26 追撃の旭日旗

 風上に向かって転舵した飛龍の甲板に、暖気運転を行っている発動機の轟音が鳴り響いていた。

 すでに第三次攻撃隊の搭乗員割りは艦橋脇の黒板に示され、「搭乗員整列」の号令がかけられている。

 日は徐々に傾きつつあり、この攻撃が確実にこの日最後の攻撃となることを飛龍乗員も搭乗員も理解していた。そしてまた、母艦を飛び立っていく航空機の内、何機かは永遠に還らないであることも判っていた。

 飛龍乗員の多くはミッドウェー海戦を経験している。あの時ほどの悲壮感はないが、それでも出撃を前にして艦内には粛然たる雰囲気が流れていた。


「江草くん、ご苦労だとは思うが、また頼む」


 搭乗員が整列した飛行甲板にまで降りてきた山口多聞少将は、第三次攻撃隊の隊長としてこの日二度目の出撃が決まった男の前に立っていた。


「いえ、敵空母の最後が見届けられないことだけが心残りでしたので、出撃は望むところであります」


 そう言って、江草は爽やかな笑みを浮かべた。

 その笑みが、山口の中でミッドウェーで散っていった小林や友永の顔を重なる。


「本艦も、君たちが出撃した後は全力で敵艦隊に向かう。本艦だけではない。小沢長官の翔鶴も、角田司令の隼鷹もだ。必ず帰還せよ。成功を祈る」


「はっ!」


 江草の敬礼に、山口や加来止男艦長が答礼する。

 そして、「かかれ!」の号令と共に搭乗員たちが機体へと一斉に走り出した。

 整備員たちがベルトを締めるのを手伝い、全搭乗員が機体に乗り込むと発進準備が完了する。発着艦指揮所から旗が振られ、車止めチョークを外された零戦から飛行甲板を飛び立っていった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 エセックスの曳航準備が整ったのは、被雷から五時間以上が経った一五五八時であった。

 彼女は被弾によって発生した火災により艦内電路の一部が焼き切れ、ダメージ・コントロール班の作業に著しい支障を来していた。一時、傾斜は十八度にまで深まり、艦の放棄が真剣に検討されるほどだった。

 しかし、副長を筆頭とするダメージ・コントロール班の必死の作業によって、傾斜は七度にまで回復したのだ。これ以上の浸水を防げれば、曳航は可能であった。

 スプルーアンスは港湾設備の整っているインドのコーチンへ一旦エセックスを回航し、応急修理の後、本国に帰還させるつもりであった。

 少なくとも、合衆国の優れたダメージ・コントロール技術は、航行不能ではあるもののエセックスを救ったのである。片舷に魚雷三本を受けても転覆しないことを目標に設計された水中防御も、その効果を発揮していた。

 また、後世の視点から見てエセックスが幸運であったのは、彼女が対空火器の増設などの改装を受けていないことであった。大戦後期になるとエセックス級の対空火器は増強され、それによってトップへービーを起こして復元性を悪化させているのだ。

 もしエセックスが対空火器の増強を受けていれば、確実に転覆沈没していただろうといわれている。

 ともかくも、乗員の努力と一九四三年という時期的な幸運に恵まれて、エセックスは曳航による戦場からの退避が可能となったのである。

 ようやく重巡オーガスタから曳航索が渡されて繋がれた時、艦隊将兵は歓声を上げたという。

 だが、そうした感情はレーダーがもたらした情報によって霧散してしまった。

 一六一三時。

 オーガスタのレーダーは距離一〇〇キロの地点に六〇から七〇機規模の編隊が接近してくるのを探知、ただちにその情報はTBS(艦隊内電話)によって旗艦アイオワに伝達された。


「ジャップの指揮官は、執念深いらしい」


 苦い表情と共に、スプルーアンスは呟いた。あと一時間ほどすれば、日没である。そうなれば、夜の闇に紛れて戦場海域を離脱出来るはずだったのだ。

 状況は、ミッドウェー海戦の時と似ている。あの時も、ただ一隻残ったジャップの空母は粘り強く反撃し、ヨークタウン、ホーネット大破の損害をもたらしたのだ(ヨークタウンはその後、伊一六八潜の雷撃で沈没)。

 もしかしたら、あの時の指揮官が三群の内、どれかの機動部隊を率いているのかもしれない。

 そんな益体やくたいもない思考が、スプルーアンスの脳裏を過ぎる。


「提督、如何されますか?」


「エセックスの曳航作業は一旦中止! 全艦、対空戦闘用意!」


 ムーア参謀長の問いに、スプルーアンスは明快な口調で指示を下した。

 当然ではあるが、上空には艦隊を守るべき戦闘機はいない。今日の戦闘と母艦の損傷・喪失によって全機が失われたのだ。

 今や空を支配するのは、ジャップの航空機だけである。

 だが自分たちが生き残るため、そして合衆国に帰還するためには、戦うしかないのだ。


  ◇◇◇


 二十二日一六三〇時を回る頃、江草隆繁少佐率いる第三次攻撃隊は、第五十一任務部隊の上空に達しつつあった。

 敵艦隊との距離が縮まっていたので、飛行時間は一時間半ほど。

 米艦隊の遙か彼方に、鮮やかな夕日が水平線に近づきつつある。

 広大なインド洋に沈んでいこうとする太陽は、何とも幻想的な眺めであった。とはいえ、そこはあと数分もすれば対空砲火の黒煙に汚されていくことになる。

 そのことに、江草は恐怖を覚えなかった。感覚が麻痺しているのか、単に図太いだけなのかは、自分でもよく判らない。とはいえ、怯懦では急降下爆撃など出来ないことも道理である。

 彼の頭にあるのはただ、これまで無念の最期を遂げていった戦友たちのためにも敵空母を撃沈しなければならないという思いである。

 ミッドウェーで沈没した蒼龍のことは、今でも鮮明に思い出せた。

 そして、あの海戦を生き残った飛龍と共に戦った第二次ソロモン海戦と南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦。

 三つの海戦で、江草たち母艦航空隊は空母サラトガ、ホーネット、エンタープライズ、レンジャー、戦艦インディアナを撃沈している(インディアナについては、基地航空隊との共同戦果だが)。

 だが、それでは足りない。

 燃えさかる蒼龍と共に沈んでいた戦友たち、ソロモンの海で散っていた村田重治を始めとする搭乗員たち。彼らの無念を継いで、自分は敵艦を沈め続けなければならない。

 それはきっと、自分が彼らと同じように散華するか、この戦争が終わるまで変わらない思いだろう。

 戦場で生き残るということは、戦い続けるということなのだ。


「全機、突撃せよ!」


 そして、この日三度目となるト連送が、母艦に向けて発信された。


  ◇◇◇


 最初に突入してきたのは、九九艦爆ヴァルであった。

 午前中の空襲よりも、その機数は三分の一ほどになっている。しかし、油断は出来なかった。

 ダイヴブレーキが空気を切り裂く独特の音と共に、九九艦爆は緩降下から急降下に転ずる。

 最初に目標とされたのは、軽巡サンタフェであった。彼女は大型艦の中で最も激しく対空砲火を撃ち出していたので、非常に目立っていた。三隻の戦艦とボルチモア、デンバーの対空砲火が破壊された状況において、艦隊最大の対空火器を持つのは彼女だったのだ。

 雷撃隊の進路を啓開する役割を持っていた九九艦爆は、対空砲火によって二機が撃墜されながらも、サンタフェへの投弾に成功。三発が彼女への直撃弾となった。

 そうして空いた輪形陣の穴を突破して、さらに後続の九九艦爆がエセックスへと突撃を開始した。

 動けない目標に対して、日本海軍は急降下爆撃の手本ともいえるような鮮やかさで爆弾を命中させた。機体後部を赤く染めた機体も含めて、エセックスを狙った六機すべてが爆弾を命中させている。

 この瞬間、彼女の飛行甲板は完全に破壊され、さらに艦橋に命中した五〇〇ポンド爆弾はダンカン艦長以下、艦の主要幹部を死傷させた。

 そして、断末魔の悲鳴を上げるエセックスに追い打ちをかけるように、九七艦攻ケイトが接近していた。

 彼らはエセックスの傾斜する右舷側から輪形陣内部へと斬り込んでいた。これを阻止すべき艦は、すでに存在していなかった。

 輪形陣外周を突破する段階で九七艦攻は三機を失いながらも、エセックスに対して過たず投雷。数十秒後、彼女の右舷に三本の水柱が立った。

 これにより、一度は回復したエセックスの傾斜はさらに深まった。だが、艦長戦死による指揮系統の混乱などから、即座の総員退艦命令が出されなかった。このため、多くの乗員が彼女と共に海へと引きずり込まれることとなった。

 そして、第五十一任務部隊の災厄はそれだけでは終わらなかった。

 エセックスは所詮、動かない標的である。そのような艦に、多くの九七艦攻を割くはずがなかった。

 残った九七艦攻は、アイオワ、アラバマ、ボルチモア(どうやら戦艦と誤認されたらしい)、そして炎上するサンタフェに雷撃を敢行。

 アイオワに命中した魚雷は幸いにして不発だったが、アラバマには二本、ボルチモアは艦尾に一本、サンタフェも中央部に一本(実際は二本被雷だが、一発不発)が命中。

 これを以って、ジャップによる第三次空襲は終了した。

 時に、一七〇三時。

 わずか三十分前後の空襲によって、第五十一任務部隊は空母のみならず水上艦艇にも大損害を負うこととなったのである。






「エセックス生存者の救助、終了いたしました。確認出来た生存者は四二七名です」


「二五〇〇名以上が、犠牲となったわけか」


 その数字に戦慄を覚えるような調子で、スプルーアンスは確認した。


「はい」


 ムーア参謀長も、衝撃的な事実に改めて打ちのめされていた。

 エセックスの乗員は約三〇〇〇名である。生存者四二七名という数字は、いかに犠牲が大きいかが判る。

 ガダルカナル沖海戦(日本側呼称、第三次ソロモン海戦)では、戦艦サウスダコタが片舷に八本もの魚雷を喰らい、急速に沈没したために生存者は二〇〇名を切っていたというが、それに近い人的損害であった。

 やはり、エセックスも被雷から沈没までの時間が短かったため、乗員の多くが脱出出来なかったのである。


「その他の艦はどうだ?」


「アラバマより、出しうる速力十七ノットとの報告が寄せられています。サンタフェも火災が鎮火し、十ノットでの自力航行が可能です。しかし、ボルチモアはスクリューシャフトが破損し、機関室にまで浸水したために航行不能となっております」


「オーガスタに曳航準備をするよう命じろ」


 この日、二度目の曳航準備命令をスプルーアンスは発した。


「その他の艦は、対潜警戒を厳とせよ。インド洋には、ジャップとドイツの潜水艦が跋扈しているという。ソナー員はわずかな兆候も見落としてはならん」


 ここでもスプルーアンスが考えたのは、自らが体験したミッドウェー海戦であった。

 あの時も、航行不能となったヨークタウンはジャップの潜水艦によって止めを刺されたのである。同じようなことが、インド洋で起こってもおかしくない。

 それに、すでにソロモン戦線において合衆国海軍はジャップの潜水艦部隊に幾多の艦艇・船舶を撃沈されている。ドイツのUボートともども、決して油断出来る相手ではなかった。

 ジャップの艦隊との対決は、彼の率いる任務部隊が戦力を喪失したことによって実質的に終了した。

 あとは、明日以降のイギリス東洋艦隊とセイロン島の基地航空隊の奮戦にかかっている。事実上、第五十一任務部隊のインド洋での役割は終わったと、スプルーアンスは考えていた。

 とはいえ、コーチンまでの道のりは長い。

 まだ気を抜けそうにないな、と彼は思っていた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 第三次攻撃隊は、完全に日が落ちる前に母艦へと帰投していた。

 山口の言った通り、帝国海軍第一機動艦隊は攻撃隊の発進後、アメリカ海軍第五十一任務部隊との距離を詰めるべく進撃を続けていたからである。

 これにより、往路は一時間半であったものが、復路は一時間程度で済んだのであった。


「明日は、英東洋艦隊との決戦か」


 彼方に沈む夕日の残照を眺めながら、小沢は呟いた。

 整備員と搭乗員には二日連続で空母決戦を行うため、多大な負担をかけている。喪失した機体、戦死した搭乗員の数も多い。

 それでも、損傷機などを修理すれば未だ三〇〇機近い戦力は維持出来ているであろうと小沢は考えている。少なくとも、セイロン島攻略の最後の障害となる英東洋艦隊を撃退するだけの戦力はある(なお、日本側は撃墜した敵機の搭乗員を捕虜としており、そこからこの日戦った敵艦隊が米軍のものであることを把握していた)。


「搭乗員には、十分な休息を取らせてくれ。明日もまた決戦だ。彼らには、また死力を尽くしてもらうことになろうからな」


「かしこまりました。各艦に伝達いたします」


 山田参謀長がそう言って踵を返そうとしたところで、通信兵が艦橋に上がってきた。


「武蔵の第二艦隊司令部より通信。我、針路二九〇度、速力二十二ノットニテ敵艦隊ニ向カウ。3F(第三艦隊)長官ハ残存艦艇ノ指揮ヲ執ラレ度」


 その報告に、小沢は山田と顔を見合わせた。

 つまり、近藤長官は第二艦隊を率いて米艦隊と思われる敵に突進しているということだ。

 第一機動艦隊は、現在までに帰還する搭乗員の収容のために敵艦隊に接近する針路を取っていた。そして、近藤長官は攻撃隊の収容後もその針路を取り続けると宣言しているのである。

 恐らく、前衛部隊である第二艦隊と敵艦隊との距離は一〇〇浬を切っているだろう。損傷艦艇を伴っている米艦隊を追撃することは、十分に現実的である。


「近藤長官は、夜戦にて米艦隊の撃滅を期すようですな」


「うむ。セイロン攻略後のインド洋の海上交通路を確保するためにも、後々の禍根となるだろう敵艦隊を撃滅する好機だろう」


 小沢も、近藤の方針に納得していた。


「通信」


「はっ!」


「第二艦隊に返信。通信了解、貴艦隊ノ健闘ヲ祈ル。以上だ」


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 ボルチモアが浸水を食い止め、傾斜を復旧するまでに第五十一任務部隊は一時間半近い時間を浪費してしまった。

 完全に、彼女の練度不足によるものであった。さらに被弾によって防水区画のいくつかに不具合が見つかったことも、ボルチモアのダメージ・コントロールを困難とした理由の一つであった。

 やはり、竣工時期を無理に早めたことが影響しているのである。

 とはいえ、今や合衆国海軍にとって使い勝手の良い重巡は貴重な存在である。ソロモン戦線で重巡の喪失や損傷が相次いだ結果、合衆国海軍に健在な重巡はオーガスタのみとなってしまっていた。

 ボルチモアが竣工時期を早めてでも戦力化が急がれた原因は、そうした合衆国海軍の艦艇不足が大きく影響しているのである。

 ボルチモアの曳航準備が整うまでの間、駆逐艦に収容されていた沈没艦の乗員は、アイオワとマサチューセッツに移乗させられた。三空母と駆逐艦フートの生存者が、駆逐艦の甲板にまで溢れていたからである。

 二十二日一八四七時。

 合衆国海軍第五十一任務部隊は、対潜警戒を厳としつつボルチモアを曳航しながら北上を開始した。

 艦隊速力はわずかに三ノットである。

 速力の出せる艦のみ先行させるという選択肢もあったが、付近で不審電波が確認されたため、断念された。

 艦隊を分割するには、護衛艦艇が不足しているのである。フートが沈没して駆逐艦の数は十三隻。ボルチモアとそれを曳航するオーガスタ、被雷による速力の衰えたアラバマとサンタフェの他に、戦艦二、軽巡一が護衛を必要としていた。

 艦隊を分割した場合、特に速力の出ない曳航組は枢軸軍潜水艦の群狼戦術の餌食となってしまう恐れがある。インド洋にはジャップの潜水艦だけでなく、ドイツのUボートも展開しているのだ。

 だが、二〇一七時、スプルーアンスの判断を迷わせる事態が生じた。


「オーガスタのレーダーが、南東より接近する機影を確認! 数は一です!」


「ジャップの索敵機か……」


 その報告で、スプルーアンスはすべてを悟った。


「ジャップは、水上部隊による追撃を試みている」


「まさか……!?」ムーア参謀長が目を見開く。「連中は明日以降も戦闘を控え、上陸部隊の援護を行わねばなりません。我が艦隊の撃滅ばかりにこだわれば、徒に戦力を消耗するだけです」


「だからこその、水上部隊だろう」


 水上部隊指揮官としての経験が長いスプルーアンスは、ジャップの指揮官の考えが理解出来るような気がした。

 そう、ムーア参謀長の言うように、ジャップがインド洋のいずれかの地点の攻略を考えているのなら、戦力は温存しておきたいはずである。

 では、温存する戦力の優先順位は何か。

 当然、それは機動部隊の航空戦力である。であるならば、残敵掃討に水上部隊を使うのは理にかなっているともいえた。

 ジャップはサンタクルーズ諸島沖海戦(日本側呼称、南太平洋海戦)においても、水上部隊による合衆国艦隊の追撃を試みているのだ。

 もちろん、ムーアの言うように戦力を消耗してしまう可能性もあるが、暗号解読によればジャップの艦隊には戦艦が八隻いるという。

 ソロモンでの戦訓を考えれば、上陸援護には戦艦が一隻でも残っていればいい。我が合衆国は、その一隻の戦艦、長門型の陸奥のためにガ島飛行場を破壊され、以後、ソロモン戦線で敗勢に陥ったのだから。

 恐らく、とスプルーアンスは思う。かつての自分の上官、猛将の誉れ高いウィリアム・F・ハルゼー提督ならば、今のジャップと同じ判断を下しただろう。

 相手が損傷して速力を出せないのならば、水上艦であっても十分に捕捉出来るだろう。現に、我々はジャップの索敵機と思しき反応に接近されているのだ。

 対潜警戒にばかり意識が向き、水上部隊による追撃の可能性を失念していた自分の失態である。

 いや、イギリス東洋艦隊がジャップの索敵機の接触を受けたという報告を得たことで、ジャップの意識がそちらに向かうと無意識の内に断定していたのかもしれない。元々、自分は東洋艦隊をジャップに対する囮として使うつもりだったのだから。

 こうも自分の思惑が裏目に出ると、逆に笑いたくなってしまう。

 とはいえ、艦隊司令官である以上、思考の放棄は許されない。


「駆逐艦は引き続き対潜警戒を怠るな。それと、本艦のSGレーダーは生きているな?」


「サー、その通りであります」


 マックレア艦長が答える。


「よろしい。本艦を最後衛として、戦艦部隊は単縦陣を組め。敵水上部隊の夜襲に備える。対潜警戒も兼ねて適度にジグザグ運動を行い、後方警戒を厳とするのだ」


「アイ・サー!」


 とはいえ、スプルーアンスは何も司令官としての責任感から戦艦部隊を後衛に配置しようとしたわけではない。対潜警戒陣を組もうとすれば、どうしても大型艦は後方に配置せざるを得ないのだ。

 基本的に、潜水艦は艦隊(あるいは船団)の前方から襲撃を仕掛けてくる。速力が水上艦に遙かに劣る潜水艦の戦術は、必然的にそうならざるを得ないのだ。

 だから、大型艦を対潜戦闘が可能な駆逐艦の邪魔にならない艦隊後方に配置するというスプルーアンスの命令は、対潜警戒と追撃してくるであろうジャップの水上艦隊への対処の両面において、合理性を追求したものといえた。

 もちろん、スプルーアンスは任務部隊がかなり危険な状態に陥っていることを理解していた。速力が出ない艦隊は、敵潜水艦の襲撃を受けやすい。そして、ジャップの水上部隊による追撃。

 実は、アイオワを初めとする合衆国の新鋭戦艦のSGレーダーには、致命的な欠陥があったのである。設置場所が司令塔上部であったため、直後にそびえ立つ前部檣楼によって後方に探知上の死角を生じてしまっているのであった。

 何故このような場所にレーダーを設置したのか、スプルーアンスとしては設計者を問い詰めたい気分であった。

 彼があえて戦艦によるジグザグ運動を指示したのも、対潜警戒をすると共に、そうしたレーダーの死角を少しでも補うためである。

 だが、彼らをこれから襲うことになる災厄は、これだけに留まらなかった。

 さらに三十分ほど時間が経った二〇四三時。

 スプルーアンスが当初懸念していたことが現実のものとなってしまったのである。

 突如として、前衛を横に広げる形の対潜警戒陣、その左翼側を守っていた駆逐艦スワンソンの舷側に水柱が立ち上った。その轟音は、当然、アイオワに座乗していたスプルーアンスにもはっきりと聞こえた。


「敵潜による雷撃です!」


「全艦、一斉回頭!」


 すでに日が暮れた海上で、第五十一任務部隊は敵潜水艦からの魚雷を避けるために一斉に舵を切った。各艦が個別に舵を切っては、衝突する危険性もあったからである。

 オーガスタもボルチモアを曳航したまま舵を切ったため、負荷がかかって曳航索が切断されてしまった。これでは、再度、曳航索を結び直さなければならない。

 そして、被雷したスワンソンは左舷に大きく傾いて洋上に停止していた。


「最寄りの駆逐艦にスワンソンの救援をさせろ。その他駆逐艦は引き続き敵潜水艦の探知に努めよ」


 スプルーアンスは矢継ぎ早に命令を下す。

 この時、第五十一任務部隊を雷撃したのは、福村利明中佐の指揮する伊二七潜であった。

 彼女を含めたインド洋中部に展開していた潜水艦は、ペナンの第八潜水戦隊司令部から超々波の通信によって米機動部隊の位置が伝達され、その襲撃を命じられていたのである。

 福村中佐は、撃沈トン数において日本海軍最多を誇るエース潜水艦長であった。ただし、インド洋での活動が主だったため、その戦果のほとんどは輸送船である。そのため、太平洋方面で空母を雷撃した多くの潜水艦長と比べると、いささか影が薄い。

 しかし逆にいえば、それだけ敵艦艇への襲撃運動に長けているということでもある。

 彼は昼頃受信した敵機動部隊の位置情報から損傷した艦艇が向かうであろう針路を推測、モルディブ諸島東方で網を張っていたのであった。

 福村中佐は魚雷を発射すると即座に潜行、米駆逐艦の爆雷攻撃を逃れるべく退避を開始した。


「針路上に潜水艦、後方からはジャップの水上艦艇か」


 速力の出せる艦艇はこの海域を即座に離脱したいところではあるが、そうなれば航行不能となっているボルチモアや速力が出せないアラバマやサンタフェは確実にジャップの水上艦隊に捕捉されるだろう。

 最善の方法は、三隻を自沈させてこの海域を脱すること。

 そうなれば、敵潜水艦からも水上部隊からも逃れられる。だが、二隻の巡洋艦はともかく、まだ十分に浮力のある戦艦を自沈させるのはあまりに早計な気がした。

 もしジャップが高速のコンゴウ・クラスでの追撃を試みているのならば、十分に撃退は可能である。ナガト・クラスであっても、アイオワとマサチューセッツが健在な状況ならば撃退出来よう。

 また、三隻の乗員を他の艦に移乗させるために海上に停止すれば、今度はその艦が敵潜水艦に狙われる。特にアラバマの乗員は約二三〇〇名と非常に多い。移乗には時間がかかるだろう。


「……ボルチモアは乗員移乗の後、自沈させよ」


 様々な思考を数瞬で済ませたスプルーアンスは断固とした口調で命じた。

 航行不能なボルチモアは、どのような状況であっても足手まといである。素早く乗員を移乗させ、少なくとも潜水艦の存在するこの海域からの離脱は図るべきだろう。そうなれば、艦隊速力はサンタフェの十ノットに合わせられる。それでも輸送船団並みの低速ではあるが、この際、やむを得ない。

 曳航索の切れたボルチモアを救うにしても、どの道、海上に停止せざるを得ない。それならば、曳航に必要なオーガスタを戦闘に投入出来るようにした方がいいだろう。

 苦渋の決断ではあるが、すべてを救おうとして任務部隊全体を危険に晒すわけにはいなかいのだ。


「アイ・サー!」


 命令を受けたムーア参謀長が、強ばった面持ちで敬礼する。彼にとっても、自軍の艦艇を自らの手で沈めなければならない状況は苦しいのだ。


「戦艦部隊は後方警戒を怠るな」


 かくなる上は、追撃するジャップの艦隊を迎撃し、これを撃退するしかない。

 アラバマは速力を低下させているが傾斜は復旧しており、射撃は可能である。

 ジャップも上陸作戦を控えており、いかに水上艦隊とはいえ、ここで大きく戦力や弾薬を消耗することは避けるはずだ。

 後衛を務める戦艦部隊と健在なオーガスタ、主砲の射撃は可能なデンバーによって、まずは突撃してくるであろう敵の巡洋艦部隊と水雷戦隊を徹底的に撃退する。

 第五十一任務部隊が生き残るためには、自らの手で未来を切り拓くしかないのだ。


  ◇◇◇


 第二艦隊は、二十二ノットで第五十一任務部隊を追撃していた。

 二十一日の時点で給油は済ませてあるため、駆逐艦の燃料も心配はない。さらに飛行甲板を損傷した飛鷹も含めた第三航空戦隊も、追撃に参加していた。

 これは単に、三空母を分離するだけの時間的猶予がなかったためである。敵を水上艦隊で追撃する以上、ことは一刻を争うのだ。

 敵艦隊を捕捉次第、三空母は第二十四駆逐隊を護衛に付けて戦場海域後方に待機させることになっている。

 二〇二八時、索敵のために飛ばしていた水偵の内、高雄の所属機が数ノットで北上を続ける米艦隊を発見した。その水偵は盛んに電波を発信し、他の索敵機を呼び寄せている。

 各索敵機には吊光弾を搭載しており、砲戦となった際には戦場を照らす役割も担っていた。


「敵艦隊との距離は四〇浬(約七十四キロ)を切っております! あと一時間弱で接敵出来るでしょう!」


 白石参謀長の興奮した声が武蔵の夜戦艦橋に響く。

 索敵機からの通報を受けた第二艦隊は、敵艦隊に向けて針路を取っていた。夜になっても気温の下がらぬインド洋の黒い海面を、白い航跡を残しながら武蔵は進撃する。


「本艦も、弾着観測機を用意いたします」


「うむ、よかろう」


 古村艦長に、近藤が頷き返す。

 初陣にして敵艦に主砲を発射する機会に恵まれたことで、武蔵艦内には静かな興奮が満ちていた。

 特に、武蔵乗員の中にはミッドウェーで沈んだ赤城などの乗員も配属されている。彼らはこれでミッドウェーの復仇が出来る、戦友の仇を討てると、他の乗員以上に士気を高めていた。あるいはそこには、自分たちの口封じを目論む海軍上層部への鬱憤もあったのかもしれない。

 しかしとにかくも、武蔵の士気は高かった。

 古村も、そうした乗員たちを頼もしく思っている。

 艦隊はさらに速力を二十四ノットにまで増速し、第五十一任務部隊へと一直線に突進していった。






 二十二日二一三四時。

 最初に敵艦隊を発見したのは、やはりというべきか戦艦武蔵の二一号電探であった。

 大阪帝大を卒業した直後に武蔵に配属された松井宗明通信長は、通信兵器の専門家とでもいうべき知識を持っている。その彼の努力の結果、武蔵の電探は今日一日、一切の不調を起こすことなく作動し続けていたのである。

 しかも本来、対空見張用であるはずの武蔵の二一号電探は、前任の有馬艦長が松井大尉に無理を言って水上捜索用電探にも使えるよう、改造されている(ちなみに、リンガ泊地でこれを知った他の戦艦の艦長たちからも松井大尉に同様の要望が出され、出撃直前まで彼は各艦の電探の調整に奔走することになった)。

 距離約二十七キロで、米艦隊とおぼしき反応を探知。

 松井通信長の改造により、武蔵の電探はカタログスペック上で水上探知可能距離三十キロであるわけだから、実戦の場でかなり優秀な成果を挙げたことになる。


「各艦、弾着観測機発進始め!」


「宜候! 弾着観測機、発進始め!」


 武蔵の艦尾に備えられたカタパルトから、三機の零式水上観測機が次々と打ち出される。


「先制で、電探射撃が出来んかな?」


 電探で捉えられたにも関わらず見張り員からは何の報告もないため、近藤長官が焦れたように尋ねた。


「弾薬を無意味に消耗することになりかねません」だが、古村は首を振る。「通信長の話では、電探は水上目標に対して八〇〇から一〇〇〇メートルの誤差が出るそうです。あくまで、光学照準の補助として使うしかありません」


「うぅむ」


 至極残念そうに近藤は唸った。

 恐らく、一年前の日本海軍では想像も出来ない変化であったろう。ソロモン方面で何度となく繰り返された夜戦、そして武蔵の電探が松井通信長と星電探員の個人的努力の成果によりカタログスペックに近い性能を発揮し続けることによって、第二艦隊司令部の者たちは価値観を変化させていたのだ。


「こちら電探室、敵艦隊に動きがありました」


 艦内電話で、くだんの松井通信長より報告がある。


「後衛と思しき一部の艦が変針。電波反射の反応の変化を考えるに、こちらに横腹を晒そうとしているようです」


「うむ、通信長。よくやってくれた」


 古村はその報告に破顔する。つまり、敵はこちらに対して丁字を描こうとしているのである。その動きを、武蔵の電探は捉えたのだ。


「長官」


「いや、まだだ。こちらの見張り員が敵艦隊を捉えておらん」


 敵艦隊を視認せず、舵を切るわけにはいかなかった。


「それに、米軍は第三次ソロモン海戦で二万メートルを切ってから射撃を開始したというではないか。まだ時間的猶予はある」


 近藤は、逸る自分自身を抑えるかのように言った。

 そして、電探に遅れること約二分。ようやく見張り員が距離一万八〇〇〇メートルにて敵影を捕捉。


「見張り員より報告! 右舷一〇度に敵影確認! 戦艦とおぼしき大型艦三、巡洋艦一! 距離一万八〇〇〇! 方位六〇度に向け十六ノットにて航行中!」


「しめた!」近藤は歓声を上げた。「米軍の戦艦の内、被雷によって速力を落としているものがいるらしい!」


「では、こちらの速力を活かして丁字を描くよう、変針させますか?」


 白石万隆参謀長が問いかける。

 米軍の十六ノットに対して、日本側は二十五ノットが出せる。それを活かして、敵の頭を抑えようというのだ。


「いや、流石に敵もそれは許さんだろう。速力の出る艦を分離して、こちらの艦隊運動を妨害しようとするに違いない。そうなれば、こちらの陣形も乱れる。このまま同航戦を挑み、機会があれば敵の前方に回り込むとしよう」


「かしこまりました」


 白石は一礼して引き下がる。そして、近藤は古村艦長に向けて頷いた。


「第一、第二戦隊、面舵に転舵! 左同航砲戦用意!」


「宜候! おもーかぁーじ! 左同航砲戦用意!」


「三航戦は第二十四駆逐隊と共に退避! 第四、第十六戦隊および第二水雷戦隊は敵艦隊に向け突撃せよ!」


 近藤は矢継ぎ早に命じる。

 実はこの時、第二艦隊の先頭を走っていたのは水雷戦隊でも巡洋艦部隊でもなく、戦艦武蔵であった。米艦隊の追撃に際して、武蔵の電探による索敵を行うために、このような配置となっていたのである。

 つまり、第二艦隊は前衛となるべき水雷戦隊などを一切置いていなかったのである。

 一方の第五十一任務部隊は、戦艦を最後衛に配置して殿を務めていた。

 そのため、両艦隊は第三次ソロモン海戦のような水雷戦隊による前哨戦など一切なしに、戦艦同士がいきなり衝突することとなったのである。


「水偵に吊光弾の投下を下命! 武蔵目標、敵一番艦、長門、敵二番艦、第二戦隊は共同にて敵三番艦を目標とせよ!」


 だが、第二艦隊の誰もそのことに戸惑いを覚えなかった。

 もともと、第二艦隊は夜戦を旨とする巡洋艦部隊であったのだ。その第二艦隊において、戦艦とは決戦兵器ではなく、敵艦の砲火を引きつける役割を負った存在に過ぎないのである。

 戦艦部隊が前哨戦なく砲戦に突入することなど、第二艦隊にとっては戦前から想定済みなのだ(そもそも、漸減邀撃作戦という構想から考えれば、第二艦隊の戦闘そのものが決戦における前哨戦)。


「宜候! 目標、敵一番艦!」


 艦橋頂部の十五メートル測距儀が回転を始め、目標となる的艦を捕捉した。

 海面から三十八メートルの高さにある射撃指揮所に詰める測手たちから、測距データがヴァイタルパート内部の主砲発令所に送信される。武蔵の速力、的艦の方位や速力などのデータが九八式射撃盤に入力され、計算結果が射撃指揮所を通して各砲塔に伝達、主砲塔が旋回し、砲身が目標に向かって仰角を取り始めた。

 射撃指揮所では、方位盤射手と旋回手が照準器を覗き込み、的艦に向け照準を合わせる。


「射撃用意よし!」


 永橋為茂砲術長が、興奮を抑えきれぬ声で報告する。

 古村艦長が確認のために近藤中将に顔を向けると、彼は小さく、だがはっきりと頷いた。古村は伝声管に向かって、息を吸い込んだ。そして、叫ぶ。


「撃ち方始め!」


「てぇー!」


 この瞬間、武蔵の主砲弾は砲炎と轟音を残してインド洋へと解き放たれた。

 時に、一九四三年四月二十二日二一三九時。

 武蔵が実戦において初めて主砲を発射した瞬間であった。

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