29 王室海軍の矜持
その通信が、横須賀の連合艦隊司令部に届いたのは、二十三日の未明であった。
日本時間と現地時間では、二時間半の開きがある。
通信は、スラバヤの南西方面艦隊司令部経由で、本土の大和田通信所に届けられた。大和田通信所は連合艦隊司令部直属の第一連合通信隊に属する通信所であり、解読された通信はただちに横須賀鎮守府の敷地内にある連合艦隊司令部へと届けられた。
「二一四八時ヨリ、我、英軍機ノ空襲ヲ受ク。照月沈没、翔鶴、最上、三隈大破。一機艦ハ一旦南方ニ退避。戦力ヲ集結セントス」
発信元は、第二航空戦隊司令部。
つまり、航空戦の指揮を委ねられた小沢治三郎中将ではなく、彼の身に万が一があった際に指揮を継承することになっていた山口多聞少将からのものだったのである。
通信の内容と合わせて、連合艦隊司令部には二重の衝撃が走っていた。
二十二日の夕刻に米空母の撃滅と第二艦隊による追撃を行う旨の報告が司令部にもたらされた時には、山本五十六長官だけでなく、司令部全体に楽観的な雰囲気が流れていた。
こちらには戦艦武蔵がいる。夜戦にも自信を持っている。だから、水上砲戦になっても何ら懸念することはない。
恐らく二十三日の夕刻には英東洋艦隊を撃滅したとの報告も入るだろう、と考えていたのである。
だが、第二艦隊からの戦果報告が横須賀に届く前に、凶報がもたらされたのである。
この時、戦況を楽観した司令部の者たちは、山本長官も含めて交代で睡眠を取っていた(これ自体は、特に責められることではない。疲労した頭では、十分にその能力を発揮出来ないからである。実際、アメリカのスプルーアンス提督は毎日、何があろうと必ず睡眠を取るようにしていたという)。
電文が届いた時、山本は長官室で睡眠を取っており、作戦室には彼に代わる司令部責任者として参謀長の宇垣纏中将が待機していた。
「ただちに長官をお呼びしろ!」
「はっ!」
宇垣は、司令部の従兵を即座に長官室へ走らせた。残りの従兵たちも、睡眠中の一部の参謀の部屋へと遣わす。
司令部当直として待機していたのは、宇垣を始めとする参謀の半数。宇垣自身は徹夜明けに近い状態ではあったが、報告で一気に目が覚めた。
「小沢長官の身に、何かあったのでしょうか?」
彼と同じく当直に就いていた渡辺安次戦務参謀が言った。言葉を口に出すことによって、不安を紛らわせたいのかもしれない。
「翔鶴の被害も気になるところです」今度は、藤井茂政務参謀。「ミッドウェーの如くに、味方の処分が必要になるほどの損害でなければよいのですが」
「貴様ら、少し黙っておれ」
彼らの不安が司令部全体に伝播しては堪らない。宇垣は睡眠不足による苛立った思考と共に、二人に注意を促した。
彼は海軍罫紙を取り出すと、鉛筆を手にして電文案を起草し始めた。
恐らく、第一機動艦隊はこれ以上の敵の襲撃を避けるため、被害報告を送信した後、無線封止に入ったことだろう。敵に傍受されて第一機動艦隊の現状が露見する危険性も考えれば、こちらから被害を問い合わせるわけにはいかない。
だから宇垣が行ったのは、南西方面艦隊司令部への命令を起案することであった。南西方面艦隊は、セイロン島攻略作戦“雄作戦”に参加している第八潜水戦隊と第二十一航空戦隊を指揮下に置いている。
潜水艦、航空機によるベンガル湾の索敵のさらなる強化と、積極的な襲撃の命令。
第一機動艦隊が態勢を立て直すまでの間、英東洋艦隊の相手は彼らにしてもらうしかない。
問題は、この被害によって二十五日に予定されているセイロン島上陸に遅れが出ないかどうかであった。遅れが出るのであれば、昨日二十二日現地時刻〇五〇〇時にメルギーを出撃した攻略部隊へも上陸予定日の変更を伝達しなければならない。
ただし、陸軍は二十五日上陸に拘るだろうと宇垣は思う。
理由は、四月二十九日が天長節であるからだ。南方作戦においてシンガポール陥落を紀元節の二月十一日に合わせようとしたように、陸軍は何かの記念日に攻略作戦を終えることを目指す傾向にある。
一日、海軍の作戦が遅延するだけで、陸軍の攻略作戦に悪影響を及ぼすことになるだろう。無理な攻勢をかけて被害を大きくするかもしれない。
とはいえ元々、チャンドラ・ボースの到着を待つという陸軍の主張によって作戦発動が遅れただけに、そうまでして陸軍に配慮してやる必要もないというのが、宇垣の率直な思いであった。
加えて海軍の面子もあり、攻略作戦が遅れることを陸軍に言い出すのも憚られる。
とはいえ、今日は二十三日の未明である。
日本時間の方が二時間半早いことを考えれば、現地は未だ夜明けを迎えていない。つまり、今日明日は時間的猶予がある。特に攻略作戦を遅延させる必要もないだろう、というのが宇垣の結論であった。
彼が命令文の起案をしている間に、睡眠を取っていた参謀たちが続々と作戦室に集結していた。最後に、山本長官が動揺を感じさせぬ鷹揚な態度で入室してくる。
「それで、何事かね?」
従兵に叩き起こされたことで、彼も何事か重大事が発生したことを悟っていたのである。
「はい、二航戦司令部より入電です。英軍機による夜間攻撃を受け、照月沈没、翔鶴、最上、三隈大破とのこと。機動部隊は一旦南下し、戦力の集結を図るそうです」
「ふむ。なんだ、ミッドウェーよりも軽い損害ではないか。翔鶴が沈没すると決まったわけではなかろうに」
そう言って、動揺の表情を見せる一部の参謀たちを他所に、山本は上座へと泰然とした動作で座った。
「しかし長官。艦隊揃って南下するというのはいささか問題では?」
そう言ったのは、黒島亀人先任参謀である。
「第一機動艦隊の戦意を疑わざるを得ません。ここは、夜明けと共に索敵機を放ち、英東洋艦隊の撃滅を図るべきです」
強い口調で、彼はそう主張する。
「彼らは昨日未明から不眠不休で戦ったことになる。兵の疲労は無視出来んだろう」
徹夜明けであるからか、宇垣の口調には妙な実感が籠もっていた。そのため、かすかに黒島に対する反感の混じる声音となっている。
「参謀長、何を暢気なことを言っておられるのです! 夜間空襲を仕掛けてきたということは、敵はすぐそこにいるのですぞ! これは、昨年取り逃がした英東洋艦隊を撃滅する好機でしょうに!」
怒鳴り声が頭に響いたのか、宇垣は迷惑そうに顔をしかめる。
「いえ、小官も参謀長の意見に賛成です」
そう反論したのは、樋端久利雄航空甲参謀であった。
「むしろ、これを奇貨として、第一機動艦隊には二十三日中の補給と乗員の休養をさせるべきでしょう。明日二十四日に英東洋艦隊を排除出来れば、セイロン島上陸予定日にさして影響を与えません」
「上陸作戦実施日まで、まだ幾分、時間的猶予があろう」
そこに、山本自身が援護射撃を出した。
「まだこちらには瑞鶴、飛龍、隼鷹が残っている。艦隊直掩用の空母も含めれば、六隻が健在である。搭乗員や乗員の疲労を考えれば、参謀長と航空甲参謀の意見を採るべきだろう」
「その間、第八潜水戦隊と第二十一航空艦隊に英東洋艦隊への牽制も含めた索敵と襲撃を命じますが、よろしくありますか?」
宇垣が、上官に確認する。
「うむ、よかろう。ただし、戦闘機の護衛も付けずに陸攻隊を出撃させ、徒に損害を増やすようなことはせぬよう、十分注意したまえ」
「かしこまりました。そのように、命令文を組みます」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一九四三年四月二十二日に発生した、イラストリアス、ヴィクトリアス、フォーミダブルの三空母による第一機動艦隊への夜間雷撃は、日本側にとってまったく予期せぬ事態であった。
東洋艦隊は第五十一任務部隊から日本艦隊の位置は知らされていたが、彼ら自身が索敵によって日本艦隊を発見したわけではなかった。
そのため、サマヴィル提督は夕刻を以って南下を開始、日本艦隊との距離を詰めるべく艦隊の速力を二十二ノットにまで上げさせた。そして、攻撃手段は索敵攻撃とすることとなった。
サマヴィルは、雷撃隊を小隊ごとに分離して、予め設定された索敵線を飛び、運良く敵を発見出来ればそのまま攻撃に移るという戦法をとったのである。そしてここに、復座のため戦闘機としては役に立ちそうにないフルマー艦上戦闘機を付けた。
戦闘機としては運動性に難を抱える機体ではあったが、二人乗りということで航法は単座戦闘機に比べて搭乗員の負担は少ない。この機体に照明弾を搭載し、各雷撃機小隊の嚮導機としたのである。
計七個小隊からなるバラクーダ雷撃機の編隊は、フルマー戦闘機と共にそれぞれ与えられた索敵線を元に日本艦隊への攻撃へと飛び立った。そして、どれか一つの小隊が日本艦隊を発見すれば、残りの小隊にもそれを伝達することになっている。
帝国海軍第三艦隊は、この網に絡め取られたのである。
最初に英軍機の接近を察知したのは、甲部隊に所属する榛名の二一号電探であった。距離約五十キロで接近中の機影を発見。報告は、ただちに旗艦翔鶴に上げられた。
だが、すでに日が没してからだいぶ時間が経っていたこともあり、小沢長官はこれを敵艦載機による攻撃だとは考えていなかった。セイロン島からの爆撃機だと判断し、各艦に対空戦闘準備を命じたのである。
小沢長官の頭にあったのは、南太平洋海戦でエスピリットゥサントから飛来したと思しき米軍爆撃機が瑞鶴に夜間爆撃を仕掛けた事例であった。
帝国海軍は長大な航続距離を持つ陸攻を持つが、連合軍にはそのような機体は存在しない(一応、英軍はブリストル・ボーフォート雷撃機を持つが、欧州戦線でしか出現報告はない)。セイロン島から距離もあるので、恐らくカタリナ飛行艇あたりによる爆撃であろうと判断したのである。
そのため、必然的に各艦の見張り員の意識は高空に向けられることとなった。
しかし、一方の英軍攻撃隊は、高度五〇〇メートル以下という非常に低い進撃高度を取っていたのである。これは夜間であるため、水平線を遠くに取ると艦影と黒い海とが重なって敵艦隊を見逃す恐れがあったからである(戦艦の夜戦艦橋が低い位置にあるのも、同様の理屈による)。
そのため、敵機の出現を電探によって察知していながら、見張り員が敵機の接近に気付くのが遅れた。
「輪形陣外周部の風雲より発光信号! 右舷四十五度より敵機接近中! 距離およそ五〇〇〇! 高度三〇〇!」
翔鶴の艦橋に、緊張が走る。
敵機は、低い高度でこちらに接近している。明らかに、雷撃のための高度であった。
「英東洋艦隊からの攻撃か」
その勇猛さを賞賛するように、艦橋で腕を組む小沢は呟いた。
雷撃を仕掛けようとしているということは、セイロン島の航空部隊ではあり得ない。確実に、英東洋艦隊の空母を発進した機体だろう。
「各艦、衝突には厳重に注意せよ! なお、一航戦は対空砲の射撃を厳禁とする!」
甲部隊に対し、小沢の命令が伝達される。彼は、夜間に対空砲火を撃ち上げることによって、空母が敵攻撃隊の標的となることを恐れたのである。
輪形陣外周部を守る駆逐艦が、発砲を開始した。
それと同時に、艦隊が眩い光に包まれる。一機だけ上昇したフルマー戦闘機が、照明弾を投下したのであった。
「敵機の数は四! 形状から、バラクーダ雷撃機と思われます!」
照明弾は甲部隊を照らし出すと共に、敵機の姿も露わにした。
各艦が曳光弾混じりの対空砲火を発し、インド洋の夜空へと向かう流星を作り上げる。四機の敵雷撃機に対して、猛烈な勢いで発射される高角砲弾、機銃弾が空中で交差していく。
だが、対空射撃管制用の電探を持たない日本の対空砲火は、視界の限られる夜間での命中率は昼間にも増して悪かった。
結果、敵雷撃機を容易に輪形陣内部に侵入させてしまう。
「敵機、榛名に向かう模様!」
空母を守るような位置で激しく対空砲火を撃ち上げている戦艦榛名に対して、バラクーダ雷撃機が襲撃運動を取っていた。
榛名は対空砲火を撃ち上げつつ、転舵を始めている。
その内の一機が、ようやく対空砲火の直撃を受け墜落。榛名の手前に水柱と火柱を上げた。さらに魚雷投下後、反転して離脱にかかった二機が、被弾面積の大きな横腹を晒した瞬間に火を噴いた。一機が利根の近くに、もう一機が阿賀野の近くで水柱と共に散華する。
やがて、雷跡が榛名の艦尾を抜けていくのを、翔鶴見張り員が確認した。
「敵の通信を傍受しました!」ほっと息つく暇もなく、通信兵が艦橋に飛び込んでくる。「どうやら、我が艦隊の位置を知らせているようです」
「まさか、英艦隊も水上艦による夜戦を企図しているのでは?」
山田参謀長が、戦慄と共にその可能性を小沢に進言する。第二艦隊が米機動部隊の追撃に向かっている現状では、敵が同じことを考えていると思うのも、無理からぬことであった。
「うむ。一旦、針路を南に取ろう」小沢は言った「艦隊針路、南へ」
「はっ! 取り舵一杯! 針路一八〇!」
「宜候! とぉーりかーじ一杯! 針路一八〇!」
小沢の命令を受け、翔鶴艦長・岡田為次大佐が航海長に転舵を命ずる。そして、小沢の指示は発光信号や信号旗によって甲部隊全艦に伝えられた。
◇◇◇
次に襲撃を受けたのは、乙部隊であった。
甲部隊を発見した英軍雷撃隊の通信を受けた他の部隊が、甲部隊を目指す途上で飛龍以下の艦艇を発見したのである。
甲部隊の榛名から敵機の接近を知らされた時、飛龍に座乗する山口多聞少将は、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦の経験から、敵艦載機による夜間空襲と敵陸上機による夜間爆撃の双方を警戒していた。
甲部隊と違い、乙部隊で電探を搭載しているのは飛龍だけである。
そのため、約十キロの距離を開けて甲部隊の後方を進んでいた乙部隊では、夜間見張り員総出で上空から海面付近まで、徹底的に見張るよう飛龍から各艦に指示が下された。
戦艦よりも低い位置に設置されている飛龍の二一号電探が敵影を捉えたのは、彼我の距離が三十三キロに迫った時のことであった。
すでに前方で甲部隊が上げる対空砲火を確認しているため、乙部隊では高角砲や機銃に取り付いた兵員たちが緊張と共に上空と海面を見つめていた。
「谷風より信号! 右舷七〇度に敵機発見!」
「全艦、対空戦闘開始!」
山口の命令一下、乙部隊は一斉に対空射撃を開始する。
輪形陣外周部に配置された四隻の秋月型駆逐艦が、最も激しく火箭を飛ばしている。八門の長一〇センチ高角砲が次々に砲弾を放っていた。
やがて、吊光弾を投下するために上昇したフルマー戦闘機によって、乙部隊は眩く夜の海上に照らし出される。
乙部隊の対空砲火の精度も、先の甲部隊と大差はない。夜空に曳光弾が飛んでいくだけである。
「夜間攻撃がこれほど厄介とはな……」
ミッドウェー海戦で薄暮攻撃を実施した経験のある山口は、因果応報という言葉を思い出して皮肉な笑みを浮かべていた。
「敵機、照月に向かう模様!」
後続がどれほどの数なのか不明であるが、敵編隊はまず輪形陣外周部を潰すことを選んだらしい。あるいは、激しく対空砲火を打ち上げる秋月型を巡洋艦か何かと誤認しているのかもしれない。
少なくとも、夜間でなくとも航空機による艦種誤認は付きものである。
この時、照月は全高角砲を敵機に向けるために、襲撃運動を取っているバラクーダ雷撃に対して完全に横腹を晒す格好となっていた。さらに、魚雷投下前に撃墜出来ると思ったのか、あるいは下手に回避運動をすれば敵機の輪形陣侵入を許してしまうと艦長が判断していたのかは判らないが、敵機の雷撃に対して回避運動が遅れてしまった。
結果、四機のバラクーダは照月に対して魚雷を投下し、内、一本が照月の艦首に命中した。
「照月、被雷しました!」
轟音と共に立ち上った水柱は、飛龍からもはっきりと見えた。山口は無言で拳を握りしめる。
最悪、空母さえ残っていれば如何様にでも反撃出来る。だが、だからといって友軍艦艇の被害を目の当たりにして何の感情も浮かばないわけではないのだ。照月乗員の何割かは、もう二度と祖国の土を踏むことはない。
艦橋から前を切断された照月は、被雷から約一時間後に沈没した。
照月は、連合軍母艦航空隊がこの海戦において撃沈した最初の艦となった。
◇◇◇
英軍機による夜間空襲は、断続的に続いていた。
甲部隊は最初の空襲から一時間あまりで、三度、敵雷撃機の襲撃を受けていた。当初は一航戦の発砲を禁じていた小沢中将であったが、輪形陣の乱れからそうも言っていられなくなっていた。
輪形陣を構成する僚艦に守ってもらうのではなく、自らの対空砲火によって艦を守る必要に迫られていたのである。
八基の高角砲や多数の機銃が、次々に発砲していく。だが、月明かりの空の中に曳光弾が吸い込まれていくようで、どこまで効果があるのかは疑問であった。
「敵雷撃機三、右一五〇度、距離六〇〇〇!」
「取り舵一杯!」
「とぉーりかぁーじ!」
敵機は、翔鶴の存在に気付いたらしい。対空砲火の発砲炎か、白い航跡が目立っていたのかは判らない。艦橋に緊張が走る。
「阿賀野より信号! 敵雷撃機四、貴艦ニ向カウ!」
「新手か!?」
艦橋の誰かが愕然としたように叫んだ。
「左舷七〇度、距離八〇〇〇に敵機らしきものを発見!」
完全な偶然ではあったのだが、この時、索敵のために散開していた二つのバラクーダ雷撃隊がほぼ同時に甲部隊を捕捉していた。
そして、艦隊陣形が乱れ始めていたことが、英軍に翔鶴への攻撃を容易にしていた。
この時、翔鶴はある意味で不運であった。もう一方の大型空母である瑞鶴は、英軍機からはちょうど榛名の影になるような位置にあったため、二つの雷撃隊は翔鶴に殺到してしまったのである。
「構わん、そのまま舵を切り続けろ!」
岡田艦長が航海長に怒鳴る。
取り舵を切り続ければ、右舷後方から迫り来る雷撃機に対しては艦尾正面を晒すことで被弾面積を最小に出来る。そして、左舷前方より迫る敵機に対しても、上手くすれば艦首を晒すことで被弾面積を最小に出来る。
そう判断しての命令であった。
「敵機、魚雷投下の模様!」
やがて、翔鶴の艦首が左に振られ、インド洋の黒い海面を切っていく。最大戦速で切り裂かれた波の一部が艦首機銃座に届き、機銃員たちの体を濡らした。
遠心力のかかる艦橋では、長官席に座る小沢長官を始めとした全員が手近なものに掴まって体が投げ出されるのを耐えていた。
翔鶴の周囲では対空砲火が炸裂する轟音が響いているというのに、艦橋だけはそこだけ空間が切り取られてしまったかのように痛いほどの静寂に包まれていた。
十秒、二十秒と時間が過ぎていく。
「右舷の魚雷、艦尾に抜けました!」
「……」
「……」
見張り員の叫びに応ずる声はない。まだ、左舷から接近する魚雷が残っている。
空気がひりつくような緊張感を孕んだ数瞬。
翔鶴の艦底から、突き上げるような衝撃が艦橋を揺さぶった。
「南無三……!」
歯軋り混じりの声が、艦橋に響く。
「被害知らせ!」
「左舷後部に一発被雷! 第四発電機室に浸水! 操舵機電源喪失!」
「速力を十ノットに落とせ! 操舵機の電源回復急げ! 右舷へ注水! 傾斜復元急げ!」
岡田艦長は翔鶴の速度を落とすと共に、応急修理を担当する内務科に矢継ぎ早に命令を下した。最大戦速を出したままでは、浸水箇所に圧力がかかって防水隔壁が破壊されてしまう恐れがあった。
断続的な空襲がある状況下では危険な判断ではあったが、翔鶴は帝国海軍に残されたたった二隻の大型空母なのである。この翔鶴と瑞鶴は、帝国海軍にあって虎の子に等しいのだ。
岡田は、危険は承知で賭けに出た。まだ僚艦は健在である。ならば、僚艦の援護を期待出来る。
操舵機の電源を喪失した翔鶴は、取り舵を切ったままその場で旋回を始めていた。すでに、周辺の艦は翔鶴の異変に気付いたのだろう。
金剛と利根、筑摩が取り舵旋回を続ける彼女に寄り添うように、周囲を取り囲む。
「舵機故障ナリヤ?」
第三戦隊旗艦の金剛から、そのような発光信号がなされる。
「我、操舵装置電源喪失」
「我舵故障」を意味する旗旒信号が上げられると共に、信号員が発光信号で金剛に返答した。
そうしている間にも、岡田艦長の下にさらに詳細な被害報告が上げられた。
それによれば、被雷の衝撃によって左舷のスクリューシャフトが二本とも破損。右舷の二軸推進となり、最大速力は二十四ノットにまで低下するという。さらに発電装置の損傷によって、艦橋直下の第一、第二電信室が使用不能となった。
一応、翔鶴型にはさらに艦中央部に下部電信室が存在していたが、こちらは通信傍受を担当する部署であり、通信機の送信能力は低い。事実上、翔鶴は通信不能となってしまったのである。
「第三戦隊司令に信号」
その事実を知った小沢は、ただちに命令を下した。
「『我、通信不能。三戦隊司令ハ三Fノ指揮ヲ代行セヨ』」
「はっ!」
第三戦隊司令官の栗田健男少将は、第三艦隊の次席指揮官に当たる。航空戦の指揮に関しては、小沢、山口の順での指揮権継承が出撃前に合意されていたが、第三艦隊そのものの指揮に関しては何らかの合意が形成されていたわけではない。
小沢は、軍令承行令に則った対応をとったわけである。
「長官、将旗を瑞鶴に移されては?」
「今はまだ艦隊が混乱している」山田参謀長の言葉に、小沢は首を振った。「旗艦を移すのは混乱が収まってからでよかろう。この状態では、当分、私や山口くんの出番はあるまい」
自身の迂闊さを嘆くように、言い終わった小沢は溜息をついた。
翔鶴の操舵装置は応急電源に繋ぎ直すことで、被雷から十分後には正常に復帰した。深まっていた傾斜も注水によって六度にまで回復し、ひとまず、沈没の危険はないと判断された。
その後、第三艦隊の指揮権を一時的に継承することになった栗田健男少将の指揮は水際立っていた。
彼の旗艦、金剛の下には甲部隊の翔鶴被雷、さらに乙部隊では照月被雷、回避行動中の最上、三隈衝突という報告が次々と舞い込んでおり、第三艦隊がかなり危険な状況に陥っていることを理解していた。
もし、こちらの第二艦隊と同じように英艦隊が戦艦部隊による夜襲を目論んでいるならば、速力の低下した翔鶴、最上、三隈が危険である。
そう判断した栗田は、ただちに甲部隊、乙部隊の合同を命じると共に、自らの第三戦隊と第十戦隊だけを指揮下に置き、残存艦艇の指揮を二航戦司令官の山口に委ねた。
彼は、金剛と榛名、そして阿賀野以下の水雷戦隊によって英艦隊の追撃を阻止すべく、殿を買って出たのである。
そして、山口には残存艦艇の指揮権を与え、戦力再編のために南方に退避させた。
それと同時に栗田は、第二艦隊に向けて第三艦隊が夜間空襲を受けた旨を打電。英東洋艦隊の夜襲の可能性を示唆した。
とはいえ、米艦隊との戦闘中であるだろう第二艦隊に、栗田は大した期待を寄せていなかった。距離的に、今夜中の合同は無理だろうと判断していたのである。
彼は、あえて救援を要請するような無線を発することで、それを傍受するであろう英艦隊を牽制しようとしていたのである。
後世の視点から見れば、栗田の判断は杞憂に終わるわけであるが、この時、栗田を含めた第三艦隊の各司令は英艦隊による追撃を本気で恐れていた。当時、彼らの頭にあったのは、たった一隻のドイツ戦艦、ビスマルクを本国艦隊などの戦力を集結させて執拗に追い続けた英海軍の執念深さであったという。
速力の低下した翔鶴、最上、三隈などを含んだ残存艦艇を南へ逃がすと共に、自らは殿として空母の背後を守ろうとした第三戦隊と第十戦隊。
彼らは最終的に、英艦隊の追撃を受けることなく、現地時刻二十三日○四○○時過ぎには、無事に第二艦隊との合流を果たすことが出来た。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「よくぞ、やってくれた」
感に堪えぬといった調子で、サマヴィル中将は呟いた。
三空母では、帰還した雷撃隊の収容作業が行われている。夜空には、母艦の位置を知らせるための探照灯の白い光芒が伸びていた。
参謀の一部には、敵潜水艦に発見される恐れがあるとして反対する者もいたが、サマヴィルは夜間雷撃隊に片道出撃を命じるつもりはなかった。
東洋艦隊は対潜警戒を厳としつつ、収容作業を続けていた。イギリス海軍は、これまで大型艦のほとんどを潜水艦の雷撃によって失ってきた。インド洋でリヴェンジが撃沈されたことは、サマヴィルの記憶に新しい。
だが、だからといって搭乗員たちを見捨てるという選択肢はない。
「攻撃隊からの報告では、戦艦一、空母二、巡洋艦二、艦種不詳二、撃沈確実。空母一、巡洋艦三撃破ということです。夜間故の誤認も含まれているでしょうが、相応の戦果は上げたものと思われます」
「セイロン島の基地航空隊に要請をするのだ。夜明けと共にセイロン島南東海域を捜索され度、とな。日本艦隊に与えた打撃の詳細を知りたい」
「アイ・サー。ただちに電文を組みます」
通信参謀が敬礼し、即座に通信室に向かう。
「それにしても、本当に、彼らはよくやってくれた。私自らが搭乗員たちを労ってやれないのが残念でならんよ」
戦艦キング・ジョージ五世の艦橋から、サマヴィルは探照灯の光を放つ三空母を見つめた。
流石に、全機が帰還したわけではない。撃墜されたか、あるいは機位を失ったかで、およそ半数が未帰還となっている。探照灯を照射しなければ、おそらく帰還した機体は三分の一を切っていただろう。
「だが、これは紛れもなく我が
高揚感に満ちたサマヴィルの呟きが、艦橋に響き渡った。
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