第2話
女性が重い鉄扉を押し開けて酒場に入っても、今度は小路に馬車で乗り入れたときのようにあからさまな視線を浴びたりはしなかった。
なにしろ下町を歩いてもスリや物盗りに付け狙われないよう、抜かりなくありふれた冒険者風の装束を整えてきている。
頭巾のついた外套は着古したものをわざわざ屋敷の召使いから貰い受けたし、革の胴着や荒い麻織の貫頭衣も同じような方法で用立てた。加えて、馬車を降りる時から人目をひかぬためのささやかな魔法も使っている。
とはいえ、育ちの良さからくる美しく伸びた背筋や動作の優雅さは隠すことができない。それが結果的に、この女冒険者はここらの界隈では見ない顔だが、いずこかで名を上げた
そういったわけで、酒場に集う冒険者に仲介屋、情報屋、手癖の悪いごろつきに野盗くずれの者ども、みな一度は横目で彼女を確認しさまざまな考えを巡らせたが、様子を探る以上のぶしつけな視線を向けるには至らなかったのだ。
なにしろ冒険者の中でも特に魔法使いとなれば、華奢な女性や小柄な男であっても、秘めたる力は見た目からは推し量れない。女だと侮ってうかつに手を出した結果、死よりも辛い手痛いしっぺ返しを喰らった話など、いくらでもある。
それでも命知らずはどこにでもいるのか、酒場の女主人に話しかけているのをじっと見つめる男がいた。
隆々とした筋肉に堂々たる上背、腰には剣というには無骨な大ぶりの獲物を下げている。
男は、女主人に示されて二階へと続く階段に女性が姿を消したとみるや、さりげなく立ち上がってあとを追った。
酒場に集う者たちはその一連の出来事を、自分らの会話や要件の傍ら耳目に収めていた。
さてこのあと二階で繰り広げられるのはどんな出来事か。例えば男が腕力に物を言わせて女を手に入れる?女の魔法によって男の方が手酷く伸される?あるいは意外に女の方も乗り気で部屋に縺れ込むのか、はたまた男の方が見た目によらず紳士的に口説き落とすのか。
衆目の低俗な好奇心とは裏腹に、二階の廊下で起きたのはごくささやかな出来事だ。
「おい、お嬢ちゃん、あんた――」
男は階段を登り切ったところから十分に離れたあたりで、前を行く後ろ姿に声をかけた。狭い廊下は魔法の灯りで照らされているが、それを背に振り向いた女性の顔は頭巾の影になっていて、肌の白い口元だけがよく見えた。
「何か……」
ご用?と尋ねるように開いた唇は、その言葉を最後まで紡ぐことはなかった。
「ご用があるのは俺だ。すまないが、ここは譲ってもらえるかね?」
あとを追ってきた大柄な男のさらに背後に、別の男が立っている。
一体いつ、この二階の廊下に現れたのだろう?音もなく背後を取られたことに驚愕しつつも、男は腰の重たげな剣に手をかけた。しかし相手の方が一手早く、振り向く男の首筋に、黒革の手袋に包まれた五指が添えられている。
触れる以上のことをされていないのに、男は悟った。この手は自分を易々と殺せる手だ。
「わ、わかった。手を引く。そして何も聞かない、金輪際関わらない」
言われて、後から現れた男は漆黒の頭巾の下で優しく微笑んだ。
「そうか、良い子だ。行く道に幸あれ、良い冒険を。剣士さん」
古い決まり文句に送られて、剣士は下階に退散した。さて酒場で一体どのような憶測を受けるのやら、それも命があってのこと、あの場で無惨に殺されるよりは遥かに上等というもの。
残された二人は、わずかの間無言で対峙した。
首尾よくもう一人を追い払った方の男は、漆黒の頭巾つきの外套をはじめ、物陰の闇から染み出したかのような、全身黒の装束に身を包んでいた。さっきは抜かなかったが、外套の膨らみから察するに腰には長剣を帯びている。上背は退散した剣士と同じくらいあるが、こちらはかなり細身に見えた。
頭巾の下にわずかに見える顔半分が明らかにする肌の色は、明るくも濃くもない中間で、やや尖った顎に、酷薄そうな薄い唇は今は微笑みの形になっている。
「私にご用があるのだとか?」
女性は一通り男を観察し終えて、面白がるような口調で尋ねた。
「あんたの探し人は俺だよ、チュアレンのお嬢さん」
「!……では」
「仲介屋のランアレリィを訪ねただろう?」
「……いいわ、一番奥の部屋を押さえてある。そこで話しましょう」
酒場の二階に並ぶ個室は、仕事に関わる密談や取引、冒険の待ち合わせに休憩とさまざまなことに使われる。
中には円卓に椅子が四つ、窓際には長椅子があり、上等ではないが壁には綴織が、今は火のない暖炉の前には毛織りの敷物が敷いてあって、居心地の良いようにとの気遣いが感じられる。給仕に用を申し付けたい時のために呼び鈴も備えてあった。
女性は奥の長椅子に座るよう男を促し、自分は扉に近い円卓に着いた。
「ではあなたが『剛腕』のテレンドア?いえごめんなさい、思っていた感じと……違っていたものだから」
「人は見かけによらないものさ、あんたもそうだろう、お嬢さん」
含みのある言い方に一瞬眉を顰めたが、女性の方は気を取り直すように大きく息をつく。
「私が誰なのかをどうやって知ったかは、追及しない方がいいのかしら?」
「それが賢明だな。名を明かしたがらない依頼人はいるが、受ける方がそれに従わなければならない法はない。改めて御名乗り頂いても?」
「いいでしょう。私はヤーヤム・チュアレン。あなたのことは『剛腕』とお呼びしたら良いのかしら?」
「なんとでも、好きなように。早いところ仕事の話に移ろうじゃないか」
男は手を振って言い切り、椅子の上で長い脚を組み直した。
「そうね。大まかには聞いているでしょうけれど、あなたに頼みたいのは私の護衛よ。この王都に滞在中、やらなければならないことがあるの。それには表通りばかりを歩いてはいられない」
「貴族のお嬢さんが、ならず者のうろつく裏道を歩き回りたい。しかしご自慢の魔法の腕では対処しきれないことや、逆に魔法では大袈裟になるちょっとした揉め事を片付ける用心棒がいると都合がいい……こうだな?」
からかうような調子で言われ、ヤーヤムと名乗った女性はわずかに肩を強張らせたが、すぐにそれを隠すように卓の上で指を組み替えた。
「なんとでも言うがいいわ。別にあなただけに汚れ仕事をさせようというわけではないのよ。ただ、女一人だと侮られて面倒な事態になる場面は多いの。そういった無駄な厄介ごとは避けたい」
言いながら、それまで被り通しだった頭巾を脱ぎ、肩に落とす。
現れた顔は、誰もが美女と呼ぶというよりは、少々個性的だった。
意志の強そうながっしりと大きめの顎、歯を食いしばることに慣れたような締まった口元。髪は美しい亜麻色だが、流行りの髷を作るだの毛先を巻くだのは御免とばかりに引っ詰めて、簡素な覆いをかけてある。
年齢はまだ少女の域を出たばかりのようなのに、目元は厳しく、青ざめた隈まである。冬の空のような色の瞳は長い睫毛に縁取られているが、本来そこにあってしかるべき娘らしい輝きは失われていた。
なるほど鋭い者の目で見れば、彼女の相貌は深い苦悩が作り上げたものだろうと推測するに違いない。
「まずやらなければならないのは、人探しよ。あなた、最近王都を騒がせている『魔法使い殺し』については知っていて?」
男は肩をすくめた。
「ああ、リューンハウに来てまだ浅いのだったわね」
「そういう冒険者を雇いたいと仲介屋に依頼したんだろう?」
「ええ。そうね、では事件についての情報共有から始めましょう……」
第一の事件は、三ヶ月前、王都を拠点にする冒険者の中でも名高い魔法使い『高潔』のハランヘッカが無残な遺体で発見されたことで発覚した。
ハランヘッカは冒険者といっても既に一線を退き、この数年は王都の魔法学院の客員教授を主な生業としていた。
その日、彼は学院での授業を終え、王都に定住するようになってから借りている下宿に帰宅した。下宿といっても、通りに面した五階建ての集合住宅の一戸をまるごと借りて、数人の召使いを雇い暮らしていたというのだから、引退した冒険者としては極めて恵まれた境遇にあったと言えよう。
下宿は魔法学院や王都の名門大学にほど近い学生街にあり、同じ区画の壁を共有する他の住宅は、それぞれ部屋ごとに学生やら教職員やらに貸し出されている。
ハランヘッカは帰宅後、食事や湯浴みを済ませて書斎に引きこもった。これは普段どおりの習慣で、この時には召使いの誰も異変を感じ取っていない。
ことは深夜、いつもならそろそろ寝室に移動しているだろう頃合いに起きた。
召使いは常の習慣どおり、就寝前の御用聞きのために寝室の扉を叩いた。しかし中は静まり返り、返事がない。珍しくまだ書斎にいるのか、あるいはごくたまにあるように、書斎の安楽椅子で書物を抱えたまま寝入ってしまったのか。
いずれにしても様子は見るべきだろうと判断して、一つ上の階の書斎に向かった。
集合住宅は王都の限られた土地を少しでも有効に使うため、少ない面積に間口が狭く奥に長い造り、かつ一戸は上階へ延びる様式で、一つの区画は中庭を囲む形で建てられている。
ハランヘッカの下宿の場合、地階に厨房や貯蔵庫、一階は居間と食堂、二階に客間、主人のハランヘッカの寝室が三階、四階が書斎、屋根裏にあたる五階に召使いの部屋があった。
召使いは四階に足を踏み入れた途端、異変を感じた。匂いである。
ハランヘッカがこの下宿を構えた時から仕えている召使いだったが、彼にはこの匂いに覚えがあった。農村の三男坊だった男は、若い頃に隣国との戦に歩兵として召集されたことがある。
人の焼ける匂い。
果たして、最も成功した冒険者として名を知られた『高潔』のハランヘッカは、自宅書斎で黒焦げになった遺体で発見されたのだ。
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