11 撤収作戦

 蒼穹を切り裂いて、一匹の鋼鉄の鳥が空を飛んでいた。

 全体的に丸みを帯びた特徴的な形状の双発航空機。

 大日本帝国陸軍一〇〇式司令部偵察機である。

 とはいえ、垂直尾翼に書かれた識別番号は、海軍第十一航空艦隊のものであった。

 発動機の轟音を南溟の空に響かせながら、機体は南下を続けていた。眼下に見えるのは、眩しいほどの蒼さを湛えた珊瑚海である。そこに、断片的に雲が浮かんでいた。

 高度六〇〇〇メートルを飛ぶことしばし。

 機体の進行方向に、青々とした緑に覆われた島影が見えた。高空から見れば、まるで海に一滴の緑色の絵の具を垂らしたような小ささである。


「機長、まもなくヌーメア上空に差し掛かります!」


 操縦桿を握っている搭乗員が、もう一人の搭乗員に声をかけた。一〇〇式司偵は二人乗りであり、一人が操縦者、一人が偵察員を務める。


「おぅし、こっちもカメラの準備は万端だ。敵機の襲撃だけには気を付けろよ!」


「了解です!」


 操縦員はスロットルを一気に開き、機体の速度はあっという間に時速六〇〇キロを超える。発動機からの轟音が、頼もしく響き渡る。

 機体は写真撮影のため、徐々に高度を下げている。

 一〇〇式司偵は、写真撮影の際が最も危険な状態であった。それは目標上空を直線的に飛ばなければならないためで、迎撃側としては対空砲火の照準を付けやすいのだ。


「ヌーメアに突入します!」


「おう!」


 鷹の如き俊敏さで、一〇〇式司偵はニューカレドニア島ヌーメア上空へと突入した。

 途端に、湾内にいる無数の艦艇たちが目に飛び込んでくる。そして、一〇〇式司偵のヌーメア突入に一瞬遅れて、湾内各所から対空砲火が打ち上げられた。機体の周囲で砲弾が炸裂し、南の空に不釣り合いな黒煙の花が開いていく。

 対空砲火の衝撃に機体を揺さぶられながらも、一〇〇式司偵は湾を高速で横切っていく。

 すでに設定のなされた一号二型自動航空写真機が動き出し、シャッターを切り続けている。


「こいつは凄いな」


 撮影は自動でシャッターを切る写真機に任せ、機長は双眼鏡で湾内の様子を確認する。

 眼下には、所狭しと連合軍艦艇の停泊する湾が見えた。


「戦艦に巡洋艦、あれは輸送船か、空母か……?」


 輸送船と空母の誤認は、日米両軍が度々犯す戦場の過誤であった。とにかく、潜水艦からの情報通り、ヌーメアに連合軍艦隊が集結しつつあることだけは確かなようだった。

 風防から見える景色が、濃い緑を湛えた山の斜面に移り変わる。ヌーメア上空を通過したのだ。


「高度戻します!」


 ヌーメアの連合軍泊地を航過したのは、ほんの数瞬のことだ。しかし、そのわずかな時間が搭乗員にとっては己の生死を左右する決定的なものなのだ。

 機体の針路が、ガダルカナル島のある北へと変わる。


「妙ですね」


 上昇を続けていく一〇〇式司偵で、操縦士が呟く。


「ああ、電探を持つという米軍にしては俺たちへの対応が遅すぎる」


 機長は後部座席に備えられた無線通信機の電鍵を叩きながら応じた。万が一撃墜されて写真が持ち帰れずとも、少なくとも自身の見た情報だけは第十一航空艦隊司令部に届けようとしているのだ。


「もっと迎撃があると思っていたが」


 本気で死を覚悟してヌーメアに飛び込んだにしては、拍子抜けするほどの結果であった。


「罠、ですかね? あるいは、敢えてあれだけの戦力を我が軍に見せつけて、こちらを威圧しようとしているんでしょうか?」


「判らん」機長は首を振った。「取りあえず、そういう判断はうちのお偉いさんがするだろうよ。俺たちは、とにかく写真を司令部に届けられればいい」


「宜候、了解です」


 やがて、一〇〇式司偵はぎらつく太陽の照りつける南洋の空へと消えていった。






 けたたましい空襲警報が、ヌーメア市街に鳴り響いていた。


「おい、どういうことだ!」


 市街にあるアメリカ軍南太平洋方面軍司令部で、ウィリアム・F・ハルゼー中将は部下に報告を求めていた。


「申し訳ございません! レーダーで捉えた機体は、ジャップの航空機であったようです!」


「貴様! 真珠湾で同じ失態があったことを忘れたのか!」


 ハルゼーは怒りのあまり、報告に来た防空担当の士官を怒鳴りつけた。

 一九四一年十二月七日(日本時間八日)、ハワイのレーダー基地は日本軍の大編隊を捉えておきながら、それを本土からやってくるB17の編隊と誤認するという事件があった。報告と確認を怠ったが故の失態であった。

 それと同じことを、ヌーメアのレーダー基地は犯したのである。ハルゼーが怒りを抑えきれないのも無理はなかった。


「問題は、ジャップの偵察機の来襲で島全体が殺気立っていることです」


 参謀長であるマイルズ・ブローニング大佐が口を挟んだ。


「本日午後には、ハワイからノックス長官やニミッツ長官が飛行艇にて来島します。誤って撃墜するような事態になれば、大変なことになります」


 日本軍機をレーダー員たちが見逃してしまった理由。それはこの日、一九四三年一月二十八日、南太平洋の戦局全般について現地司令部との意見調整のために、太平洋艦隊司令部や統合作戦本部から多数の人間たちが飛行艇に乗ってやって来る日であったからである。


「ったく、何て間の悪いジャップだ」忌々しげに、ハルゼーは吐き捨てる。「おい、貴様!」


「はい!」


 いささか青ざめた顔で、レーダー基地の士官は返答する。


「今度は間違えるなよ。レーダーに写った目標の敵味方識別は厳密に行え」


「アイ・サー!」


 その士官は敬礼すると、逃げるような足取りで司令部を退出した。


「まったく、いくら何でもたるんでいやがる」


 どかりとハルゼーは椅子に腰を下ろした。


「ヌーメアがジャップの爆撃機の航続圏外だからって、安心していやがるのか? レーダーに写る影が全部味方に見えるとは、とんだお花畑野郎だな」


 厳密にいえば、ヌーメアは日本の一式陸上攻撃機の航続圏内である(一式陸攻をガダルカナルに配置した場合)。しかし現状では、ヌーメアを一式陸攻が空襲したことはないため、ハルゼーを始めとするアメリカ軍関係者はそう判断していた。


「各部署に、再度、気を引き締めて任務に当たるよう伝達いたします」


「うむ、そうしてくれ」






 その数時間後。

 ヌーメアの港に、四発の大型飛行艇PB2Yコロナードが着水した。対潜哨戒や海難救助など多彩な任務に活躍するカタリナ飛行艇と違い、もっぱら輸送任務に使用されている飛行艇であった。

 港から内火艇が出され、搭乗者たちを移乗させていく。

 桟橋で待機しているハルゼーら南太平洋方面軍司令部の者たちが、やってきた飛行艇の搭乗者に向けて一斉に敬礼した。

 海軍長官フランク・ノックス、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将。

 合衆国の戦争指導を司る、重要人物たちであった。


「出迎えご苦労」


 ハルゼーたちに答礼しながら、ニミッツたちは桟橋を過ぎていく。それに、南太平洋方面軍司令部の者たちが続く。


「統合作戦本部の決定については、すでに聞かされているかね?」


「ええ。ニミッツ長官から連絡を受けています」


 ノックスの問いに、ハルゼーは答えた。


「ならば話が早くて助かる。とはいえ、私が決定に関わったわけではないがね」


 自嘲を込めて、ノックス長官は言った。

 彼は海軍長官ではあるが、文民であった(陸軍軍人としての経歴はある)。海軍の実際の指揮権、日本でいうところの統帥権は海軍作戦部長のアーネスト・キングが握っており、両者の関係は必ずしも円滑とはいえなかったのだ。

 そして、ノックスは統合作戦本部への出席権を持たない。統合作戦本部は、議長のウィリアム・リーヒ海軍大将、海軍作戦部長アーネスト・キング大将、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将、陸軍航空軍総司令ヘンリー・アーノルド大将の四名で構成されており、合衆国の戦争指導はこの四人とルーズベルト大統領が中心になって行っていたのである。

 やがて一行は用意された車に乗り込み、会談場所である南太平洋方面軍司令部へと向かっていた。

 そしてこの日、連合国の対日戦略を左右する重大な決定が南太平洋方面軍司令部に通達されることになったのである。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 ブーゲンビル島南部のショートランド泊地に、珍しく空母が入港していた。

 アイランド型の艦橋はなく、全体的に平たい印象を与える小型空母、大鷹であった。本土から第六駆逐隊の護衛の下、航空機輸送のためにやって来たのであった。

 飛行甲板上にはずらりと九九艦爆が並べられており、艦内格納庫にも機体を満載していた。艦内にも、搭乗員や整備員を乗艦させている。

 一九四三年初頭、空母大鷹は海軍機の輸送任務を、雲鷹は陸軍機の輸送任務を分担して行っていた。

 大鷹に搭載されたこれら九九艦爆は、内地で訓練に従事していた第五五二航空隊の所属機であった。一九四三年一月初めに訓練を完了し、ソロモン戦線への進出を命じられたのである。

 先日も七五二航空隊の一式陸攻がマーシャル方面から配置換えとなってラバウルに進出しており、第十一航空艦隊の兵力は徐々に増強されていた。とはいえ、ソロモン戦線に配備された航空部隊は損耗と補充を繰り返しており、現状では米軍の弱体化によって辛うじて補充が損耗を上回っているだけである。

 昨年のような熾烈な攻防戦が起これば、第十一航空艦隊は短期間で戦力を消耗してしまうだろう。

 第十一航空艦隊の優位は、米軍に反攻作戦を行うだけの力がない現状での一時的なものであったのである。


「まったく、GF司令部も人使いが荒いものだ」


 ソロモン諸島の鬱蒼とした緑を見つめながら、大鷹の艦橋で篠田太郎八艦長は苦笑と共に呟いた。

 大鷹は昨年九月、トラック島沖で米潜水艦の雷撃を受けて損傷した。修理自体は十日で終わり、その直後に篠田大佐は着任したのだが、それからは横須賀、トラック、マニラ、シンガポールを行き来する任務が続いていた。

 まさしく、日本の勢力範囲を東奔西走していたのである。


「まさかラバウルを通り過ぎて、ショートランドまで来ることになろうとはな」


「何ともまあ、地の果てといった感じを受けますな」


 傍らに立つ航海長も、艦橋から見える景色に苦笑を浮かべていた。


「ラバウルはまだ市街地があった分、まだ港町といった風情がありましたが、こことは何とも……」


 これまで大鷹が航空機輸送のために帰港した場所は、トラックやマニラ、シンガポールなど都市や港として整備された場所であった。

 ショートランド泊地は、周囲をブーゲンビル島やショートランド島といった大小の島々に囲まれた地であった。これまで大鷹が訪れた港と比べれば、殺風景な印象を受けるのだ。

 停泊している重巡鳥海を始めとする艦艇群には頼もしさを覚えるが、周囲の光景との落差が激しい。これが瀬戸内海の島々を背景にしているならば、絵にもなろうが……。


「第八艦隊や水雷戦隊の連中は、こんなところで戦っているんですな。まったく、頭が下がりますよ。本艦にも、しっかりとした航空隊を載せてくれれば、彼らの助けになれるんでしょうが」


「おいおい、航海長。この大鷹は最大速力二十一ノットの鈍足空母だぞ。あそこに見える霧島なんかと比べても圧倒的に遅い。連中には連中なりの役割があるように、俺たち特設空母には特設空母なりの役割がある。例えこの大鷹が直接彼らの助けとなれずとも、この大鷹が運んできた航空機と搭乗員は必ず、彼らの助けになるはずだ。そのために、俺たちはここまでやってきたのだからな」






「隊長、我々に引き続いて五五二空の連中もやってきたそうですよ。一旦、バラレ基地に降ろした後、ガ島に進出するんだとか」


 ブーゲンビル島ブイン飛行場の搭乗員宿舎で、一人の搭乗員がそんな噂話を持ち帰っていた。


「へぇ、そいつは結構な話じゃねぇか」


 部下から隊長と呼ばれた男、第七五二航空隊の野中五郎少佐は、侠客じみた特徴的な口調で部下の話に応じた。


「ってことたぁ、俺たち第二四航空戦隊の、戦闘機以外はほとんどこっちに集まっているってことだな?」


 第七五二航空隊と第五五二航空隊は、ともに第二四航空戦隊の麾下部隊であった。


「と、いうことでしょうな。いや、今から腕が鳴りますよ」


「まあ、そう急くんじゃねぇよ。こちとら、まだこっちに来て日が浅いんだ。他の陸攻隊の連中との連携訓練やら通信の調整やら何やら、やんなきゃなんねぇことが沢山ある。出撃は、それが終わってからだな」


「了解であります。ときに隊長、何をお書きになっているので?」


 野中は、現地で作られた粗末な机の上で海軍罫紙に何かを書き込んでいた。海軍罫紙を使っているということは、家族などへの手紙ではないだろう。


「ああ、これは陸攻隊の新戦法についての意見具申書だ。先にソロモンに進出していた陸攻隊の連中から話を聞いてな、米軍の対空砲火も馬鹿になんねぇらしいし、夜間雷撃の効率を上げるためにも今まで通りの雷撃法じゃあ限界があるからな。まあ、採用されるかは判らんが」


 そう言いつつも、野中は熱心にペンを動かし続けていた。

 後に「車掛かり戦法」と名付けられる陸攻隊による飽和攻撃、その発案はこの一人の陸攻隊隊長によって成されたものであった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「一部の者はすでに聞き及んでいることと思うが、大統領閣下はガダルカナル島からの撤退を決断された」


 ヌーメアの南太平洋方面軍司令部にて、ニミッツ太平洋艦隊司令長官はそう宣言した。

 わざわざ「大統領閣下」と言うあたり、本国においてどのような議論があったのかが判る。統合作戦本部では制度上、議長と三人の大将によって作戦計画が決定されるが、実質的に仕切っているのはキング作戦部長とマーシャル参謀総長であった。

 大統領による決定が必要だったということは、キングとマーシャルの意見が噛み合わなかったことを意味する。恐らく、キングは最後までガ島撤退に反対したのだろう。

 今、会談の場にいるのは、ニミッツ、ノックス、ハルゼーの他に、南西太平洋方面航空隊司令ジョン・F・マッケーン海軍少将、デビット・ペック海兵准将、南太平洋陸軍司令官ミラード・ハーモン陸軍少将ら南太平洋戦線を管轄する将官らとその参謀たちであった。


「南太平洋方面軍司令部では、物資輸送のための新たな作戦計画を立案、作戦準備中とのことであったが、それらはすべて撤退作戦に切り替えてもらうこととなる」


 ハルゼーがブローニング参謀らに立案を命令した、戦艦部隊による再度のガ島突入作戦。それは当然、上級司令部である太平洋艦隊司令部にも伝わっていた。


「幸い、作戦準備のために南太平洋に分散していた艦隊兵力はヌーメアに集結しつつある。これらを活用し、ガ島に孤立する海兵隊将兵三万の救出に当たってもらいたい」


「ガ島突入作戦は、ハルゼー提督の命により、撤収作戦への切り替えが可能なよう策定してあります」


 発言したのはブローニング参謀長であったが、口調はいささか慇懃無礼なものとなっていた。

 ソロモン戦線での苦闘を実際に体感している彼ら方面軍司令部にしてみれば、本国の決定は遅きに失している感を拭い去れないのだ。

 日本軍によるい号作戦発令以来、ガダルカナルだけでなく南太平洋戦線全域が危機に陥っている。そのような軍事的、精神的重圧の中で、司令部の人間たちは肉体的、精神的に消耗しつつあった。

 そうしたところに、いままでガ島の維持を命令していた本国が一八〇度方針を変えたという決定。

 もともと短気な性格をしているブローニングとしては、我慢ならないところであった。何故、もっと早く決定しなかったのかという苛立ちがある。


「なるほど、南太平洋方面軍の先見の明に、太平洋艦隊司令長官として感謝する」


 一方のニミッツはブローニングの怒りを察しつつも、温和な口調でそう述べた。現在進行形で気難しい上司(キング)と扱いづらい部下(ハルゼー、ターナー、スミス)に挟まれているニミッツにとって、部下に多少無礼な態度を取られたところで気にするようなことでもない。

 ある意味で、苦労人特有の人間関係調整能力の高さのなせる技であった。

 とはいえ、そうした人格者ニミッツとは違い、ノックス長官の方は露骨に不快な表情を見せていた。大統領の側近の一人である彼にしてみれば、大統領命令が下った以上、南太平洋方面軍司令部としてはそれに従順に従うべきだと考えているのだ。ブローニングの、ある種の反論じみた言葉は文民統制を基本と考えるノックスにとって腹立たしいものであった。


「では、後ほど南太平洋方面軍の腹案を説明してもらうとともに、作戦の詳細を我が太平洋艦隊司令部との図上演習によって詰めていこう」


 ニミッツはブローニングとノックスが衝突しないよう、会話の主導権を握りつつ話を進めていく。


「さて、ガ島からの撤退後の南太平洋戦略について、方針を話させてもらおう」


 彼は集まった将官を見回して言った。ガ島撤収は、所詮は戦術行動に過ぎない。それも含めて、南太平洋での対日戦略をどうするのかが問題なのである。


「諸君には苦労をかけると思うが、統合作戦本部は本年四月頃のトーチ作戦再興を目指し、陸海軍ともに準備を進めている。そのため、最新鋭空母エセックスを始めとする空母機動部隊を太平洋に回すことは出来ない。北アフリカには旗幟を鮮明にしていないフランス艦隊がおり、イギリスがマルタ島以東の地中海の制海権を失っている現状ではイタリア艦隊も警戒しなければならない。現状は、北アフリカのフランス艦隊を枢軸軍に合流させないこと、イギリスの政治的・軍事的窮地を救って我が連合軍陣営の協力体制を万全のものとすることを重視しなければならないのだ」


「また、ソ連には昨年十一月にトーチ作戦を実施する旨を伝えてしまったため、それが延期となったことでスターリンの対米英不信感が増大している。これを解消するためにも、トーチ作戦は実施しなければならんのだ」


 ノックス長官がニミッツの発言に付け加えた。彼がそれ以上発言して会話の主導権を握られる前に、ニミッツが再び口を開いた。


「こうした状況に鑑み、本年八月までは太平洋戦線で守勢に回ることが決定された。その頃には、エセックス級二番艦ヨークタウンⅡも戦力化出来、またインディペンデンス級軽空母も四隻ないし五隻が戦列に加わることが出来るはずだ」


「ニミッツ長官、少しよろしいでしょうか?」


 挙手をしたのは、ハルゼーであった。会談の場であるので、流石に普段の大雑把な口調は改めている。


「何だね?」


「これは機密に属する情報かもしれませんが、例の艦、BB-67の建造決定が大統領命令で成されたことで、以後の航空母艦の竣工時期に影響が出る可能性はありませんか?」


 その言葉を聞いて、ニミッツは苦い表情を浮かべた。


「ああ、君の懸念する通り、すでに竣工間近な艦はともかく、来年に就役を予定していた艦の竣工は遅れる可能性がある」


 BB-67。

 それは、アメリカ海軍が合衆国最強を目指して設計した戦艦、モンタナ級一番艦モンタナに付けられた番号であった。

 太平洋戦争の開戦に伴って、他の艦種の建造が優先されたため建造命令が下りていなかったのだが、ガダルカナル沖海戦(第三次ソロモン海戦のアメリカ側呼称)で最新鋭戦艦四隻を失うという大損害を受けた結果、ついに昨年十二月初め、大統領命令によって建造が開始されたのである。現在は恐らく、フィラデルフィア海軍工廠にて竜骨の据え付け作業が行われていることだろう。


「ガダルカナル沖海戦の結果、ジャップの最新鋭戦艦に対抗する必要があるとのことで、二年以内の竣工を目指すよう大統領からの命令が下っている」


 ハルゼーはニミッツの返答に唇をねじ曲げて不満の意を表していた。

 来月、つまり四三年二月にはアイオワ級戦艦一番艦アイオワが竣工するが、彼女は起工から竣工まで二年五ヶ月かかっている。それをさらに短縮するというのだ。

 そして、例え期間内に竣工出来たとしても戦力化は一九四五年以降になるだろう。

 そのような戦艦に頼るくらいならば空母の建造を優先すべきだと、航空主兵主義のハルゼーは思う。

 ガダルカナル沖海戦のような戦艦同士の決戦は、あくまで偶発的状況が引き起こしたものだと彼は考えている。両軍が航空兵力を消耗してしまったからこそ、合衆国もジャップも戦艦に頼ったのだ。

 合衆国が大量の空母を就役させてジャップの航空部隊を圧倒すれば、二度とそのような奇妙な状況は起こらないだろう。

 本国の大艦巨砲主義者は何も理解していないのだと、ハルゼーは内心で憤慨した。


「さて、話を南太平洋戦略に戻すが、我が軍のガ島撤収はオーストラリア政府に重大な懸念を呼び起こす可能性があるとして、国務省とイギリスはかの国の政府と交渉を続けてきた」


 オーストラリアを連合国陣営から脱落させないこと。

 これが、アメリカとイギリスの共通認識であった。オーストラリアが日本に対して単独講和を決意してしまえば、それだけで連合国陣営には軍事的・政治的打撃となる。

 英領インドで反英運動が激化し、北アフリカのフランス軍が旗幟を鮮明にしていない現在、連合国陣営の劣勢を印象づけるようなことは何としても避けなければならなかった。


「そのためガ島撤収後、エスピリットゥサントのB17を中核とする第四航空軍は、オーストラリア防衛のためオーストラリア本土へと配置換えとなる。南太平洋の航空隊は、基本的に基地防空のための戦闘機隊と対潜哨戒のための飛行艇や爆撃機のみを配置することになる。船団航路に関しても、日本軍航空隊の航続圏外となる迂回コースを取らせ、被害の極限に努める。日本軍に対しては潜水艦を用いた通商破壊作戦を行う以外、積極的な作戦行動は取らず、艦隊兵力の温存に努めるものとする」


 あまりにも消極的過ぎる作戦方針に、南太平洋戦線を預かる将官たちはニミッツに険しい表情を向けた。

 潜水艦を用いた通商破壊作戦はすでに行っており、新規の作戦行動ではない。

 この作戦方針は、合衆国がジャップに敗北していることを自ら認めるようなものであった。状況は、真珠湾攻撃後よりも悪い。あの時は、空母部隊が健在であったため、太平洋各地のジャップの拠点にゲリラ的な空襲をかけるという作戦がとれたが、現在の太平洋戦線に存在する空母は三隻の護衛空母だけである。

 さらに問題なのは、合衆国の魚雷は深刻な不調を抱えているため、通商破壊作戦が思ったほどの効果を上げられていないことであった。兵器局による魚雷の改良作業が行われているが、ガ島攻防戦の激化によって一時的に改良作業が停頓しているという。

 理由は言うまでもなく、潜水艦によるガ島輸送作戦が実施されたことである。ドラム缶やゴム袋に物資や食料、医療品を詰め込んでの潜水艦輸送を行っているのだが、それでは効率が悪いということで、兵器局は潜水艦に搭載する物資輸送専用の運貨筒の開発を始めていたのだ。

 運貨筒は何種類か開発されているが、その一部には魚雷を改造して目的地手前で潜水艦から発進させる形式のものもある。これの開発のために、魚雷の改良作業は停頓してしまったのだ。

 今月、その自走式運貨筒がようやく実用の段階になり、現在本土の工場からヌーメアに輸送中とのことだったが、それが届くよりも撤退作戦の決定が早かったようである。

 完全なる時間と労力の浪費であった。

 そして、ガ島への輸送作戦に潜水艦を投入した結果、四三年一月末の時点で八隻の潜水艦を喪失している。この損害もまた、対日通商破壊作戦に暗い影を落とすことになるだろう。

 少なくとも、今年いっぱいは潜水艦作戦における問題が解決されることはないだろう。


「現状、合衆国が置かれている状況は、昨年よりも悪化している」


 ニミッツは、噛んで含めるような調子で説明を続けた。


「今は、忍耐の時なのだ。いずれ我が国は優勢な艦隊兵力を以って日本海軍を撃滅することとなる。しかし、それは今ではない。どうか、理解して欲しい。あの悪夢のような真珠湾攻撃とその後の苦境を乗り切った貴官らであるならば、この試練もまた乗り越えられるものと信じている」


「……判りました。ニミッツ長官がそうおっしゃるのであるならば」


 ハルゼーが苦痛を耐えるような声で、そう答えた。

 彼はこのドイツ系移民出身の太平洋艦隊司令長官の心情を察していた。ニミッツは約二ヶ月に一回、意見調整のためにキング作戦部長と会っている。ガ島撤収反対派のキングに、根気よく説得に当たったことだろう。彼にとっても、対日侵攻作戦の後退は苦渋の決断だったに違いない。

 結局、南太平洋戦線を預かる他の将官たちも、大統領命令とあっては異議を唱えることも出来ず、以後の会談内容はガ島撤収後の対日戦略の調整となった。

 ここに、合衆国によるガ島撤収作戦は実行の段階に移されることとなったのである。

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