10 い号作戦

「……戦艦武蔵の改修・改装工事は二月中には完了し、三月五日には物資の搬入を完了、リンガ泊地へ向かわせることが出来るかと思います」


 横須賀鎮守府内部に置かれた連合艦隊司令部に、渡辺安次戦務参謀の報告が響く。


「参謀本部でも南方軍に対してセイロン島攻略の研究、および準備を指示しているとのことです。軍令部、参謀本部では本年四月中のインド洋作戦の発動を目指しているようです。作戦参加を予定している第二、第三艦隊では鋭意、訓練に励んでおります」


「ふむ。作戦の準備は万全を期すようにしてくれたまえ」山本五十六連合艦隊司令長官が言った。「艦隊側から何か要望があれば、私を通して軍令部に掛け合ってみよう」


「はっ」


 連合艦隊司令部は、第三次ソロモン海戦で第一戦隊が長期のドック入りを余儀なくされたため、陸上に司令部を移していた。

 なお、大和の次に連合艦隊旗艦として予定されていた武蔵も、第三次ソロモン海戦で判明した大和型戦艦の問題点を改修し、同時に対空兵装を強化する改装工事を行っているため、旗艦業務をこなせる状況になかった。

 軍令部などは連合艦隊司令部の地上移転を一時的な措置だと思っているようだが、山本五十六としてはこの措置を恒常的なものにしたいと考えている。

 連合艦隊旗艦の任務のために、戦艦一隻(あるいは一個戦隊)を遊ばせておく余裕は、日本海軍にはない。戦艦の有用性が第三次ソロモン海戦で示されたのだから、これを積極的に活用すべきなのだ。

 だからこそ、連合艦隊は大和型二番艦武蔵を、四月のインド洋作戦に投入することを決意していた。


「続いて、ソロモン戦線の戦況についてご報告いたします」


 渡辺に続いて立ち上がったのは、樋端久利雄航空甲参謀であった。昨年十一月二十日を以て、前任の佐々木彰航空甲参謀と交代している。

 樋端は、海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業した秀才中の秀才であった。


「本月十日を以て発動されました南太平洋全域での通商破壊作戦、い号作戦は順調に進展しつつあります。エスピリットゥサントの米重爆隊の動きも低調であり、これは十二日に第八艦隊が輸送船団を壊滅させたことが大きく響いたものと思われます。第十一航空艦隊からは、なおも戦果を拡張すべく、さらなる航空部品や燃料の輸送と戦力の増強を求めております」


「やはり、通商破壊は効果があるようですな」


 感嘆の声と共に、宇垣纏参謀長が言った。砲術の専門家であり、艦隊決戦の信奉者でもある彼にしては、意外な発言でもある。

 とはいえ、連合艦隊司令部全体が今では彼と同じような認識を抱いている。

 昨年八月に発動されたインド洋での通商破壊作戦、B作戦が順調に進んでいることで、彼らの中で価値観の変化が生まれたのだ。

 後世の歴史家たちは海軍内部のこうした作戦構想の変化について、「日本海軍は一夜にして艦隊決戦第一主義から通商破壊作戦に乗り換えた」と皮肉交じりに評価している。

 日本海軍という組織は、良くも悪くも成功体験を引きずる傾向にある。日本海海戦の勝利に引きずられて、漸減邀撃作戦を長年にわたって研究していたのはその最たる例だろう。

 これまでであれば米艦隊の撃滅に固執していた連合艦隊司令部は、インド洋での成功体験を南太平洋でも再現しようと作戦構想を変化させたのである。今回ばかりは、そうした海軍の傾向が良い結果を生み出したといえるだろう。

 インド洋での通商破壊作戦の結果、同盟国であるドイツ軍が北アフリカ戦線、東部戦線で戦況を有利に進めているという目に見える効果が出ているのも大きいのかもしれない。

 北アフリカ戦線のイギリス軍の補給は喜望峰周りのインド洋航路に頼っており、日本海軍による通商破壊作戦でこの補給線が寸断されてしまったことで窮地に陥った。同時にインド洋はペルシャ湾を通ってソ連への援助物資を運ぶ輸送航路でもあった(とはいえ、最大の援ソ船団航路はウラジオストックやナホトカへ向かう太平洋ルート)。

 こうした結果、ドイツ軍は北アフリカと東部戦線の両戦線で優位に立つことが出来たのである。

 また、四二年十二月三十一日にノルウェー沖で発生したバレンツ海海戦においてドイツ海軍が援ソ船団を撃滅したことも、枢軸軍にとっての追い風となった。これは、日本海軍の水上艦艇による通商破壊作戦に触発されたヒトラーが、自軍の水上艦部隊に積極的な作戦行動を取るように命じたことから生じた大戦果であった。

 結果として、ソ連は北極海航路、ペルシャ湾航路を封鎖されてしまったのである。

 そして、ドイツ水上艦艇による通商破壊作戦に脅威を覚えたイギリスは、アメリカに対して各種艦艇を優先的に大西洋戦線に配備するよう要求。そのため、南太平洋方面に配備される最新鋭艦艇が減少するという効果をもたらしていた。


「陸軍も、ドイツの北アフリカ戦線での善戦を受け、セイロン島攻略には前向きとのことです」


 渡辺戦務参謀が言った。


「ふん、中々現金な奴らですな」


 少し唇を歪めてそう言ったのは、黒島亀人先任参謀であった。

 陸軍、特に参謀本部はセイロン島攻略戦には、一時、消極的であった。ドイツ軍が北アフリカ戦線で優位に立っていない限り、インド洋作戦には協力できないとまで海軍に申し入れてきたほどである。

 それが、昨年十月にドイツ軍がアレキサンドリアを攻略して以来、すっかりセイロン島攻略作戦に前向きになっていた。特にその後、ドイツ軍がスエズ運河の地中海側出口であるポートサイドを占領し、日独連絡航路の開通が現実のものとなったことで、逆に海軍以上に積極的になっているきらいすらあった。

 現在、北アフリカ戦線は、カイロに立てこもるイギリス軍をドイツ・アフリカ軍団が包囲するという状況になっている。


「さて、ソロモンの戦況報告ですが」樋端が話を元に戻した。「航空部品や燃料の輸送については、随時行っております。また、第十一航空艦隊からの要請に基づき、マーシャル方面の第二十四航空戦隊の陸攻隊をソロモン方面へ配置換えを行うべきかと考えております」


 第二十四航空戦隊は、第十一航空艦隊麾下の部隊で、零戦と一式陸攻、それと若干の九九艦爆から成り立つ基地航空隊である。現在、部隊の一部は内地に引揚げて訓練に従事しているが、現地にも戦力は残されている。これを、ソロモン方面に引き抜こうというのである。


「戦闘機隊も派遣すべきではないのか?」


 黒島亀人先任参謀が疑問を挟む。


「はい。いえ、これまでマーシャル方面は米重爆隊による小規模な爆撃に何度か見舞われています。第二十四航空戦隊麾下の戦闘機隊である第二〇一航空隊を引き抜いては、マーシャル防空に支障を来します。また、ソロモン方面には未だ海軍機だけで一五〇機以上の零戦が健在であり、あえて戦闘機隊まで派遣する必要性はないかと思われます」


「ふむ。その判断で問題なかろう」


 山本長官は、樋端の考えを支持した。


「とはいえ、一方で南太平洋方面での米軍の動向も気になる。その点についても報告してくれたまえ」


「はっ。現在、南太平洋において少なくともメリーランド級一隻、アイダホ級三隻の存在が確認されております。通信傍受の結果、他に複数の旧式戦艦が行動中と思われますが、総数は不明です。一方、空母に関しては船団護衛用の特設空母二、ないし三隻が確認されているのみであり、米軍捕虜などから得た情報を勘案するに、米軍の正規空母は未だ南太平洋には存在していないものと思われます」


「い号作戦開始以前の報告に比べても、それほど南太平洋方面の米海軍が増強されている印象は受けないね」


「はい。旧式戦艦に関しても、昨年以来、その存在は確認されておりました。詳細な艦型が航空偵察の結果、判明しただけに過ぎません」


「それで、米戦艦の動向はどうなっているのだ?」


 山本の発言に続いて、宇垣が疑問を投げかけた。


「はい。現在、米戦艦は船団護衛に従事している模様であり、各船団に一隻ずつといった形で分散しております」


「君の作戦勝ちといったところだね」


「恐縮であります」


 樋端はかしこまったように山本に一礼した。

 第三次ソロモン海戦に勝利した連合艦隊であったが、南太平洋方面に存在する米旧式戦艦の存在は懸念材料であった。こちらは第一戦隊が損傷し、長期のドック入りを余儀なくされているのだ。

 日本の戦艦部隊に米海軍ほどの余裕はなく、この旧式戦艦部隊がガダルカナルへの突入を図った場合、結果はどうなるか判らない。ガダルカナルには特殊潜航艇、甲標的が配備されており、狭い水道に差し掛かったところでの雷撃などで対抗出来るだろうが、やはり確実に迎撃出来る兵力が存在していないことは不安要素であった。

 そのため、南太平洋での通商破壊作戦、い号作戦の詳細立案を任された樋端は一計を案じたのだ。

 それは、比叡がドック入りを余儀なくされているために戦隊を組む相手がいなくなった金剛型高速戦艦霧島を第八艦隊に預け、水上艦艇による通商破壊作戦を実施するというものである。

 ドイツ海軍やインド洋での戦訓もあり、索敵さえ十分であれば水上艦艇による通商破壊作戦は十分に成り立つことは判っている。問題は敵航空戦力であったが、米軍の正規空母は第三次ソロモン海戦までに全滅している。

 そのため、霧島、第五戦隊、一個駆逐隊がい号作戦が発動された一月十日を以ってショートランド泊地を出撃、水上機母艦日進による索敵の補助を受けながら、十二日の夜にニューカレドニア方面へ南下する米輸送船団を捕捉、駆逐艦程度の護衛しかつけられていなかったこの船団を壊滅させたのである。

 これにより、米軍に日本が戦艦による通商破壊作戦を行っていると認識させる。そうなると必然的に、米側は船団護衛に戦艦を割かざるを得なくなる。

 そして実際、米海軍は一輸送船団に一隻の戦艦を護衛として配備し、戦艦戦力を分散、さらには船団護衛任務に戦艦を拘束することに成功したのである。

 その後、第八艦隊司令部は艦艇の損耗を恐れて、水上艦艇による通商破壊作戦は控えられているが、霧島は今もショートランド泊地で南太平洋を航行する米輸送船団に睨みを利かせている。

 樋端の見事な待機艦隊戦略の勝利であった。


「しかし、い号作戦は順調とはいえ、課題もあります」樋端は続けた。「現状では、内地からの輸送距離の長さ、及び艦隊燃料が問題となっています。航空機備品や航空燃料の手配は優先的に行っていますが、それでも限界はあります。艦隊燃料については、油槽船の絶対数がそもそも不足している状況であり、第八艦隊の全艦を投入しての長期の通商破壊作戦が不可能となっております」


「インド洋作戦の時とは状況が違うと?」


「はい。昨年から始まっているインド洋での通商破壊作戦は、油田地帯に近いリンガ泊地を根拠地として行っていることもあり、燃料問題はそれほど深刻ではありません。また、対岸のシンガポールのセレター軍港で艦艇の整備も行えるため、艦隊泊地としては理想的な環境にあるのです」


「まるで、トラックが艦隊泊地として不十分だと言いたそうな口ぶりではないか?」


 黒島先任参謀がむっとした口調で口を挟んだ。

 これまで連合艦隊の作戦立案に深く関与し、山本からの信頼を得ていた彼であったが、最近ではその影響力に陰りが見え始めていた。

 ミッドウェー海戦の敗北で彼の作戦構想能力や前線における判断能力の限界を露呈してしまったこともそうだが、第三次ソロモン海戦以後、それまで断絶状態に近かった山本と宇垣の関係が修復に向かっていることも大きかった。

 そうした状況に加えて、「秋山真之以来の逸材」との呼び声高い樋端久利雄の登場である。

 今回のい号作戦も、立案の中心人物は樋端であった。

 黒島としては面白いはずもない。


「実際問題、トラックは艦隊泊地としては不十分でしょう」樋端は黒島の問いかけに明瞭な口調で応じた。「燃料備蓄の問題もそうですが、艦隊を整備する設備が存在しません。現在は工作艦明石に頼っていますが、それでもおのずと限界があります」


「樋端君」そこで、山本が声を上げた。「今年度中には来年度の作戦計画、第三段階作戦計画を陛下に上奏し、裁可していただかなくてはならない。そこに連合艦隊の意見を反映させるためにも、君の率直な意見を聞きたい」


「はい」


「我々は、ガダルカナルを、ソロモンを維持すべきだと思うかね?」


「根本的な問題として、永続的な維持は不可能でしょう」樋端は、あっさりと認めた。「前線への輸送の問題の他、先ほど申し上げました後方支援基地の不十分さから考えて、なるべく早い時期に戦線を縮小すべきだと思います」


「私も、同じ意見です」


 そう言ったのは、宇垣参謀長だった。実は、彼は十二月の段階でガダルカナル撤兵論を唱えていた。

 第三次ソロモン海戦で戦艦大和以下第一戦隊が長期のドック入りを余儀なくされ、これ以上、ガ島を守備出来る有力な艦隊が存在しなくなってしまったことが原因であった。

 山本も、宇垣の撤兵論に同感であった。

 もともと、ガダルカナル攻略作戦は米豪分断作戦の一環で行われたものである。しかし米豪分断は、オーストラリアによる単独講和、停戦の申し込みがない以上、破綻していると考えるべきだろう。

 それが、山本と宇垣の共通認識であった。

 ある意味で、山本と宇垣は樋端に、ガダルカナルの維持を不可能だと言わせるために誘導しているようなものだった。それによって、連合艦隊司令部内の意思統一を図ろうとしていたのである。

 そもそも、米豪分断作戦は統帥部の作戦構想と政府の外交政策が連動していないものであり、最初から破綻は目に見えていたのである。

 その点では、ガダルカナル攻略は無意味に戦線を拡大してしまっただけであるともいえよう。


「現状では、昨年のガ島攻防戦で米軍が弱体化しており、戦況を有利に進めているように見えますが、それは一時的なことです」


 樋端ははっきりと断言した。


「しかし、ガ島の維持はニューギニアの連合軍を孤立化させる上でも重要です」


 そう言ったのは、政務参謀の藤井茂中佐であった。彼は日米開戦前、日本の南部仏印進駐を決定した「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」、そして対米開戦決意を記した「帝国国策遂行要領」の策定に関わるなど、政治面に深く関わってきた軍人であった。


「それに、ガ島には陸軍第二師団も守備についています。もともとガ島攻防戦は我々海軍が始めて、陸軍を巻き込んだようなものです。だからこそ、陸軍への面子を保つ必要があります。海軍が安易な撤兵論に傾くわけにもいきません」


「ニューギニアの維持は必要ですが、陸軍が北部での持久作戦を行っているように、全土が必要なわけではありません。最低限、連合軍のフィリピン侵攻作戦の拠点となるのを阻止し、そしてバリクパパンなど油田地帯が米重爆隊の航続圏内に収められないようにすればよいのです。そのためには、ニューギニアの北西部……陸軍の言うところの“亀の首”……だけの維持で十分です」


「つまり、樋端君。君の言う戦線縮小とは、太平洋方面では小笠原、マリアナ、パラオ、北西部ニューギニア、ティモールを結んだ線まで下がるということかね?」


「はい。長官のおっしゃる通りです」山本の問いに、樋端は頷いた。「現在、第八艦隊はソロモン方面の制海権維持の他、ニューギニア方面への輸送任務も課せられている状況であり、負担が大きいのが実情です。陸海軍の負担軽減と補給線の短縮のためにも、長官がおっしゃるような地域への戦線縮小は今後、必須になってくるかと思われます」


「君の意見はよく判った」


 トラックやラバウルの放棄も含まれる樋端の意見に、反論したいのような顔つきの参謀もいたが、山本は満足げに頷いた。そのため、他の参謀たちが樋端に反発しづらい雰囲気が出来上がっていた。


「今後、我々は長期持久体制を確立させねばならない。戦線縮小は、そのための必要手段だ。いずれ、米軍は太平洋方面で大規模な反攻作戦を目論むだろう。その時、我が帝国海軍はこれと決戦し米艦隊を殲滅、一撃講和の機会を掴む」


 山本は、参謀たちに宣言した。

 昨年の第三次ソロモン海戦の大勝利は、山本の名声をいやが上にも高めることとなった。軍令部や海軍省にも、ある程度の影響力を及ぼせるようにまでなっている。彼は、自身の影響力を最大限利用して、アメリカとの和平を目指すつもりであった。

 この頃の山本は、開戦の頃の早期講和論から、一撃講和論へと主張を移していた。根本は米軍に打撃を与えて講和に持ち込むことに変わりはないが、長期持久体制の構築によって戦争が長期化すれば、米国内に厭戦気分が広がることも期待出来る。その上で米軍に大打撃を与えれば、講和も可能なのではないかと考えているのだ。

 山本は昨年、第三次ソロモン海戦の勝利によって天皇へ戦勝を直接報告する機会に恵まれていた。その際に、天皇から海戦での勝利が日米講和に繋がることを希望するという旨のご発言を頂いたのだ。それが、これまでよりも一層、山本を和平工作運動へと駆り立てる要因となった。

 さらに、昨年末の御前会議で天皇が和平への希望を統帥部、政府に述べたことも聞き及んでいる。

 これは一九四二年十二月の大晦日に行われた御前会議のことであり、統帥部から今後の作戦指導方針を報告するためのものだった。

 その席上、天皇は異例にも発言し、政府の側に第三次ソロモン海戦の勝利を日米講和に活かせないのかと下問されたという。東条英機首相は鋭意研究中とのみ奉答したが、その後も天皇はしきりに和平工作の件を気にされているという。

 そのため、首相の東条としても一部重臣や外交官たちによる和平工作運動を取り締りにくくなっているという現状があった。

 こうした国内の状況から、山本は連合艦隊司令長官としての影響力を利用して、そして元軍令部第一部長であった宇垣参謀長の人脈を利用して、海軍内部の和平派との接触を始めていた。すでに天皇の弟で軍令部員の高松宮宣仁親王と接触、宮中勢力や外務省の和平派勢力への繋がりを構築しつつある。

 正直、山本としては連合艦隊司令長官としての業務よりも、こうした政治工作の方が自分には合っているという思いがあった。

 元々、彼は軍縮会議に海軍側委員として参加したり、海軍次官を務めるなど、軍政方面で経歴を重ねてきた人物である。連合艦隊司令長官の地位は後任の人間に譲り、自分は再び軍政家として手腕を振るいたいと、この頃の山本は望むようになっていた。

 すでに海軍次官、連合艦隊司令長官を務めた山本の次の地位は、軍令部総長か海軍大臣しか残っていない。現在の海相は「東条の副官」、「東条の男妾」とまで海軍内部で酷評される嶋田繁太郎であり、海軍内部では山本の名声から、彼を次期海軍大臣に推そうとする声も密かに上がっていた。山本としてはこうした工作に便乗し、政府主導での和平工作実現を目指したいところであった。


「とはいえ、戦線縮小の時期は問題となりましょう」


 渡辺戦務参謀が言った。

 山本の意思表示により戦線縮小論に傾いている連合艦隊司令部であったが、それをいつ実施するのか、陸軍との調整はどうするのか、という問題は残っている。


「時期は、ソロモン方面での米軍の反攻作戦が開始される以前でなければなりません」樋端は続ける。「米軍の反攻作戦が始まってからでは、秩序だった戦略的撤退が困難となり、そのまま敗走に陥る危険性があります。昨年実施したアッツ、キスカ両島からの撤退作戦同様、こちらに余裕のある時期に行うべきでしょう」


 古来、最も困難な作戦は撤退作戦であるとされる。戦線縮小問題も、当然、この例に当てはまる。

 すでに日本軍は、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島から撤退している。元々、この両島の占領は一時的なものと決められていたため、陸海軍内部で撤退作戦に対する大きな反対意見は出なかった。


「では、樋端君の見立てでは、米軍の反攻作戦はいつ頃になりそうかね?」


「様々な情報を総合しますと、米東海岸では正規空母が竣工し、慣熟訓練に入っているとのことです。これらの戦力が太平洋に回航される時期が米軍の反攻作戦実施の時期と思われますから、遅くとも本年六月頃と思われます」


「軍令部や参謀本部では、米軍の反攻は来年以降との見方が強いようだが?」


 黒島が異論を挟んだ。


「ガダルカナルの例があります。米軍は反攻するだけの戦力が揃えば、果断に我が勢力圏への反攻作戦を開始するでしょう」


 米軍のガダルカナル上陸は、日本軍にとって完全に予想外の出来事であった。米軍がガダルカナルに上陸した当時、軍内部では米軍の反攻は一九四三年以降との見方が大半を占めていたのである。


「……」


 黒島は黙り込むしかなかった。


「南太平洋には旧式とはいえ米戦艦が集結しています」渡辺参謀が懸念を述べた。「これらの戦力を集中運用すれば、現状でもガ島奪還作戦は十分に可能かと思われます」


「確かに可能ですが、現状、戦艦だけでは現在の我が軍のソロモン戦線を突破出来ません」樋端は断言する。「状況は、昨年の第三次ソロモン海戦の頃とは違っています。ニュージョージア島ムンダ、コロンバンガラ島ビラなどに飛行場が完成し、ガダルカナル周辺の制空権・制海権の確保はより確固たるものとなっています。戦艦部隊が再びガ島を襲撃したところで、現状での我が軍の優位は揺らぎません。ただ、我々が警戒すべきは、ソロモン海域での戦力を不用意に消耗させてしまうことです。再び昨年のようなガ島攻防戦が起こった場合、我が国の国力が持ちません。ですから、そうなる以前に戦線を縮小し、防備態勢を確立する必要があるのです」


「ふむ。南太平洋における米海軍の行動には当然、警戒が必要だろう」


 山本が議論をまとめるように言った。


「米軍は第三次ソロモン海戦後も、巡洋艦を利用した輸送作戦を敢行している。米海軍による行動がまったくないとは考えられない。それに、米軍がこちらの予想外の作戦行動に出る場合もある。その場合にも、即座に対応するよう、迎撃作戦の計画は策定しておかねばなるまい。また、戦線縮小の件は私から軍令部に具申してみるものとする。諸君らには、次期インド洋作戦および戦線縮小後の米軍に対する迎撃計画の研究に、鋭意努めてもらいたい」


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 現在、第八艦隊所属の各艦はブーゲンビル島南部のショートランドを泊地としている。

 また、近隣のブーゲンビル島ブインやバラレ島には飛行場が設けられ、第十一航空艦隊の拠点の一つとなっていた。

 ガダルカナル攻防戦を終えた現在、最前線の拠点はラバウルからここ、ショートランドやブーゲンビルへと前進していたのである(第十一航空艦隊司令部は現在もラバウルにあるが)。

 ガダルカナル方面での哨戒任務を終えた夕立と春雨も、すでにショートランドへと帰還している。

 泊地の中で特に目立つのは、艦隊唯一の戦艦、霧島だろう。

 昨年の第三次ソロモン海戦で戦隊を組んでいた比叡が損傷、その際に比叡と共に内地に帰還して整備を受けていたが、い号作戦発動直前に再びソロモンの海へと進出していた。なお、霧島は内地で整備を行った際、二一号電探の設置や一部副砲を撤去して高角砲を増設するなどの小規模改装を受けている。

 現在のところ、彼女は第八艦隊で唯一、電探を装備している艦となっていた。

 夕刻、泊地全体を覆うような爆音が響き渡った。だが、誰も警戒する者はいない。

 それはショートランドを艦隊泊地として以来、艦隊将兵にとっては馴染み深い騒音だからだ。


「おぉい! 手空き総員上甲板! 帽振れ!」


 夕立艦上で、吉川艦長の声が響いた。この命令も、すでに艦隊では馴染みのものとなっている。

 彼女だけでなく、他艦の甲板にも手空きの乗員たちが整列し、上空に向かって帽振れを行っていた。

 艦艇ひしめくショートランドの海面に夕日の残照を受けた影を作りながら、一式陸攻が編隊を組んで飛び去っていく。

 向かう方角は南東。

 恐らく、米輸送船団を捕捉したのだろう。

 夜間攻撃を行うため、陸攻隊の発進は夕暮れ時となっていた。そして、朝に彼らは帰ってくるのである。

 第十一航空艦隊では、基本的に陸攻隊による昼間雷撃を禁止していた。ガダルカナル攻防戦で、陸攻隊は敵艦艇への昼間雷撃で無視出来ぬ程度の損害をこうむっていた。その教訓が活かされた結果だった。

 い号作戦発動後も、その方針は変わっていない。陸攻隊は薄暮か、夜間の攻撃を中心に行っている。

 夜間雷撃は非常に高い練度を必要とするが、この頃の日本海軍陸攻隊はまだ十分な練度を誇っていた。第七〇一航空隊の檜貝襄治少佐を始めとする、陸攻隊を支える優秀な指揮官たちも健在である。

 ある意味で、い号作戦の目的である通商破壊の成功は、彼ら熟練搭乗員によってもたらされたものといっても過言ではない。

 現在、第十一航空艦隊は一五〇機以上の零戦、約一〇〇機の陸攻、約四〇機の九九艦爆、少数の九七艦攻、二式陸上偵察機、一〇〇式司令部偵察機(陸軍からの供与)から成り立っていた。文字通り、日本海軍最強の基地航空隊であった。

 第十一航空艦隊は、第三次ソロモン海戦で第二航空戦隊と共に米新鋭戦艦インディアナを撃沈するという殊勲を成し遂げて以来、い号作戦発動まで大規模な航空戦を行っていなかった。つまり、四二年十一月中旬以降、二ヶ月にわたって戦力の再編を行っていたのである。その成果が現われているといえよう。


「中攻の連中も、毎度ご苦労なことですな」


「ああ。だが、そのお陰で俺たちは米軍に対して優位に立てる」


 椛島砲術長と吉川艦長は夕立艦上で言葉を交わしながら、帽振れと共に陸攻隊の編隊を見送った。


  ◇◇◇


 日本海軍がい号作戦を発動して以降、アメリカ南太平洋方面軍司令部には輸送船団の被害報告が頻繁に舞い込むようになっていた。

 この日もまた、ハワイからヌーメアに向かっていた輸送船団が、ジャップの潜水艦と航空機に襲撃され、四隻が沈没、三隻が大破してハワイに引き返したとの報告がもたらされていた。


「ハワイからサモア、フィジーを通ってニューカレドニアに向かう航路は、ほとんど寸断状態にあります」


 沈鬱な表情で、ブローニング参謀長は言った。


「米豪間の航路で健在なのは、南へ大きく迂回するもののみです。これだけはジャップの航空部隊の航続圏外ですので、警戒すべきは潜水艦だけになります」


「だが、その航路は物資が届くまでに時間がかかりすぎる上に、輸送船団自体が大きく燃料を喰らっちまう」


 ハルゼーは忌々しげに答えた。


「それに、エスピリットゥサントに向かう船団はどうしてもジャップの襲撃を受けざるをえない。すでにエスピリットゥサントの第四航空軍は燃料の不足、予備部品の不足に悩まされて稼働率が大幅に落ち込んでいる。これを解決しない限り、南太平洋の戦局が好転することはないぞ」


「これはまだ公にされている情報ではないのですが……」


 ブローニング参謀長は声を潜めて言った。


「太平洋艦隊司令部からの情報によりますと、本国やイギリスではオーストラリアとの外交交渉を密かに始めているということです」


「どんな交渉だ?」


「オーストラリア本土の戦力を増強するための兵器、物資を融通することを代償に、ソロモン戦線の後退をオーストラリア政府に認めさせるというものだそうです」


「つまり、本国もようやくガダルカナルの撤退を決定しようってわけだな」


「キング作戦部長は反対しているとの噂も聞きますが」


「ふん、本国で自分の椅子を温めているだけの奴のことなど、知ったことか」ハルゼーは鼻を鳴らし、悪態をついた。「そもそも、俺たち合衆国が軍事作戦を行うのに、いちいちオーストラリアの連中の顔色を窺っている方がおかしいんだ」


「オーストラリアが連合国陣営に残るか否かは、軍事的だけでなく、政治的にも重要なことです」ブローニングは言う。「特に、英連邦国家であるオーストラリアが陣営から離脱すれば、それはイギリスにとって大きな政治的打撃になります。ジャップのインド洋進出で、インドでは反英運動が盛り上がりを見せていると聞きますし、これ以上の英国への政治的打撃は防がなければなりません。枢軸軍陣営が優勢な現状では、なおさらです」


「ったく、戦争ってのはもっと単純であるべきだな。余計な政治的しがらみの所為で死んでいく将兵に、俺たちはどう顔向けすればいいんだ?」


「……最善を尽くす、それ以外にはありません」


 苦い表情と共に、ブローニングは答えた。


「ああ、その通りだよ」


 吐き捨てるように、ハルゼーは同意した。政治的束縛によって作戦行動が制限されることに、心底憤慨しているらしかった。


「おい、ブローニング。先日言った戦艦部隊によるガ島突入作戦だがな、あれを輸送作戦用から撤退作戦用に計画を変更してくれ。ガ島の海兵隊三万を一気に撤退させられるだけの船と、飢えと熱帯病に苛まれている彼らのための食事と医薬品、医療設備の準備だ。本国から正式に撤退命令が出次第、実行するぞ」


「アイ・サー。ただちに取りかかりましょう」


 ようやく撤退へと動き出せたことに、ハルゼーとブローニングは安堵にも似た感情を抱いていた。だが、同時に撤退作戦の困難さを思うと、決して明るくはなれない。それに、撤退するということは合衆国がジャップに負けたことを認めるようなものなのだ。

 いったい、ミッドウェーでの勝利は何だったのか。

 彼らは、真剣にそう悩まざるを得なくなっていた。


   ◇◇◇


 一九四三年一月二十七日。

 内地では冬真っ盛りであろう時期であっても、南方の一大航空拠点たるラバウルは赤道直下地域特有の暑さに包まれていた。

 海風と暑気が混じり合う空気の中に、航空機の奏でる爆音が響き渡った。

 その音は、北方から響いてきた。


「来たか」


 風通しをよくするため、高床式の木造建築となっている航空部隊指揮所で、司令長官たる草鹿任一中将はぽつりと呟いた。

 籐椅子から立ち上がると、制帽を被って外へと向かった。参謀長の中原義正少将、そして連合艦隊司令部から転任してきた先任参謀の三和義勇大佐などがそれに従う。

 爆音の正体、それは多数の一式陸攻の編隊であった。

 濃緑色をまとう双発の機体が、次々と火山灰の埃を巻き上げながら滑走路へと着陸していく。それは、航空隊の練度の高さを示す整然とした着陸であった。

 最後に、上空を旋回して僚機の着陸を見守っていた一式陸攻が、一際滑らかな機動で滑走路へ進入、両輪を一度だけ跳ねさせる見事な着陸を披露した。

これで、合計二十七機の一式陸攻がラバウル西飛行場への着陸を果たした。

 発動機の轟音がなおも響く中、最後に着陸した一式陸攻の後部、そこに設けられた扉が開き、一人の搭乗員が居並ぶ第十一航空艦隊司令部の面々に向け駆け寄った。

 猛々しさすら感じられる精悍な顔つきのその搭乗員が、草鹿中将以下の司令部要員に敬礼し、堂々たる口調で宣言した。


「第二十四航空戦隊麾下、第七五二空、野中五郎少佐以下一八九名、ただいまラバウルに着任いたしました」

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