20 ソロモンの悪夢
この時、鉄底海峡ではいくつかのことが同時に発生していた。
まず、川内隊が戦場海域東方への退避を図るのと同時に、雷撃を終えた第二十駆逐隊、第十九駆逐隊も退避行動を取っていた(旗艦朝霧が被弾・炎上し航行不能となっている)。
また、第六十八任務部隊の前衛駆逐隊は、鳥海以下重巡部隊に退避行動を取らせることに成功した反面、駆逐艦ド・ヘイヴンを失っていた。その後、メリル少将からの救援命令を受け、ヘレナ、コロンビアが航行不能となっている海面へと急行するが、その途上で戦艦霧島に捕捉された。
そのため、三隻となった前衛駆逐隊は、まずはこの強敵を撃退する必要に迫られたのである。すでに三隻は鳥海以下の重巡部隊に魚雷を消費しており、次発装填装置を持たないアメリカ駆逐艦には霧島を撃退するだけの決定打に欠けていた。
しかし、二隻の軽巡を救援しなければならないため、前衛駆逐隊は霧島に対して魚雷を発射すると見せかける襲撃運動を繰り返すことで、この金剛型戦艦をヘレナとコロンビアから遠ざけようとしていた。
一方、第二駆逐隊の三隻と後衛駆逐隊は隊列の乱れたまま混戦に突入しており、最中に米駆逐艦コンウェイとブキャナンが衝突事故を起こしている。
そして川内隊は、川内が回避運動を繰り返していたために直進を続けていた第十一駆逐隊との間に距離を生じており、追撃を始めたクリーブランド、モントピリアに対して実質的な殿を務めることになっていた。
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「左舷二〇度に敵新鋭巡洋艦二を確認! 距離七〇〇〇! さらに右舷三〇度に川内を確認!」
夕立の艦橋に、見張り員の声が響く。
「よし、ついに見つけたぞ」
吉川中佐は手の平に拳を打ち付けた。
「航海長、取り舵だ。右砲雷戦用意! 目標、敵巡洋艦!」
「宜候。とぉーりかぁーじ!」
第二駆逐隊は敵後衛駆逐隊との戦闘の結果、隊列を大きく崩している。そのため、何の因果か、夕立は第三次ソロモン海戦に引き続き、単独行動を取ることになったのであった。
機関の轟音を高らかに響かせながら、夕立は鉄底海峡を疾駆する。
この呪われた海が艦艇にとっての冥府だとすれば、幾多の連合軍艦艇を屠ってきた彼女は、まさしく冥府への導き手といえた。
「川内、敵巡洋艦からの砲撃を受けている模様!」
心なしか、見張り員の声には悲壮感が漂っていた。次々と立ち上る水柱の中に消えてゆく川内の運命を案じているのだろう。
友軍が撃ちまくられているという状況は、艦橋に詰める乗員たちの心にも重くのし掛かっていた。
「案ずるな」
だが、吉川はどこか余裕を感じさせる声で彼らに語りかけた。
「川内艦長の森下大佐は操艦の名手だ。そう簡単にやられはせんよ」
実際、見張り員からは未だ川内が被弾・炎上したというような報告がない。同じ水雷屋として、その操艦技術の卓越さに吉川は舌を巻く思いだった。
「こっちはこっちでやるぞ! 砲術長、目標、敵巡洋艦一番艦、撃ち方始め!」
「宜候! 目標、敵巡洋艦一番艦、撃ち方始め!」
椛島砲術長の溌剌とした声と共に、夕立の十二・七センチ砲が射撃を開始する。
すでに彼我の距離は六〇〇〇メートルを切っていた。二基四門の主砲が交互射撃を繰り返す。
「水雷長、魚雷発射用意! 距離二五にて魚雷発射始めだ!」
「宜候! 距離二五にて魚雷発射始め!」
中村悌次水雷長の若々しい快活さに溢れた声が返ってくる。
「目標が戦艦でないことに文句を言わんでくれよ。文句は戦艦を出してこなかったアメ公に言ってくれ」
「了解です。魚雷にそう書いてやつらに送りつけてやります」
伝声管を通じた諧謔に満ちた応酬に、乗員たちの緊張がわずかに和らいだ。
夕立は、最大戦速で海を切り裂いて進んでいく。
一方、クリーブランド、モントピリアは川内に向けて射撃を続けていた。
主砲の交互射撃を行い、両用砲による星弾射撃でジャップの四本煙突の巡洋艦を照らし出している。
だが、未だ彼女を仕留めるには至っていない。
「ジャップの艦長は魔法でも使っているのか?」
思わずそうした呟きがメリル少将の口から出てしまうほど、二隻の砲撃は延々と空振りを繰り返している。
敵艦はまばらに応射してくるのみで、どうやら回避運動に徹しているらしい。だが、最大戦速とはいえ敵艦は右へ左への転舵を繰り返しており、直線的に追撃しているクリーブランドらは徐々に距離を詰めつつあった。
ただし、問題がないわけではない。
最初のジャップの重巡部隊に対する砲撃から始まり、今に至るまでクリーブランドとモントピリアは射撃を繰り返している。Mk.16主砲の速射性はジャップに対して優位に立てる点でもあったが、それだけに弾薬の消耗は早い。
すでに両艦は八〇〇発以上の六インチ砲弾を消費していた。それでいて、撃沈した敵艦は皆無である。
「レーダー室より報告、右舷三〇度方向より接近する艦影あり」
「……」
メリルは一瞬、判断に迷った。レーダーに映った艦影が、敵か味方か判然としないのだ。
「恐らく、後衛駆逐隊の一艦でしょう」
幕僚の一人が断定口調で言った。
「小官も、そのように判断いたします」
バーロウ艦長も、幕僚の意見に同意する。
「……」
だが、メリル少将は一抹の不安を拭い去ることは出来なかった。彼は直感的に、この艦影がジャップであると感じていたのである。
「両用砲、対艦射撃用意。目標、接近中の艦影」
「提督!」
どこか咎めるような声が幕僚たちの間から上がる。
「責任はすべて私が取る!」だが、メリルは譲らなかった。「艦長、ただちに両用砲指揮官に射撃命令を発したまえ!」
「ア、アイ・サー!」
戸惑いを多分に含んだ声で応じたバーロウ大佐は、急いで両用砲指揮官に射撃目標の伝達および射撃開始命令を下した。後部檣楼に備えられていたSCレーダーは鳥海からの被弾によって破損していたため、対空射撃方位盤を用いた光学照準となる。
だが、彼らの逡巡は戦場という場所においてはいささか長すぎたといえるかもしれない。
対空射撃方位盤が夕立への射撃諸元を求め終わる前に、彼女の射弾がクリーブランドに降り注いだのである。
「だんちゃーく!」
「弾着近、近! 苗頭増せ三! てぇー!」
敵艦の周囲に立ち上る水柱を観測して椛島砲術長はただちに射撃諸元を修正、次なる射撃を指示する。
白波を蹴立てて進む夕立は、敵新鋭巡洋艦二隻との距離を急速に縮めつつあった。吉川が射点とした距離二五〇〇メートルの地点まで、三十四ノットならば三分弱で到達出来てしまう。
それだけ、戦場の動きというのは急速であった。
「だんちゃーく!」
「命中一を確認!」
ストップウォッチを持つ計測員と見張り員の声が重なる。
「砲術長、次より斉射だ! どんどん撃て! 何なら撃ち尽くしても構わんぞ!」
「宜候! どんどん撃ちます!」
次の瞬間、夕立の四門の十二・七センチ砲が斉射を開始した。
砲口から砲煙をたなびかせて、夕立はなおも突撃を続けていた。
「ファイア!」
クリーブランドに備えられた三基の五インチ両用砲が射撃を開始する。
クリーブランド級には連装六基計十二門の両用砲を備えているが、内四基は両舷にそれぞれ二基ずつ配置されており、残りの二基は中心線上に配置されていた。このため、片舷に向けられる砲門は八門だけであり、さらに夕立に対しては射界の関係から後部の一基が使用出来なかった。
クリーブランドが両用砲射撃を開始してしばらく、後続するモントピリアからTBS(艦隊内電話)がかかってきた。
『後衛駆逐隊との同士討ちの可能性があります! 射撃を中止すべきです!』
モントピリア艦長ウッド大佐からのものだ。
「我々は今まさに撃たれているのだ!」だが、電話を受け取ったメリルはにべもなかった。「あんな間抜けな味方がいるものか! 奴はジャップだ!」
そう言ったきり、彼は電話を切った。
モントピリア艦長は同士討ちを恐れているらしい。これでは、まともな支援は期待出来ないだろう。
レーダーがあったとしても、夜戦における敵味方の識別の難しさをメリル少将は痛感していた。
不意に、艦橋が目もくらむような光に包まれた。同時に襲ってくる爆発音。
「前部両用砲に被弾した模様! 弾薬の誘爆により、火災が発生しています!」
「消火急げ!」
艦橋が騒然となる間にも、二種類の砲による射撃は継続している。
休むことなく砲撃を続けるクリーブランドは、さながら小さな火山のようでもあった。だが、その射撃も敵に打撃を与えなければ、砲弾も単なる金属と火薬の塊である。
クリーブランドが川内との距離を詰める一方、夕立も確実に彼女との距離を縮めていた。
「敵一番艦前部で火災発生の模様!」
「よくやった、砲術長!」
吉川は夕立艦橋で快哉を叫んだ。
いかに戦場上空に吊光弾や星弾の光があるとはいえ、昼間に比べれば視界は限定的である。敵艦に火災を発生させられたのは大きい。
敵巡洋艦の重厚な艦影が、鉄底海峡に浮かび上がる。
「まるで戦艦だな……」
双眼鏡で敵艦影を確認した吉川が、感嘆の息を漏らす。艦の前後に背負い式に配置された四基の主砲塔。それは、第三次ソロモン海戦で遭遇した米新鋭戦艦を彷彿とさせるものであった。
夕立の周囲にも着弾がある。水柱の大きさから見て、敵の高角砲による射撃だろう。どうやら、敵巡洋艦は主砲を川内に向け、高角砲をこちらに向けているらしい。
敵艦は川内を左舷側に見ているはずであり、その反対方向にいる夕立に主砲の照準を修正するのは時間がかかると判断したからだろう。
もう少し耐えていて下さいよ、森下艦長。
吉川は内心でそう念じる。川内も二隻の巡洋艦から集中砲火を受けて危機的状況だろうが、夕立の雷撃が成功するまでは何としても持ち堪えておいて欲しい。
操艦の名手とまで言われる水雷屋の先輩を囮とするようで申し訳ないが、その分の借りは敵艦を撃沈することで返したいと思う。
「敵艦との距離三五! 射点まであと六〇秒!」
航海長の声が艦橋に響く。
「水雷長、いいか!?」
「発射方位盤への諸元入力完了! いつでもいけます!」
「よろしい!」
主砲射撃と弾着の轟音の中で、吉川は怒鳴るように応じた。
「航海長、舵中央で固定! こっからは雷撃開始まで一切変針なしだ! 突っ込め!」
「宜候! 舵中央!」
主砲も魚雷発射管も右舷に指向している夕立。
敵艦との距離・方位が算定された以上、魚雷の発射が完了するまで夕立は一切の変針・速度の増減は出来ない。
駆逐艦乗りとしての度胸の見せ所だった。
夕立の周囲に着弾する敵の高角砲弾。それが立てる水柱をものともせず、白露型四番艦は突進していく。
前部の主砲が射撃を繰り返し、敵艦を牽制する。夕立の主砲は、およそ六秒に一度、斉射を繰り返している。初速九一〇メートルの高初速弾は、この距離であれば四秒で敵に到達する。
すでに敵艦の各所で火災が発生しており、敵の射弾に目に見えて精密さがなくなってきた。恐らく、電探か射撃管制装置に打撃を与えたのだろう。
だが、流石に夕立も無傷とはいかなかった。
衝撃と共に、艦後部から爆発音が響く。
「被害知らせ!」
艦が即座に爆沈しなかったことから、少なくとも魚雷発射管には命中しなかったようだ。
そのことに安堵しつつ、吉川は伝声管に怒鳴る。
「後部機銃甲板に被弾! 三連装機銃破損の模様!」
「機関は無事か!?」
「こちら機関長! 機関、全力発揮可能!」
「よし! そのまま今の速力を出していてくれよ!」
「宜候!」
「艦長、まもなく射点に付きます!」被害報告に割り込むように、航海長が怒鳴った。「距離二七……二六……二五!」
「魚雷発射始め!」
「宜候! 魚雷発射始め!」
圧搾空気の独特な音と共に、八本の九三式魚雷が海へと飛び出していく。
雷速は最大の四十八ノット。二五〇〇メートルの距離を、一〇〇秒程度で駛走する。
吉川は興奮と緊張が入り交じった表情で、クリーブランドを見ていた。
「敵駆逐艦後部に命中弾あり!」
興奮した見張り員の報告を受けても、クリーブランド艦橋は緊迫感に包まれていた。
すでに彼女は十発近い小口径砲弾を被弾し、両用砲や機銃座、そして対空射撃方位盤を破壊されていたのだ。
さらに艦橋前部の両用砲が誘爆したことによって発生した火災により、艦橋の電路の一部が焼き切られモントピリアとのTBS通信が不可能になるなど、クリーブランドの指揮系統に深刻な打撃を与えていた。
「敵駆逐艦、本艦後方に抜けていきます!」
「……っ。艦長、面舵一杯だ!」
「アイ・サー!
メリルは唇を噛んだ。恐らく、ジャップはすれ違いざまに魚雷を発射しただろう。彼は相手の艦長の度胸と戦術眼に歯がみする思いだった。
左に舵を切れば、追撃中の巡洋艦に横腹を晒すことになり、敵巡洋艦に雷撃の機会を与えてしまう。
逆に右に舵を切れば、敵巡洋艦を取り逃がすことになる。
どちらにしても、ジャップの思うつぼだった。
メリルとしては、被雷の危険性を最小限に留めることが出来る面舵を選ばざるを得なかった。
「輸送隊に緊急通信! 敵水雷戦隊に厳重警戒せよ、以上だ!」
「アイ・サー!」
TBSが使えないため、いちいち通信に頼らなければならない。
やがて、クリーブランドの艦首が右に振られ始める。
「……」
「……」
この戦闘で、二度目のジャップからの雷撃であった。ごくりと、誰もが唾を飲み込む。
だが次の瞬間、床が跳ねるような衝撃が彼らを襲った。クリーブランドの舷側に、高々と水柱が立ち上る。
メリル少将を含めた艦橋にいた人間たちが軒並み引き倒され、海図台や計器板に体をぶつけた者たちの呻きが響く。
「機関停止! ダメージリポート!」
バーロウ大佐が即座に艦内電話に飛びつき、ダメージコントロール班を指揮する副長に報告を求める。
「右舷前部二発、後部に一発被雷! 右舷機関室に浸水が発生しています!」
この時、夕立の放った八本の九三式魚雷は、一本が駛走途中で動作不良を起こしたものの、三本がクリーブランドの船体を捉えることに成功したのである。
魚雷は二五〇〇メートルという至近距離から最大速度で放たれたため、クリーブランドには十分に回避行動を取るだけの時間的余裕がなかった。
クリーブランドは破孔からの急激な浸水によって、右舷に大きく傾く形で洋上に停止していた。
後続のモントピリアは彼女との衝突を避けるため、取り舵に大きく転舵せざるを得なくなった。そのため、川内への射撃も一時停止することになった。これまで主砲を左舷側に向けていたのだが、転舵によって川内を右舷に見ることになったからである。
「敵一番艦に命中三を確認!」
二隻の米巡洋艦の脇をすり抜けた夕立の羅針艦橋に、歓声が沸く。
「取り舵一杯。一度連中と距離を取って魚雷の再装填を行う」
吉川艦長も喜色を隠さない口調で、新たな命令を発する。敵巡洋艦はあと一隻残っている。まだまだやってやるさ、と彼の闘魂は未だ衰えない。
と、その時見張り員が怪訝そうな口調で報告を寄越した。
「ガ島海岸に何か見えます」
「ガ島海岸だと?」
流石の夜間見張り員も、島影と重なってしまったために、自身の発見したものが何であるのかを理解出来ないようだった。そもそも、多数の照明弾や発砲炎の影響で、暗闇に慣らした彼らの目もだいぶ元に戻ってしまっているはずだ。
「岩礁の可能性もあります。不用意に近づくのは危険と思われますが」
航海長がそう進言する。
「うぅむ……」
吉川も怪訝そうな顔を隠さない。すでに彼の心からは魚雷命中の興奮は消え、正体不明の影への警戒心に満ちていた。戦場での甘い判断は、そのまま自らの死、部下たちの死に繋がる。
「第八艦隊司令部、三水戦司令部、四水戦司令部宛に、片っ端から報告を入れろ。ガ島海岸に識別不明の艦影を認む、と」
「『艦影』としてしまってよろしいのですか?」
信号長が戸惑いがちに言った。
「構わん。もしかしたら米軍の隠密輸送部隊かもしれんからな」
ガ島攻防戦の間、何度かそうした敵と遭遇していた吉川はそう判断していた。
「了解です。ただちに第八艦隊司令部、三水戦司令部、四水戦司令部相手に電文を組みます」
「おう、頼んだぞ」
そのまま夕立は、敵巡洋艦からもガ島沖の影からも離れるような針路を取り、魚雷の再装填作業を行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
フレッチャー艦長は、レーダー室からもたらされた報告に心臓が飛び出るような思いであった。
ジャップの駆逐艦とおぼしき艦影がこちらに接近してきたというのだ。クリーブランドからは敵水雷戦隊がこちらへの襲撃を企てている可能性があるという。思わず、艦長は天を仰いだ。
しかし幸い、その敵影は何をするでもなく遠ざかっていたが、今後もそうした幸運が続くとは思えなかった。
現在、フレッチャーを旗艦とする輸送隊は、主隊がジャップの艦隊を引きつけている隙を突いて、ガ島海岸での撤収作業を行っていた。
とはいえ、その作業はこれまでと同様に緊張感の伴うものであった。いや、敵艦隊の襲撃を警戒しなければならない分、今まで以上かもしれなかった。
すでに上陸用舟艇や折りたたみ式浮舟による撤収作業を始めて四十分近くが経っていたが、高速輸送艦や駆逐艦に収容出来た人数は二〇〇〇名程度であった。ガ島にはまだ一万人以上の将兵が取り残されていることを考えると、全員を収容するのには三時間以上の時間が必要となる。
「全駆逐艦に、戦闘用意を下令しろ」
敵艦隊による襲撃の危険性が高まったと見て、輸送隊の指揮を委ねられたフレッチャー艦長はそう命じた。
「主よ、どうか我ら合衆国に加護を」
彼に今出来ることは、その程度しかなかった。
「何故、再突入をしないのですか!?」
戦場海面からいささか離れた位置にまで退避する羽目になった鳥海では、早川艦長が怒りも露わに第八艦隊司令部に詰め寄っていた。
「敵の巡洋艦部隊は、三水戦によって撃退されている。これ以上、戦闘を継続する理由はないだろう」
三川長官の言葉に、三水戦に撃退してもらった、だろうにと早川は罵倒に近い思いを抱く。
重巡という比較的強力な艦を預かっておきながら、この海戦でほとんど何の役にも立てていないことに、早川としては恥ずかしいやら情けないやら複雑な心境だった。
ところが、第八艦隊司令部はそうでもないらしい。
「各艦がどの場所にいるのかも十分に把握出来ておらん。敵味方の識別が十分出来ない状況で、再突入は出来ん」
「夕立の電文から、状況は明らかです! ガ島海岸では、米高速輸送艦による撤収作業が今まさに行われているのです!」
だが、早川としては一歩も譲ることは出来ない。このままでは、ガ島の米軍を取り逃がしてしまう。そうなれば、後々大きな禍根を残すだろう。
「失礼いたします! 三水戦橋本司令より入電。『ガ島海岸ニテ米軍撤収作業実施中ノ可能性大。魚雷再装填ノ後、突入ス』。続いて霧島からも入電。『我、ガ島海岸ヘノ艦砲射撃ヲ敢行ス』。以上です!」
夜戦艦橋の雰囲気の悪さにも関わらず、電文を読み上げた通信兵は見事だったろう。
早川は内心で通信兵を賞賛した。やはり、他の指揮官たちも自分と同じことを思っているらしい。事実上、独断で行動すると言っているようなものだった。
三川長官以下、司令部の人間たちの表情が明らかにばつの悪そうなものになった。
もはや構うものか、というどこか投げやりな思いが早川の心を占めた。恐らく、司令部批判を繰り返している自分は次の人事異動で泣きを見ることになるだろう。
だったら今更、独断行動の一つや二つ、構うまい。
「本艦水偵に、ガ島海岸の捜索および三水戦、霧島の弾着観測援護を命じます」
本心では鳥海の再突入を宣言してしまいたかったが、流石に旗艦艦長がそのようなことをすれば反乱同然であり、後々海軍に悪い影響を及ぼすと考えたのだ。
「……やむを得んな」
早川の剣幕に気圧されたのか、三川長官が不承不承と言った声で言った。
「全艦、面舵一杯。鳥海に続け。目標、ガ島海岸」
「宜候! おもーかーじいっぱい!」
ようやく望んでいた命令を三川長官が発したことに、早川は特に喜びを覚えなかった。それは、出されていて然るべき命令だったからだ。
ただ、これで自分の望むとおりの戦いは出来る。
不愉快な連中のことは忘れて、今は戦闘指揮に集中しようと彼は思った。
こうして、海戦の最終段階になって鳥海以下四隻の重巡はようやく戦場へと戻ってきたのである。
後世、第四次ソロモン海戦(アメリカ側呼称、第二次ガダルカナル沖海戦)は、ほとんど第三水雷戦隊と第六十八任務部隊の戦闘だったと評されることになる。
実際、連合艦隊参謀長であった宇垣纏は、日記にそうした旨の記述をしている。
海戦終結の後、その消極性が目に余った第八艦隊司令部は軒並み更迭され、鮫島具重中将が後任に就くことになった。また、何かと艦隊司令部と衝突することの多かった早川幹夫大佐も、“喧嘩両成敗”とばかりに、老朽化が著しい戦艦山城艦長に
ただ、早川艦長に関していえば、着任した直後の山城がインド洋作戦に投入されることになったため、完全な左遷とは言い難い面もあった。彼はその後、戦艦長門艦長を務めるなど、順調に出世していくことになる。
第四次ソロモン海戦は、ソロモン戦線における最後の大規模海戦となった。
以後、戦力を消耗し尽くした合衆国側は限定的な攻勢に出ることすら出来なくなり、日本側も潜水艦と航空兵力による通商破壊作戦に終始したためである。
そして日本はその後、絶対国防圏を設定し、ラバウルを含めたソロモン・ニューギニア戦線全域からの撤退を決断することになる。
日本海軍は最後まで夜戦における精強さを示し続けたのであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ホワイトハウスの大統領執務室は、重苦しい雰囲気に満ちていた。
「これが、ガダルカナル撤収作戦“クリーンスレート作戦”の結果かね」
老眼鏡をかけたルーズベルト大統領が、海軍作戦本部から届けられた報告書を示した。
「はい、その通りです」
キング作戦部長は不本意ながらも頷かざるを得なかった。
報告書に記載された結果は、第一次ガダルカナル沖海戦(第三次ソロモン海戦)と同程度か、それ以上に深刻であった。
沈没艦は、戦艦がコロラド、メリーランド、ミシシッピーの三隻、護衛空母はシェナンゴ、軽巡はボイシ、クリーブランド、コロンビア、ヘレナの四隻、駆逐艦はストロング、オバノン、ラドフォード、ウッドワース、ド・ヘイヴン、ニコラス、コニー、フレッチャー、テイラーの九隻、さらに高速輸送艦もストリンガム、デント、ウォーターズ、ブルックスの四隻を失っていた。
第二次ガダルカナル沖海戦の終盤、撤収作業中であった海岸にジャップの水雷戦隊が襲撃をかけたため、離脱を果たせずに沈没した駆逐艦や高速輸送艦も多いのだ。
フレッチャーに関してはガ島海岸に擱座・放棄されたのだが、ガ島がジャップの占領下にある以上、浮揚修理の見込みは立っていない。それどころか、フレッチャーに搭載していた最新の電子装備がジャップに鹵獲されている恐れもあった。
さらに第二次撤収作戦の最中、敵機の機銃掃射によってエインズワース少将が戦死している。
そして何にも増して深刻なのが、海兵第一師団と陸軍アメリカル師団の損害であった。
第三次撤収作戦では収容作業中に日本艦隊の襲撃を受けたため、収容出来た将兵は三五〇〇名に過ぎない。
輸送隊離脱後、ジャップの艦隊はガ島に徹底した艦砲射撃を行ったという。
その結果、ジャップの陸軍による掃討作戦も相俟って、ガ島に取り残された将兵は殲滅され、ヴァンデクリフト、パッチ両師団長も行方不明となっている。恐らく、敵の艦砲射撃によって戦死したのだろう。ガ島には身を守るべきトーチカなどないのだ。
これにより、陸上で失われた将兵は累計で二万名に上り、しかもその半数以上が敵の攻撃ではなく飢餓や傷病によって命を失ったという惨憺たる結果に終わった。
貴重な艦艇と航空機、そしてよく訓練された乗員・搭乗員たちもを失ったことを考えれば、フィリピン戦で失われた八万の将兵を上回る大損害であった。
ソロモンの海は、合衆国にとってまさしく悪夢に等しいものとなったのだ。
「太平洋方面での攻勢は、いささか性急に過ぎたのかもしれんな」
溜息をつくように、ルーズベルトは呟いた。
その呟きに、太平洋戦線を重視するキングは不機嫌そうな表情を隠そうともしない。とはいえ、元々そうした直情傾向のある人間なので、ルーズベルトもさして気にしない。戦争に勝利するためには、能力が第一なのだ。だからこそ、大統領は彼を統合作戦本部の一員に任命したともいえる。
「今後の対枢軸国戦略については、チャーチル首相と会談の場を設けて再検討しなければなるまい」
本来、米英の首脳会談はトーチ作戦後に行われる予定であったのだが、トーチ作戦そのものが延期となり、さらにアメリカは南太平洋戦線が、イギリスは北アフリカ・地中海戦線が逼迫する状況に陥ったので、未だ実現していないのだ。
その時、執務室の扉が開かれ、焦燥感に駆られた様子の補佐官が飛び込んできた。
「お話中のところ、失礼いたします! イギリス政府から緊急の情報です!」
「何かね? まさかドイツ軍が英本土に上陸したというわけではあるまい?」
補佐官を落ち着かせる意味も込めて、ルーズベルトは冗談じみた口調で尋ねる。
だが、補佐官の切迫した様子は変わらなかった。
「二月十六日、輸送船団を伴ったイタリア艦隊がスエズ運河を突破。ヴィシー・フランス政権支配下のジブチに入港、ドイツ軍を上陸させたとのことです! 現在、ジブチは完全に枢軸軍の支配下にあり、対岸の英領アデンはイタリア艦隊からの艦砲射撃を受け壊滅した模様です!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「今をときめく連合艦隊司令長官殿が、憲兵隊に目を付けられている一介の老人にわざわざ面会を求めてくるなど、世の中には奇妙なことがあるものですなぁ」
永田町の邸宅を訪れた山本五十六を、邸宅の主は開口一番、皮肉で迎え入れた。
どういう人物かは事前に情報を得ていたが、さすがにこれは山本としても苦笑せざるを得なかった。
吉田茂。
駐英大使などを務めたことのある、六十三歳の元外交官。現在は永田町の自宅と大磯の別邸とを行き来する、一人の隠居老人に過ぎない立場にある。
だが、そんな一人の隠居老人に過ぎない吉田は、山本にとって何としても人脈を作っておきたい人物であった。
「まったく、海軍は迷惑なことをしてくれたものですな」
客間に通されても、吉田の皮肉は終わらなかった。
「昨年十一月に引き続き、また南太平洋で勝ったそうではないですか。ミッドウェーのごとく大敗していてくれれば、もっと話は早かったでしょうに」
「……」
その言葉に、山本は一瞬だけ目を見開く。ミッドウェーで空母三隻を失ったことは、限られたごく一部の人間しか知らない。天皇は知っているが、首相である東条英機はまったく知らないという、国家としての戦争指導を考えるとまったく愚行としかいえないほどの情報統制を敷いているのだ。
当然、吉田がそれを知っているはずはない。それなのに、それを知っていることを山本に仄めかしたということは、自分はそれだけの情報網を持っているということを示すためだろう。
この老人は、元内相で今も天皇からの信任の厚い牧野伸顕の女婿なのだ。宮中に確固たる人脈を持っており、恐らくはそこからミッドウェー海戦の話が漏れたのかもしれないと山本は考えた。
実際には、吉田は外務省が傍受したアメリカの放送からミッドウェー敗戦の真実を知っていたのだが、山本は知るよしもない。
「あなたが最近、裏でなにやら動いていることは私の“友人”たちからも聞いております。正気ですかな?」
睨むような視線で、吉田は山本を見つめる。どことなく非難がましい視線であるように感じるは、山本が真珠湾攻撃を推進することで間接的に日米開戦を後押ししてしまったからだろう。
「もちろん、正気です」
「ほう」吉田の態度はどこかふてぶてしい。「しかし、あなたは連合艦隊司令長官であり、政治に関わる立場にはない。正直、あてになりませんな」
「海軍内部で、嶋田海相に対する不信感が強まっています」
「ふむ、それが何か?」
人を試すような口調で、吉田は続きを促す。
「小官が海相に就任する。そうなれば、貴殿は内閣と海軍への繋がりを確保することが出来る。違いますかな?」
山本は吉田の行っている和平工作の弱点を見抜いていた。彼らは、現在の東条英機内閣に直接の影響力を及ぼせる立場にはない。牧野伸顕、近衛文麿、宇垣一成、岡田啓介といった大物はいるものの、東条内閣への影響力は皆無に等しい。唯一、木戸幸一内大臣だけが若干の影響力を行使出来るだろうが、彼はあくまで、天皇の意思を間接的に内閣に伝える立場に過ぎない。
また、吉田本人は軍部との繋がりをほとんど持たない。
そのため、彼としても山本五十六という人脈を確保することには大きな意義があるはずであった。
「貴殿の“友人”からすでに聞き及んでいるかもしれませんが、海軍内部にも和平派は存在します。私が海相に就任することで、彼らの旗頭となりましょう」
この時、海軍内部の和平派の中心人物は軍令部員の高松宮宣仁王であり、彼の私設秘書である細川護貞は近衛文麿の女婿でもあった。吉田や山本のいう“友人”とは、主として細川のことである。
この他、海軍内部の和平派の代表的人物として、舞鶴鎮守府参謀長である高木惣吉少将などもいた。
「その先は、どうするつもりですかな?」
未だ納得していないような口調で、吉田は山本に言葉を促す。
「現内閣で和平が達成出来るならばそれも良し、そうでなければ終戦内閣の出現を企図します」
実際、一部の重臣たちの間で東条内閣倒閣の動きがあることを、山本は掴んでいる。東条内閣では和平工作は無理だろうと見られていたのだ。
すでに戦争終結の意思を天皇は周囲に漏らしているが、東条はそれを具体的に実行していない。天皇から講和に関する腹案はどうなっているのかと下問されても、一九四二年三月七日大本営政府連絡会議決定の「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に沿った内容を繰り返すだけであるという。
和平工作を推進したい重臣たちの間では、すでに東条内閣を見限る方向に舵を切っていたのだ。
だからこそ、山本はこの元外交官と自分の利害は一致していると考えていた。
「……やはり軍人は視野が狭いですな」
だが、失望を表すように、吉田は溜息をついた。
「和平の条件は? 交渉のための外交ルートは? 終戦内閣を作るとして、首班は? 大臣は? そこまで考えられて初めて、“正気”です。あなたの言は、ただ自分は和平工作に従事したという自己満足を得るためのものでしかない」
「厳しいお言葉ですな」
吉田がどこまで本心を表しているのか、山本には掴みかねた。あるいはこちらを挑発することで、本心を引き出そうとしているのか。
「私は、貴殿の言うように軍人です。外交に口出しをする立場にはありません。どのような和平条件ならば英米が呑むか、それは本職の外交官にお任せしますよ。軍はそれに従うのみです」
「……なかなかどうして、あなたも捻くれた人間のようですな」
にやり、と吉田の口が皮肉の笑みを作った。
「外交に口出しをしない。まったく、軍人はそうであってくれなければ困ります。正直、私は陸軍の連中にも辟易しているが、あなた方海軍にも思うところがないわけではない」
吉田はロンドン海軍軍縮条約締結当時の外務次官であり、統帥権干犯問題に直面した経験がある。さらにその後、広田弘毅内閣では外相就任を軍部によって妨害され、代わりに駐英大使に任命されたと思えば海軍から色々と注文を付けられている。
吉田の軍部に対する印象というのは、総じて悪いのだ。
それを踏まえた上で、山本は吉田たち外交官に任せると言ったのである。
「和平の条件については外交官に任せるといった今の言葉、確かに記憶しましたぞ」
「ええ、男に二言はありませんよ」
終始、自分はこの男に試されているのだと、山本は感じていた。
「まあ、和平の条件は相当厳しいものになるだろうことは覚悟しておいて下さい。下手をすればポーツマス条約以上の厳しいものになるでしょう。海軍が重視している内南洋も、放棄する必要があるかもしれません。あなた、同じ海軍から相当恨まれますよ?」
「すでに私は英米人から騙し討ちの張本人として蛇蝎の如く嫌われております。今更、そうした人間が増えたところで気にすることはないでしょう」
ようやくこの男に皮肉を返すことが出来て、山本は一矢報いた気分になる。とはいえ、皮肉の応酬をするために、わざわざやって来たわけでもない。
山本は表情を引き締める。
「海軍としては、貴殿が画策しておられるスイス・ルートでの和平工作のために、飛行機を手配する用意があります」
「ほう、あなたも中々良い耳をお持ちのようだ」
感嘆とも皮肉とも取れぬ口調で、吉田は山本の提案に応じた。というよりも、この老人は皮肉を言わないと死ぬ病気にでもかかっているのかと、山本は思う。
吉田の画策しているスイス経由での和平工作とは、彼がミッドウェー海戦敗戦の真実を知った直後から国内の根回しを始めていたものである。
近衛文麿を代表とする外交団をスイスに送り込み、英米と講和についての交渉を行うことを吉田は計画していたのだが、天皇への根回しを担当するはずの木戸幸一が逡巡しており、未だ天皇を動かすには至っていない。
「それでは、
吉田は海軍ではなく、山本五十六に期待していると言っているのだ。
「真の英雄とは、国を救う者です。ただ戦闘に勝つだけの人間は英雄とは言えない。山本提督、それをお忘れなきように」
国民から英雄として扱われている山本に釘を刺したところで、初めてとなる山本・吉田会談は終わった。
この会談がこの戦争の行く末にどのような影響を与えるのか、出会ったばかりの二人とも未だ確信を持つことは出来なかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一九四三年三月十三日。
リンガ泊地に、艦隊の入港を知らせるラッパの音が鳴り響いた。
対岸のシンガポールに通ずるズリアン海峡から、一隻の巨艦を中心とした艦隊が泊地へと入港する。
「……ほう、随分と様変わりしたものだな」
泊地で航空機の発着訓練を行っていた空母飛龍の艦橋で、山口多聞第二航空戦隊司令官はその巨艦の姿に目を見張った。
戦艦武蔵。
第三次ソロモン海戦で米新鋭戦艦との死闘を繰り広げた大和の姉妹艦である。
だが、その姿はかつて山口がトラック泊地で見た大和とは大きく違っていた。
三基の四十六センチ主砲塔は変わらないが、艦の中心部はだいぶ変わっていた。
両舷に備えられていた三連装副砲は撤去され、新たに高角砲甲板を設けて片舷三基の十二・七センチ連装高角砲を増設している。また、周辺の甲板にも二十五ミリ三連装機銃が並べられ、対空兵装を大幅に強化したことが見て取れた。
さらに艦橋最上の十五メートル測距儀上には二一号電探が搭載され、帝国海軍最新鋭戦艦として恥じぬ姿になっている。
後ろに続く長門も、どうやら電探や対空兵装を増設する改装を受けているらしい。
「随分とこの泊地も賑やかになるな」
猛々しさを感じさせる笑みで、山口は新たに加わった武蔵以下の艦艇を眺めていた。
この日、改装工事を終えた戦艦武蔵、第三次ソロモン海戦での損傷を修理した長門と、護衛の空母冲鷹、第六駆逐隊の計六隻がリンガ泊地に入港した。
もちろん、次期インド洋作戦に参加するためである。
すでに空母部隊である第三艦隊は四三年の一月以降、リンガ泊地に集結して航空部隊の練成に努めていた。付近に油田があることから、トラック泊地と違って燃料の心配なく訓練を行うことが出来た。
そのため山口は開戦前と同じく、猛訓練により搭乗員たちから「人殺し多聞丸」との渾名を再び奉られることになった。
それは、彼にとっては複雑な気分であった。部下たちが恐れと親しみを持ってそう呼んでくることは、指揮官として素直に嬉しい。しかし、かつて自分をそう呼んでいた者の多くは、太平洋に散ってしまったのだ。
それでも、自分たちは戦わなければならない。戦って勝利しなければならない。
戦争とは、そういうものなのだ。
やがて帝国最強の戦艦の片割れは、リンガ泊地へと投錨した。
その存在と共に、将兵たちに次なる戦いの到来を告げるがごとくに。
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