第7話
マルシュアは静かに耳を傾けるのみだったが、ヤーヤムを見つめる視線は気遣わしげだ。
一方男は、隣に立ってはいるものの、顔を彼女に向けることはせず、角灯の明かりの届かない書架室の暗闇を見つめていた。
「元々、気分の浮き沈みの激しい方ではあったけれど、戻ってきてからの兄ははっきりと様子が変わってしまいました」
それこそ、狂乱というのは、ああいう状態をいうのでしょうね。
ヤーヤムは暗い諦観を含んだ声で言葉を吐き出した。
サザーリはまず、ほとんど眠れなくなった。夜となく昼となく、絶叫とともに飛び起き、屋敷を徘徊する。
事件からすこし時が経ちほとぼりが覚めたころには、かつての遊び仲間たちが名高い放蕩者を再び盛り場へ
王都の人々は大臣の不詳の息子がおとなしくなったと噂したが、実際には屋敷の人々の並々ならぬ努力によって、彼の狂気が漏れぬよう計らわれていたにすぎない。
またサザーリは火をひどく嫌うようになった。蝋燭すら灯すのを拒んだから、ヤーヤムは何度、兄のために角灯に光を点けただろう。
召使いの目を盗んで姿を消したために、屋敷中をひっくり返して捜索したこともある。彼は庭の片隅にある池に浸かり震えていた。その後は風邪をこじらせて何週間も死のふちをさまよう事態となった。
窓から飛び降りようとしたことなど数えるのも馬鹿馬鹿しいほどで、一族の誇りたる美しい屋敷のあらゆる窓は、無粋にも板で塞がれた。
暴れ、泣き叫び、会話は成立せず、そんな息子を父クレドスは辛抱強く見守った。職務のために家を空ける時間が長く、召使いに任せきりになる罪悪感か、戻ればことさら息子と過ごそうとした。
そうして、二年。
「この春のことです。私たちは兄を屋敷の中でまで閉じ込めることはしたくなかった。敷地の中ならばどこへでも、誰かが目をかけて、行きたい場所に行けるようにしていました。その時も、召使いを振り切って兄は庭に飛び出しました。探し出した時には……」
サザーリを最初に見つけたのはヤーヤムだった。
美しく整えられた薔薇園の、ほころびはじめた蕾が目に鮮やかだったのを、ヤーヤムは印象深く覚えている。
兄は小さな噴水を丸く囲む薔薇の生垣にもたれかかり、炭化した無残な遺体となっていた。
「兄にとっては、死はむしろ救いだったと言う者もいました。それは本人にはそうかも知れない、でも……」
顔を上げたヤーヤムの瞳に宿るのは、冷たい怒りだった。
「私たち家族は、そんな風には考えられない。『赤き夜』に一体何があって、兄がああなったのか。そして誰がどういう理由で彼を殺したのか」
それを明らかにしない限り、前を向くことはできない。
マルシュアは、机上できつく握られているヤーヤムの拳に、そっと手を添えた。
「すまない、辛いことを話させてしまったな。しかしそれならばなおさら、私に何ができる?過去の事件には関わっておらぬし、あなたの推測が正しければ、私は『魔法使い殺し』に狙われないのであろう?」
その通り、と頷く。
「閲覧の申請に協力していただきたいのです」
「何のだ」
にわかにマルシュアの表情は厳しくなった。
「『赤き夜』について。あの日何があったのか、最も正確で、詳細で、偽りの許されない報告書を。王宮の文書庫に保管されている、国王陛下が手ずからお読みになったはずのものを」
「その報告書に、本当に全ての真実があると思うのか?」
大図書館を出た二人は、昼食をとれる場所を探して通りを歩いている。
「陛下にすら真実を報告していないとしたら、この国の何が信頼できるというの」
男の問いに、ヤーヤムはやや憮然として答えた。
「さあ。だが仮に真実だとして、あんたが求める情報があるとも限らない」
「そうね、『赤き夜』は巷間で知られる通り魔法の実験中の事故で、隠された真実など何もなかった、なんて徒労に終わる可能性もあるでしょう」
マルシュアは、自らの名前で閲覧の申請を出すことを了承してくれた。許可を得られるかの結論が出るまで数日、期待しないで待つようにと言われて、大図書館を後にしたのだ。
「でも、兄の事件と『魔法使い殺し』の繋がりはそれしかないのよ。今はその真偽を確かめるべきだわ」
マルシュアによれば、王宮は現在、八人会議のうち半数までが殺されたために、厳戒態勢だ。
人や物の出入りは厳重に管理され、マルシュア自身も本来は、王宮に出頭し身の安全を確保するよう勧告を受けていた。
「お父さまには、幾度も書状を送ったわ。でも正直言って、それがお手元に届いているかどうかすらわからない」
異常な事態であることは間違いない。
いかに多忙の大臣とはいえ、娘からの手紙に返事ひとつ、使いの者ひとりすら出せないとは考えにくい。
「報告書の閲覧は、王宮に入り込む手段でもあるの。兄の件で、私の成人の年に行われるはずだった陛下への拝謁は、うやむやのまま流れてしまった。私自身は王宮に行ったこともなければ、中がどうなっているのも知らない」
「行ったこと……といえばお嬢さん、あんたは転移の魔法は使えるのか」
「いいえ。そうであればとっくに使っているわよ。ただ、方角認識の魔法を心得ているから、道に迷う心配はないわ」
深窓の令嬢であるヤーヤムが、足を踏み入れたこともないような下町を、まるで毎日通っているかのような慣れた足取りで歩けるのはこのためであった。
「屋敷には王都のかなり詳細な地図があったから……それを頭に叩き込んで、あとは魔法との組み合わせね」
転移の魔法ね……とヤーヤムは考え込むように首を傾げ鼻の下に指を当てた。
「今、王宮への出入りが厳しく制限されているのも、お父さまと連絡がつかないのも、そのせいという可能性はどうかしら」
「そのせいとは?」
「知っていると思うけれど、転移の魔法は、使用者が行ったことのある場所にしか飛べない。王宮は地図から推測する限りではかなり広いわ。でももし内部を熟知する転移魔法の使い手がいるとしたら、城の防衛なんて意味がないのよね」
「へえ」
隣を歩く男から、感心したような驚いたような気配が伝わってきて、ヤーヤムは少し気を良くする。
「それでも、重要人物が城のどこにいるのかを押さえていなければ、暗殺は難しいわ。当てずっぽうで飛ぶのは人目につく可能性も高まるもの」
「だろうな」
「お父さまは王宮で、文字通り身を隠しているのかも……」
昼食は結局、屋台でとることにした。
ヤーヤムは実際のところ、外で食事をした経験がほとんどない。他家の晩餐に招かれたり、滞在した際には当然食事をとるが、市井の飯屋や酒場は彼女の身分の者が出入りするような場所ではないのだ。
屋敷を出る際に、王都の下町がいかに油断ならない場所か、召使いたちにさんざん聞かされている。曰く、お嬢さま、評判を調べずにそこらの飯屋になど入ってはなりませぬぞ、客を拐かして売り飛ばすようなたちの悪い輩もいるのですから……等々。
かといって評判を知る方法などわからないし、王都に来て間もない男も同様だろうと考えた。
その点、屋台は店の格や値段に売り物の質なんぞは、扉を潜らなくても、他の客の様子を観察していればわかる。
「あなたの目で見て良さそうなところを選んでくださる?」
「それも仕事の一環?」
尋ねた男の口調は咎めるものではなかったので、ヤーヤムはすまし顔を作って厳かに告げた。
「そうよ。この困難かつ重要な任務を見事こなした暁には、私から最上級の感謝を寄せましょう」
「なぁに、言ってるんだか」
ふ、とわずかな息遣いを、ヤーヤムは感じた。この男と出会ってまだたったの二日、だがその二日間ではじめて、ほんの少しだけ、笑いの気配を漏らしたのだ。
「……あなた」
「なんだ?」
振り向いた時には、もうその気配はすっかり消えていた。
「なんでもないわ。さあ、早く何か食べなくては。午後も行くところがあるのだから」
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