望的だろう。しかしそれは、覚悟していたことだ。
「……」
彼は、素早く周囲を確認した。針路上に、戦艦と思しき大型艦がいた。昼間でも判るほど、真っ赤な対空砲火を噴き上げている。
「あいつに突っ込む!」
大串は、躊躇いなく決断した。後部の偵察員、電信員も、すでに覚悟を決めていたのだろう。間髪を容れず、「はい!」という声が返ってきた。
彼ら二人を道連れにしてしまうことに罪悪感を覚えながらも、彼は炎上を始めた機体を敵戦艦との衝突針路に持っていく。
「……あと少しだけ持ってくれよ、天山」
風防の左側は、すでに炎を反射していた。
トラックで見る機会を得た大和型戦艦に似た、三連装砲塔三基を持つ敵戦艦。それが、自身の仕留める最後の獲物になる。
敵戦艦の後部檣楼が迫ってくる。もう、衝突まで幾ばくもない。
投下した魚雷の成果を見届けられなかったのが、わずかばかりの未練だが……。
その思考を最後に、天山は若い三人の搭乗員と共に散華した。
アイオワの後部檣楼周辺で発生した火災が、彼らが成し遂げた最後の戦果であった。
◇◇◇
一方、第三群であるリーブス隊も、防空戦闘は終盤を迎えつつあった。
海上には未だ砲弾が炸裂したことによる黒煙が漂っていたが、戦闘の喧噪そのものは落ち着きつつある。
「何とか、ジャップの空襲を凌ぎ切ることが出来たようだな」
輪形陣内部の海面に最後の
現状、艦隊の中で被弾したのは重巡セントポールのみである。しかし命中は一発のみであり、セントポールからは後部主砲塔が使用不能になったものの、機関部などに損傷はなく、艦隊への随伴は可能との発光信号を受けている。
他に空母ワスプⅡが至近弾を受けたものの、第三群が受けた損害はその程度であった。
レーダー管制による戦闘機隊の効率的な迎撃体制と、VT信管を始めとする最新鋭の対空火器が、これまでアメリカ空母を次々と撃沈してきたジャップの航空隊に痛撃を与えたのである。
敵飛行場との戦闘ということで、沈むことのない陸上側が有利と見る意見も出撃前にはあったが、どうやら杞憂に終わったようだ。
上空からは、すでに合衆国に仇なすジャップの姿は消え去っている。
「全艦、撃ち方止め!」
「サー! 全艦、撃ち方止め!」
リーブスの命令により、艦隊に静寂が戻った。未だ空中に漂っていた黒煙が、後方へと流れていく。後には、太陽に照らされて白く輝く漣重なる海が残るだけであった。
「空母は直掩隊の収容準備に入れ! ぐずぐずしていては、攻撃隊が戻ってきてしまう」
「サー、ただちに伝達いたします」
対空戦闘が終わったとはいえ、艦隊に休息の時は訪れない。
弾薬を消耗した直掩機を速やかに収容して補給を行い、再度のジャップの空襲に備える必要がある。これらはマーシャル諸島各地を空襲した攻撃隊が帰還する前に行わなくては、飛行甲板が塞がってしまう。
再度のジャップの空襲があるかもしれない状況では、迅速な行動が必要であった。
とはいえ、これが初陣となった年若い水兵の中には、極度の緊張から解放された安堵感により、そのまま機銃座など配置場所にへたり込んでしまう者、あるいはなおも機銃を上空に向けたまま固まっている者も多かった。
そうした緊張と弛緩とが入り乱れるわずかな時間の中、突然、見張り員の叫び声が上がった。
「敵機、バターンに急降下!」
「何だと!?」
旗艦バンカーヒルの艦橋は、再び騒然となった。
「馬鹿な!? まだジャップが残っていたのか!?」
「どうやら、雲の合間に潜んでいたようです!」
「ガッデム! 他にジャップが残っているかもしれん! 各艦は見張りを厳とせよ!」
雲間から突如として急降下を開始した彗星は、再び火を噴き始めた対空砲火を突破して軽空母バターンへと投弾。
刹那、バターンの飛行甲板に直撃弾命中の爆炎と轟音が上がった。
「何と言うことだ!」
リーブスは思わず、神を呪うような叫びを上げてしまった。
現われた彗星は投弾の直後、被弾し、そのまま火を噴きながら引き起こしも叶わずに海面へと激突した。だが、それがわずかばかりの慰めにしかならないことは、太く黒煙を噴き上げるバターンを見れば明らかであった。
「バターンに被害状況を問い合わせろ!」
「アイ・サー!」
バンカーヒル艦橋では、TBS(艦隊内電話)が取り上げられ、急ぎ、バターンに状況報告を求める通信が行われた。
バターンが受けたのは、五〇〇キロ徹甲爆弾。
飛行甲板を貫いたこの爆弾は機関室上部にまで達した後、爆発し、バターン機関部に重大な損傷を与えていた。火災も発生しており、彼女が助かるのかどうか、今はまだ誰にも判らなかった。
◇◇◇
「空襲による第三艦隊全体の損害は、まず我が第一群において空母レキシントンⅡが被雷二、ベローウッドが被雷一、アイオワに炎上した機体が体当たりし後部射撃指揮所使用不能、第二群は空襲なし、第三群は空母バターンが被弾し現在も消火活動中、さらに重巡セントポールも被弾し後部の主砲が破壊されたものの航行に支障なし。以上のようなものとなります」
ニュージャージー艦橋で、カーニー参謀長が事務的な口調で報告した。ハルゼーから自分と正反対の性格だからと参謀長に選ばれた彼は、味方の被害報告に対して冷静であった。
「レキシントンⅡとベローウッドは駆逐艦三隻を付けて後退させろ」ハルゼーは不機嫌そうな低い声で命じた。「それと、バターンの火災は収まりそうなのか?」
「現状では何とも言えません」カーニーは答えた。「どうやら被弾によって機関部や消火装置の電源も破壊されたらしく、現在、他艦の応援を受けて消火活動を継続中とのことです」
「リーブスの第三群は足止めを喰らったな」
ハルゼーは舌打ちしそうなほど、忌々しい表情となっていた。他艦による救援が行われているということは、第三群はその海域から大きく動くことが出来ない。
「また、航空機の損害については攻撃隊が帰投しない限り何とも言えませんが、少なくとも防空戦闘に当たったF6Fは全体で二十八機が撃墜され、これに修理不能として海中に投棄された十一機を加えますと三十九機の喪失となります」
「……意外と多いじゃねぇか」
「やはり、初陣のパイロットが多かったことが原因かと」
「こちらの戦果は?」
「全体で、撃墜は二〇〇機以上と報告されておりますが……」
「その数字を鵜呑みにすることは出来ない、か?」
「はい」
「俺も同感だ。空戦による戦果の重複は、ソロモンでも見られたことだ。実際はその半数か、それ以下だろう」
航空部隊を指揮して長いハルゼーは、そうしたことを十分に知悉していた。
「まもなく攻撃隊が帰投します。今後の艦隊行動は如何されますか?」
「我が艦隊は、まだ十分な戦力を残している」ハルゼーの目には、未だ衰えぬ戦意が宿っていた。「そして、我々に与えられた任務はジャップの航空部隊の撃滅だ。違うか?」
「おっしゃられる通りです」
「ならば、やるべきことは決まっている」ハルゼーは吠えるように宣言した。「次はクェゼリンとヤルートを叩く。マーシャルから、
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